『資本論』第一巻を読む IV:第3回

 

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第15章「労働力の価格と剰余価値との大きさの変動」

これらの章では、とくに新たな展開がなされているわけではありません。正直にいって無視されてきた章なのですが、読みなおしてみるとこれまであまり問題にされてこなかった論点がありそうです。「家族」を通じた労働の維持とか、労働の強度の問題とか、必要と剰余の概念とか….. ただ叙述形式がマルクスがよくやる機械的な場合分けなので、ちょっとウンザリするかもしれませんが、できるだけ実質的な問題を読みとるように努めましょう。

第15章「労働力の価格と剰余価値との大きさの変動」

序部

pg 1-3

労働力の価値規定に関して、不変なのは生活手段の総量。

追加要因として①育成費②労働力の自然的相違(老若男女)は捨象するとしている。

労働者家族の再生産費及び成年男子労働者の価値において大きな差違をつくる

としているがこの意味はなにか。「労働者家族」の意味。

①商品は価値どおりに売られる。②労働力の価格は、価値以下にはならない。という二つの仮定。→ ①労働日の長さ ②労働の強度 ③労働の生産力 :この組合せで剰余価値率はきまる。

問題

  1. 「労働力の価値」ではなく「労働力の価格」であることの意味。
  2. 労働力の価値規定は、個体ベースで考えるべきなのか、集団的・社会的ベースで考えるべきなのか。

第1節 「労働日の大きさおよび労働の強度が不変で(与えられていて)労働の生産力が可変である場合」

pg 4-7

用語の問題ですが「価値生産物」Wertprodukt というのは v + m に相当する生産物です。これに対して「生産物価値」Produktenwert というのは c + v + m のことです。節の題にある仮定は v+m が一定ということです。1時間の労働が0.5シリングの価値価格を形成するという想定で計算がなされています。物量タームはでてきていません。

形式的な場合分けのもとで説明がなされていますが、問題になりそうな論点として

  1. 「第三に。」のところ:労働力の価値が原因→剰余価値の変化は結果、という因果関係。
  2. 註10の次の次のパラグラフ:生産力の上昇があっても、ただちに「労働力の価格」は下がらない、という記述。資本の引き下げ「圧力」と労働者の「抵抗」。この余地についてどう考えるか?生産力の変化がないと、この圧力と抵抗の問題は生じないのか。
  3. 註11のまえのパラグラフ:労働の生産力が2倍 → 価値生産物の総量は2倍に。しかし、労働力の価格と剰余価値値の比率が一定(一時的に?)と想定。「労働力の価格」が一定なら「労働力の価値」以上になる。…. これは窮乏化に関する、絶対的窮乏化と相対的窮乏化の区別の問題。「相対的窮乏化」という概念は許容可能か。

相対的貧困化」については次の図ノートを板書しました。

最後のパラグラフで、m/v とm/(c+v) の区別:第三部を示唆。

 

第2節 「労働日と労働生産力とが不変で労働の強度が可変である場合」

労働の「強度」Intensität が価値論の観点から論じられている珍しい箇所。

労働の強度を高めることは、同じ労働日に多くの生産物を形成するという点では、労働の生産力の上昇と同じ。しかし、この場合には、個々の商品の価値は下がらない。同じ8時間に、8時間以上の価値を生産する、と考えることになる。しかし、ほかに標準的な強度を考えて、それを基準にした「評価」。1時間を2時間と「見なす」という理論。「熟練労働」と類似した問題構造になる。”強度が高い生産部門の1時間の生産物は、低い部門の2時間の生産物と交換される”という関係を認めるべきか。

強度の高い労働力の価値も、ここでは高くなると考えられている。pg.1 の末尾。「労働力の価格の騰貴が、労働力の早められた消耗を償わない場合は…」。キツい労働はより多くの生活手段の消費を必要とするという暗黙裏の想定。しかし、これは労働力の維持に関する「本源的弾力性」と対立する。「労働力の再生産」という概念に対する疑問につながる。

2番目のパラグラフの意味。「奢侈財」で強度が高まっても、相対的剰余価値の生産にはならない、はずだが…

2017年9月20日は、ここで終わりになりました。かなり突っ込んだ議論をすることができました。次回は次の第3節からはじめます。

論点として:

①「窮乏化」に関して、「相対的窮乏化」(生産力上昇のもとで労働者の生活手段の物量は増大するが、同時に剰余価値率が上昇すること)概念をどう評価するのか。私はこれまで、「窮乏化」≡ 産業予備軍の累積(資本構成高度化による雇用縮減)と規定してきました。これはいまもかわらないのですが、相対的窮乏化も論理的にはあるかな、と思いました。「相対的窮乏化」は失業の話ではなく、雇用されている労働者の生活水準が絶対的には上昇しながら相対的に低落する、つまりその意味で「格差が広がる」という現象です。絶対的窮乏化は雇用された労働者の生活手段の物量が B が低落することを意味しますが、B は増大してもm/v が以前より上昇すれば相対的窮乏化が進んだことになります。

たしか、1960年代にこの種の議論がなされ本も出ていたと思います。高度成長のもとで貧困化をなんとか主張しようと頑張った議論だったと思いますが、その頃は見向きもされず…. 2000年代に入って格差の問題に関心が向けられるようになったときには、かつての窮乏化をめぐる研究は、すっかり忘れ去れた、過去の過去の話になっていました。

② 生産力が上昇したときに、労賃がすぐには下がらないという話は、この章のある意味では特徴です。”第10章の「相対的剰余価値の概念」でこの点が論じられてもよかったのでは….”という意見もでたのですが、そこでは労働力商品の価値は生活手段の価値できまる、そしてこの価値どおりの販売を前提にして、相対的剰余価値の概念規定が与えられるかたちに限定されていました。労賃が下がるプロセスをいれたのでは「概念」が曖昧になるということだったのでしょう。

ここで「労働力の価格」が価値から区別され、このあと第6篇「労賃」でこの労働力の「価値」と「価格」の乖離が論じられることになるかどうか ….. 注意して読んでみましょう。


第3節 「労働の生産力と強度が不変で労働日が可変である場合」

(一)「労働日の短縮」が論じられている、これも珍しい箇所。とくに二番目のパラグラフでは、労働の生産力の上昇のもとで、それが結果的に労働日の短縮につながる可能性が示唆されています。

mの変動が原因 → v+m 変動が結果:こういってもよさそうですが、やはり v+m 変動が原因だ、と考えるべきでしょう。

(二)労働日の延長。ここで「労働日の延長と不可分な労働力の消耗の増大」というのはどう解釈すべきか。「絶対的剰余価値の生産」の基本は、極端にいうと「一日の生活手段」をベースにして、24時間まで働けるという可能性。労働日が延長されてもvは一切変動しない、という想定であった。ここでは、v+m が増大すると、vもこれに応じて多少増大すると述べられているのか。

第4節 「労働の持続、生産力、および強度が同時に変動する場合」

(一)労働の生産力が減少し、同時に労働日が延長される場合。

劣等地に向かう耕作の拡大のなかで、労働の生産力が低下。この低下は、労働日の延長で補えると論じられている。リカードの《耕作拡大→地代増大→利潤縮小》を批判。しかし、この補償には限度があること、生産力の低下には限度がないのに対して、労働日の延長には限度がある、というべきところ。「利潤率の傾向的低落」は、この補償の限界に依拠した理論。

(二)労働の強度と生産力が増加し、同時に労働日が短縮される場合。

珍しく未来社会について示唆しているところです。資本主義のもとでは、生産力の上昇が労働日の短縮に結びつくことはないが…. という話での流れで、

三つのことが述べらえている。

  1. 生産力の上昇にもとで、必要労働の内容の拡張。新たな生活手段、さらに蓄積部分などをふくんだものに。
  2. ムダな労働の節約。資本主義のもとでの社会的浪費。waste maker
  3. 生産力の上昇がベースとなって、自由時間が増大する。

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