『資本論』第1巻を読む III 第3回

第12章 分業 その1

分業 divison of labor は、協業 cooperation に比べて、一般にも馴染みのあるようです。『国富論』以来、分業は市場をベースとした生産システムの基本原理だと考えられてきました。『資本論』における分業の考察は、『国富論』以来の伝統を意識しながら、これを批判するかたちで書かいれています。ただこの批判が明示的でなく、かなり屈折した説明になっています。二回に分けて読み込んでみます。

概要

pg.1 は基本テーゼです。

分業にもとづく協業は、マニュファクチュアにおいて、その典型的な姿態をつくり出す。それが、資本主義的生産過程の特徴的形態として支配的なのは、おおよそ一六世紀中葉から一八世紀最後の三分の一期にいたる本来的マニュフアクチュア時代のあいだでである。

  1. 「分業にもとづく協業」(「協業にもとづく分業」ではなく)
  2. 「マニュファクチュア」という経営様式
  3. 「本来的マニュフアクチュア時代」という歴史的実在

マニュファクチュアの二重の起源

  1. 種類を異にする自立的な諸手工業の結合から(結合型)
  2. 同じ種類の手工業者たちの協業から(分解型)

分業一般ではなくマニュファクチュアとしての分業が分析対象
マニュファクチュア=「人間をその諸器官とする一つの生産機構」
強調されている点は、「手工業的」handwerksmäßig
この<対>をなすのは….
そして「熟練」handwerksmäßige Geschick
しかし、熟練とは何か、といった点に対する分析はみられない。

部分労働とその道具

すべてをこなす独立の小生産者(手工業者)との対比で、マニュファクチュアの労働者と生産手段の特徴を解明。これが主旨。
ポイントは(1)「細目労働の熟練技」der Tat die Virtuosität des Detailarbeiters と、(2)「労働用具の分化 Die Differenzierung der Arbeitsinstrumente と専門化 Spezialisierung」。(2)にウエートがあり、その分熟練技の分析がやはり不足ぎみ。事例に依存した説明。

マニュフアクチュアの二つの基本形態 — 異種的マニユフアクチュアと有機的マニユフアクチュア

「異種的マニユフアクチュア」というのは、完成部品を最終的に組み立てるタイプ。時計マニュファクチュア。「有機的マニユフアクチュア」というのは、「一連の段階的諸過程を通過する」タイプの分業。針金マニュファクチュア。注目されているのは「有機的マニユフアクチュア」。

ポイントの1は、連続性。「製品を一つの手から別の手に、また一つの過程から別の過程に絶えず運ぶ必要が生じる。」これを確保するためには、「異なる労働の連続性、画一性、規則性」が必要。これはむしろ協業の基本原理ではないかと思うが。ここから大規模化の必然性がでてくるように思うが、言及なし。

ポイントの2は、比例性。工程間の技術的条件から、就業者グループのバランスが必要。原料の受渡を連続的にするためには。有機的連関をもった労働組織=「労働体」Arbeitskörper

「結合されたマニュファクチュア」さまざまなマニュファクチュアのあいだにさらなる結合の要請はあるが、「真の技術的統一をなんら達成しない。」これを実現できるのは、「機械的経営」maschinenmäßigen Betrieb だ、というのだが、今ひとつ、突っ込み不足のように思う。

最後に「機械の散在的使用」sporadische Anwendung der Maschinerie。労働の特化が、それ自体、機械の手本となる、という主旨。「部分労働者は、この機能の自然に確実に作動する器官に転化」。労働の規則性 — その摸倣としての機械。これにたいして、註(44)のスミス批判では、「A ・スミスは、用具の分化— マニュファクチュアの部分労働者たち自身がおおいに貢献した — を、機械の発明と混同している。機械の発明に役割を果たしているのは、マニュフアクチュア労働者たちではなく、学者たち、手工業者たちであり、農民たち(プリンドリー)などでもある。」といっている。どっちなのか?

マニュファクチュアの基本原理は、「等級制」 Hierarchie der Arbeitskräfte。すなわち、技能別の賃金格差の利用。ユアをバベッジと比較してもちあげているが、バベッジの分業論のメリットは、等級制をとりあげたここで強調しておくべきだったのではないか。この等級制の分析ぬきに、「等級制的区分とならんで、労働者が熟練労働者と不熟練労働者とに単純に区分される」というかたちで、強調点が「熟練」ではなく単純労働のほうに移ってしまっている。

論点

分業一般とマニュファクチュア

工場制手工業という特殊な経営様式とが、一体に論じられている。分業一般論は、協業一般論と同じく、原理的に掘りさげられるべきではないか。協業は特定の経営様式と結びつけられることなく、かなり一般的に論じられていた。そこには、「労働過程」一般の考察、合目的的活動としての労働から、労働の組織性を理論的に導きだす糸口があったように思われる。分業に関するこの章では、こうした労働の一般原理からの距離が大きくなっていないか。

マニュファクチュアの本質

「形成」や「編成」に二つのタイプがある、とされているが、そこにはマニュファクチュアは、機械的経営への「過渡的形態」とされているためではないかと思う。マニュファクチュアは、一つの資本主義的な生産様式として自立し存続しうる原理をもっている面が隠されてしまっている。むろん、歴史的存在としての「マニュファクチュア」は事実として衰退したのであり、「過渡的」といえば過渡的であるが、そこからさらに一般的な「編成原理」を原理的に取りだすことはできる。これを「マニュファクチュア型」とよび、原理的な規定と現実を分けて考える必要がある。労働編成における多態性をどこかでマルクス経済学の原理論、宇野弘蔵の純粋資本主義論は見失ってしまった。その原因の一つは、分業論から機械制大工業にかけての一連のテキストに対する批判の欠落ではないかと思う。

熟練と等級制

熟練一般の内部構造に対する分析が欠けているため、それがマニュファクチュアのもとでどのように変容したのかが明らかにならない。むろん、具体的な論及はあるのが、やはり一般的規定になっていない。独立手工業者の「熟練」と組織的労働者つぃてのマニュファクチュア労働者の「熟練」は、原理的にどこが変容するのか。基本は「異なる労働の連続性、画一性、規則性」ということにあると思うが、これが「等級制」という組織原理に結実する原理を説明する必要がある。すくなくとも、私の課題である。資本主義における「熟練」は、手工業者における「熟練」とは異なる、これは真。しかし、故に、資本主義における労働は、不熟練が基本だ、という命題が真になるわけではない。伝来の熟練とは異なる、資本主義における熟練とはなにか、この原理的解明は今日の資本主義を理解するうえで欠かせない。

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