今は昔…

5月30日に世界資本主義フォーラム で話してきました。あらかた一期一会の方々でしたが、いくつかコメントをいただきました。

「マルクス経済学に一言」に一言

私の記憶に誤りがなければ、東欧社会主義に関する論文を次々に雑誌に掲載されていたのを、十代の頃から拝見してきたように思います。大先輩からご意見をいただけるとは思っていませんでした。

「要するに、20世紀末………マル経学者は、自己の『資本論』を目撃出来たはずであった。」というのはそのとおりです。ただ、私がこれを目撃した気がしたのは、社会主義の崩壊、そこでの資本主義の生成という「体制転換に際して」ではありません。「グローバリズムの底流だ」とお話しした、第三世界の局所における漸進的な資本主義的発展においてです。自覚できないまま、回り舞台がゆっくりと回転しはじめ、気がつくと今は昔、裏返しになっていたといった感じです。舞台のうえは相変わらず昔のままですが、すべてが変わってしまったのです。昔なじみの資本主義の生成・発展・没落説では、どうにも見慣れない不思議な世界にさまよいこんだ気がしてきて、資本主義の歴史的発展を根本から見直さないとならないと考えるようになった、これが資本主義の多重起源説、プレートの転換論などと少し大仰な話をするようになったワケです。

「一言」おっしゃりたかったのは、今度の「体制転換」で資本主義の発生を目撃できただろう、ということでしょう。ずっと東欧社会主義の可能性を考えられてこられた目には、これこそ資本主義の発生だろう、マルクス経済学者はなぜもっとこれに注目しないのだと、不甲斐なくみえたのはわかります。ただ、これはやはり回り舞台のうえでの一齣、舞台を動かしている原動力にはみえないのです。じゃ、その原動力は何なのか。いま書いている論文の書き出しですが

20世紀末のグローバリズムは、資本主義の歴史的発展の舞台を一八〇度回転させた。1970年代から漸進し世紀を跨いで一気に加速した新たな資本主義諸国の台頭は、19世紀末にはじまるインペリアリズムをいかほど広義に解そうと、その射程から逸脱する。この大転換は、 宇野弘蔵(1997-1977)が提唱した資本主義の生成、発展、没落という三段階のフレームには収まりきらない。この現実を捉えるべく、資本主義の発展段階論を再構成しようとすれば、その基底をなす原理論の再構築が避けられない。

といったところです。

当日、お見えになるまえに、資本主義の起源の話をしておりました。なぜ、重商主義段階などについて、長々語るのか、初対面の方々ゆえか、ほとんどご理解いただけなかったようでしたが、まさに、20世紀末に新たな資本主義が勃興した意味を知り、資本主義の行方を考えるには、重商主義段階という「神話」の解体から出発する必要があったからなのです。重商主義段階は暗黒地帯です。もう、既存の重商主義段階ではダメでしょう。資本主義がどうはじまったのか(はじまるのか)、「労働力の商品化」などというお題目をただ唱えている場合ではないのです。中味をあけて解釈し批判すべきなのです。「質疑応答で小幡も断言していたように、今日の宇野マルクス経済学は、「労働力商品化の無理」を神話的に語らなくなったそうである。」と偉そうに「小幡」という人が「断言」したのを、残念ながら私は聞き漏らしてしまったようですが、な〜るほど……

続いてもう二言

●山田宏明

マルクス経済学も岩田理論も「革命の必然性」を立証できないのなら、一種の歴史理論、資本主義の発達についての解析理論に過ぎないと思います。

そういう点では、小幡先生のプレート理論は荒削りながら、様々な歴史事象を取り込み易い柔軟さがあるように思います。

宇野理論は「イデオロギーと科学の分離」を唱えているので、革命理論にはなりませんが、宇野理論のポイントは3段階論ではなく、「労働力の商品化」には無理があることと、巨大生産設備の固定化は、恐慌による以外に、更新を困難にし、「生産力と生産関係」の矛盾が止揚できず、過剰生産から恐慌につながる、という点でしょう。

この2点が間違っていて、恐慌は必然でなく、危機論型革命論はナンセンスだ、というのなら、宇野理論も一種の歴史解釈に過ぎない、と思います。

なお、現状分析も「米国経済分析」から始まるというのももはやアナクロではないか、という気がします。むしろ、覇権の移動というか、基軸帝国主義の変化から世界情勢を見るべきでしょう。

●青山雫

小幡さんの議論は結局宇野三段階論の焼き直し以上には出ていなかった。それも基軸産業ーなぜ基軸なのかよく分かりませんがーの変遷論に改変しようというものですが、それはけっきょく、モノを生産するのが人間社会の基礎であるという古典派以来のそれこそドグマを依然として引きずっているように思います。

世界システムとしての資本主義編成の推移論という観点が全くなく、これでは、現状分析に使えない。

マルクス経済学の使命は単に資本主義の発展段階を理論的に確定することに留まるのではなく、資本主義の危機・矛盾の発現の段階的推移、それを明らかにすることにある、このことが忘れらされてはいまいか。新興資本主義国の登場が「地殻変動」だと言うがそれが今いった危機・矛盾の新たな様相を生み出しているのだろうか?そのことが問われなければ、確かに仮説実証を旨とする経済理論と経済史の「挟撃」にあってマルクス経済学は衰退するほかないだろう。

サブプライム危機や格差貧困について、まったく言及されなかったのには驚くばかりである。

やはり宇野理論の舞台設定で、「あいつはなにを演じようしているのかな」という目でご覧になっているようにお見受けしました。はじめから、「これだったらダメ」という年来のご定見をおもちで、それに照らせば、「こりゃ使えん」というとことでしょう。その点は、流派が違う、ということで一つご勘弁願うとして、芸の良し悪しはあろうというもの、当日以下の3点を中心に多重起源説、変容論的原理論についてお話ししました

重商主義段階に関しては、問屋制度に立脚した特殊な商人資本が支配する生成期の設定が、商人資本的形式、金貸資本的形式、産業資本的形式という直列的な資本の三形式論を生み、その結果、資本の一般概念は「商人資本的形式」のうちに閉じこめられ、商人資本と産業資本を両極に変容する資本の姿は原理論から放逐された。

自由主義段階に関しては、機械制大工業に立脚した産業資本を純粋 な資本主義に適合する唯一の生産システムとしたことで、協業と分業を基底とする労働組織や、機械化と熟練の両極で構成される経営様式における変容の契機が、協業・分業・機械制大工業というかたちで直列化されて封じられた。

帝国主義段階に関しては、株式資本を原理論では説明できない存在としたことが、個人資本にも結合資本にも実装されうる資本の一般概念を出発点において封じることになっている。

いずれも、当初の内的条件から 推論すれば、いわば一般的な仕様のもとに実装態が並列に分岐する構造が、純粋資本主義の圧力によって直列化され、単一像を形成するかたちになっている。こうした直列化を解き、並列的な分岐構造を具えた開口部を原理論のうちに再構築することが、グローバリズムを見すえた新たな段階論を再構成する基盤となるのである。

ので、商人資本/産業資本、労働組織・経営様式、個人資本/結合資本、どれでもけっこうです、このレベルで、ひとまずご理解いただけたかどうか、ご批評いただければ幸いです。

…ということで、ついでにもう一言。長年、いろいろなところで高座をつとめておりますと、実は、観られる立場にありながら、逆に、観ているお客さまのほうを、ついつい看てしまうものであります。なれてまいりますと、これがけっこうよく看えるものでありまして、まことに失礼な言い方ですが、いわゆる客筋というものがございます。で、ついつい、こんなことを書いたりしてしまいます。

宇野の方法論の最大の特徴は、一言でいえば媒介項としての「段階論」の設定にある。それは「原理論」– (A) –>「段階論」– (B) –>「現状分析」の三段階論の方法論として定式化されていった。しかし、 (A) と (B) ではだいぶ意味内容が違う。差し当たりの実利は (B) のほうにあった。率直にいえば、『資本論』のハードな原理に拘束されず、複雑な現象を事実に即して分析できるようになったことがプラクティカルな効果だった。マルクス主義のイデオロギーが拘束力をもっていた戦後の 日本で、三段階論は実証研究の足枷を解く役割を果たした。分析のツールとして原理論を積極的に用いるのではなく、<理論ではそうかもしれないが、現実はこうだ>という方向に研究は進んでいった。

ずいぶんヒネった言い方ですが、私は原理論、段階論、現状分析という普及版の三段階論をあまり信用しておりません。たとえ段階論を媒介にしたところで、原理論は、こんなふうに現状分析に使えるわけではありません。歴史研究や実証研究をやっている大学の客筋には、ある時代にはこういっておくと「実利」があったまでのこと、統計解析や資料整理の手法、パーツとして切りとって使える仮説モデルのような意味で、原理論+段階論=マル経 は使えるツールにはなりません。資本主義の全体像がテーマなので、そこから切り離した、貨幣論や信用論や生産価格論はもとより、基軸産業や金融資本や世界システムといった段階論の概念でも、それを使うとなにかがわかる、という仕組みにはなっていません。そういう意味で使える道具が必要なら、腕のいい職人は自分で工夫してつくるものです。そんなほれぼれする、できのイーい道具をみると、逆に不器用な理論家のほうが、つい、そいつを頂戴してこっそり原理論に組み込みたくなるものです。

それはともかく、当日こちらから看ていて面白かったのは、ふだん大学関係者にマルクス経済学の話をするときとだいぶ様子が違った点です。そういう客筋に話していると、上の意味で (B) の「御利益」がホントになくなったんだな、と痛感するのですが、これと違うお客さまに久しぶりでお話ししてみて、この方々にとって (B) の役割はぜんぜん異なることにあらためて気づきました。現状分析が、何らかの意味で「革命の必然性」や「資本主義の危機・矛盾の発現の段階的推移」につながることを強く期待されており、それに使えそうかどうかが唯一の決め手だった(である)のだと、当然といえば当然の「マルクス経済学の使命」を思い出しました。しかし、そうだとすると、これもまた、「歴史研究や実証研究をやっている大学の客筋」と正反対にみえながら、よく考えてみると同じようにマル経をみているのに想到し、チョット面白かったのです。ドグマではなく科学としてのマルクス経済学なら、右にせよ左にせよ、こんなふうに「使える」と思わせた人は、今考えるとずいぶんツミな人です。

「じゃ、おまえはどう考えるのか」といわれれば、こんな感じでしょうか。

だが、これはもとより本義ではない。三段階論の積極的意義は (A) にある。ただ原理論と段階論の関係は複雑で、原理論が先行して独立に構築され、これが段階論に適用されるというのではない。両者は全体として資本主義の歴史的発展を考察する大きな理論装置を構成する。理論上の切断は関連づけることと同義であり、段階論との有機的関係を回復させることが原理論研究の低迷を打破する道となる。

…といった程度じゃ、まだまだ、きますね。「それはわかった。でもそんなふうにして、新しい資本主義の歴史的発展論をつくったところで、それがなんの役にたつのか?」あくまで実利を求めてきます。「なんの?」って、はじめから答えはきまってるんじゃないですか、「革命の必然性」や「資本主義の危機・矛盾」の、でしょう。でも今は昔、この「革命」や「危機」がのった回り舞台がゆっくり半転してしまったこと、まず、この事実を知るのに役立つのだ、と私は申し上げているのですが…

最後に一言

●矢沢国光

段階規定についての小幡さんの提案(プレート論、多重起源説)を期待していたが、かんたんな説明に終わった。もの足りないといえなくもないが、小幡さんにしてみれば、性急に自分の段階論を現状分析論として提起する前に、宇野さんの段階論の問題点を、原理にさかのぼって批判しておきたい、ということであろう。わたしのような「実践家」は、「現状分析にすぐ役立つ理論」を求めがちであるが、小幡さんのような、研究者としての誠実な姿勢を、実践家は尊重すべきだと思う。これは「マルクス経済学がイデオロギーに堕してはならない」という宇野派の伝統的な「理論と実践の混同を避ける」姿勢でもある。

小幡さんの資本主義多重起源説は、資本主義を、英・独・仏・米・露・日・中国のような個々の資本主義(国民経済)としてとらえる視点であり、その視点からの宇野純粋資本主義論批判である。岩田弘の世界資本主義論は、そもそも「資本主義」を、「国民経済」ではなく、諸「国民経済」の世界編成としてとらえようとした。「資本主義」のとらえ方がはじめからちがう。

諸国民経済の併存について、宇野段階論は、19世紀中葉のイギリスを標準として独仏米等その他の国民経済を「遅れている」「逆転している」「特異なカタ」等と位置づけるだけだ。これに対して、小幡多重起源説は、諸国民経済を対等に認めている。対等に認めれば、それらの間の関係を[典型と典型からのずれというかたちでは処理できないから]独自に考察しないわけにはいかなくなる。つまり、世界編成論に向かわざるを得ない。

いささか我田引水的な見方かもしれませんが、これはわたしの期待でもあります。

小幡さんのプレート論の提案が、とくに冷戦体制崩壊後の中国等新興諸国台頭を契機としていることに注目したい。資本主義の「グローバル化」が出現したのは、この時期であり、「グローバル・マネー(グローバル流動性)」の出現とその作用が世界的な金融危機を次々に作り出し、2008年金融危機に行き着き、米欧日の「終わりなきQE」として続いている。これを解明する原理論的なカギは「貨幣論・金融論」であり、小幡さんの価値論にまでさかのぼる「貨幣論・金融論」に期待したい。というわけで、当日小幡さんから購入した『価値論批判』をいま読んでいるところです。

「我田」とおっしゃる「世界資本主義」についてですが、世界資本主義論の盲点は、<資本主義と非資本主義との対抗関係が視野にはいってこない、外部はみんな内面化されてしまう、だから、このページの「「マルクス経済学に一言」に一言」で述べた、資本主義化ができなかった地域、あるいは、それを脱したつもりでいた地域における、新たな資本主義の勃興という問題がみえなくなる>点にあります。始めから終わりまで、資本主義内部における「諸「国民経済」の世界編成」の再編という話で、その結果、この提唱者のラインで考えてゆくと、自然に、世界危機(たいてい国際通貨危機のようなかたちの金融危機です)と世界革命というシナリオになってしまうのです。こうした考え方が成りたたないというつもりはありませんが、ただ知らず知らずにある方向に誘導されるキライがあることは重々自覚されますよう、僭越ながらご注意申し上げておきます。「注目したい」と言っていただいた「冷戦体制崩壊後の中国等新興諸国台頭」は、少なくとも生産過程をベースにした台頭であり、先進資本主義国の金融化は、これに押されるかたちで進んだ半面をいつもいっしょに考えておくべきです。

「世界的な金融危機」に関心をおもちの由、『価値論批判』はこうした現実にアプローチしてゆくんだ、と冒頭で謳っておりますが、「続いて二言」のところで述べたように、原理論を道具と考えて、直接「これを解明する原理論的なカギ」をお探しになると「役にたたんぞ」ということになりそうなので、これも僭越ながら、お買い上げいただいた本には「取扱注意」のシールが貼ってあったことを申し添えておきます。基礎の基礎である原理論でできますることは、<金融危機につながる投機現象を理解しようとするなら、少なくともこういう考え方(例えばミクロ理論でいう一般均衡)は捨てたほうがよい>といった消極的主張までで、使いすぎにはくれぐれもご注意ください、あしからず….

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