『資本論』第一巻を読む 第3回

第2節「商品に表される労働の二重性」

ポイントは….

  1. 有用的労働に関して
    1. 商品生産と社会的分業の包含関係
      アダム・スミスは、商品生産と社会的分業を表裏の関係とみた。商品生産は社会的分業のサブセット。こうみると、商品経済なしに社会的分業の発展、生産力の上昇は考えられないことになる。これに対する暗黙の批判が含意されている。
    2. 労働だけが素材的富の源泉ではない。
      自然(力)の存在。労働は商品の価値の唯一の源泉であっても、使用価値=商品体の唯一の源泉ではない。自然のたまもの gift という観点。
  2. 抽象的人間労働に関して
    1. 労働能力一般の存在、労働の多目的性が抽象的人間労働という規定の基礎をなす。
      抽象的人間労働は三つくらいのトーンがある。第1節ででてくるのは、(1)還元論による見なし型の抽象的人間労働。ところが、この第2節のとくに後半にでてくるのは、(2)労働の実態に即した単純労働型の抽象的人間労働。この延長で複雑労働にも言及。参加者からは、「(2)はいらんのじゃないか」という声もあったが….「生理学的意味での人間的労働力の支出」というのは、ちょっと素朴で即物的すぎると感じるのはもっともですが…. ここからは読み取れませんが、そのほかに、(3)さまざまな活動に転換できるという、人間労働の合目的的性格により、とくに他者の労働と多様に連結できる側面(宇野の「生産物の立場=生産過程」)労働過程論先取り型の抽象的人間労働の規定もありうる、オバタはこれが重要だといっていましたが...
    2. 生産力が変化しても、一定の労働が形成する価値の大きさは変わらない(投下労働価値説の帰結!)

あたりでしょうか。

せっかくの機会だから、多少突っ込んだ話をしてみます。

  1. 「生理学的意味での人間的労働力の支出」という「抽象的人間労働」の規定 S.61は、第5章第1節「労働過程」のS.192-3における「合目的的活動」としての労働の規定と整合するか、読み比べてみる。そもそも労働力の「力」って、いったいなになのか、力学的エネルギーなのか、コントロールする「能力」なのか….考えてみる。
    「構想と実行の分離」が進むんだから、資本主義のもとでは、あるいは階級社会のもとでは、労働は基本的に「生理学的意味での人間的労働力の支出」になるんだ、という意見もありましたが、ホントにそこまでゆくのか、それでは労働者をあえて雇う意味はなくなる、労働を必要とするということは、やはり合目的的な活動が必要なので、それは自分の体をコントロールしながら、さらに外界をコントロールするという「能力」が問題なんじゃないか、という反論もでていいました。
  2. 「より小さい分量の複雑労働がより大きい分量の単純労働に等しい」S.59 のは、(1)商品としての「等置」によるのか、(2)「養成費」を論じた第4章第3節の S.186および第5章第2節「価値増殖過程」の末尾 S.211-2 と読み比べてみる。これは、直接には、前回議論した、「見なし」型還元論の適否を問いなおすことになる。今回はここからさらに、資本主義においてスキルがもつ意味について考えてみる。
    この問題は、人間労働とはなにか、スキルとはなにか、という本源から考えないとわからない。そして、スキルの中味をさらに分析することができると、資本主義におけるスキルの特徴も限定される。商品経済的に評価可能なスキルしか、売買の対象にはならない。つまり、スキルといっても、それは労働者の個性化(名人芸をめざすような)ではなく、逆に標準的な技能(その職種内のだれでも同じラインを求める互換性のあるスキル)である。….という話をして、労働の「型づけ」という考え方をちょっと紹介しました。

当日の議論の要旨を青字で入れておきました。