『資本論』第二巻を読む:第6回

  • 日 時:2019年 10月16日(第3水曜日)19時-21時
  • 場 所:駒澤大学 3-802(三号館の奥のエレベータで8階に)
  • テーマ:『資本論』第2巻 第1篇第5章
第5章「通流時間」

本章および次の第6章は、資本の流通過程における「実質的な real 問題」を扱うことになります。このうち、本章は時間、厳密にいえば期間に焦点があてられています。章のタイトルは「通流時間」ですが(なおまったく同じ章タイトルの第14章が存在します。第二部が草稿であることを如実に示すものとして、よく引き合いに出される話です)、前半では生産期間が中心課題になっています。

1960年代以降でしょうか、今日まである意味では、価値形態論の研究の延長線上に、実質的に意味のある資本分析、マルクス経済学らしい原論が形成されるようになった、基礎の基礎です。比較的短い章ですが、興味深い内容なので、突っ込んで議論したいと思います。

「時間」と「期間」

はじめに、用語法の注意。時間 Zeit と期間 Periode の関係についてです。この章では

生産時間はもちろん労働過程の期間を包括するが、生産時間は労働過程の期間によって包括されてはいない(124)

という箇所以外、なぜか「期間」という用語はでてきません。さすがに「労働過程の期間」を「労働時間」とよぶわけにはゆきませんから、ここだけは「期間」になっているのですが、このあとは「労働過程の期間」を「労働時間」Arbeitszeit とよんでいます。しかし、商品の生産に必要な「労働時間」と「労働過程の期間」は別物です。「時間」と「期間」の違いは宇野弘蔵の『経済原論』が簡明にしています。私の教科書ではわざわざ図解までしていますが(323頁)。

生産期間

「生産手段の生産時間」

生産手段の生産時間=①「機能している時間」+②「休止期間」+③「準備」期間

③について、生産在庫を「潜在的生産資本」と位置づけている。prg.3 冒頭。

労働期間をこえる生産期間

prg.6 がまとめ。ここでこの期間を「できるだけ短縮しようとする資本主義的生産の傾向」があるという。たしかに生産期間全般を短縮する動力ははたらくが、「労働期間をこえる生産期間」だけを短縮する意味はない。逆に「労働期間」なら価値を形成するのだから長くてもかまわない、ということにはならないだろう。

流通期間

流通時間と生産時間

「流通時間と生産時間とは、互いに排除し合う」prg.8冒頭。
両者の和が一定、一方が増えれば他方が減る、という関係になっているように読めるが、そういう関係にはない。注文生産に関する説明も注文をとるのにかかる時間を無視した流通期間ゼロ説で分析不足。

古典派批判

「現象するもの」にとらわれる(しかみない)ため、流通期間も価値をうむという誤解につながる。本来であれば、生産期間の違いから投下労働価値説の「修正」の必要を認めたリカード価値論を正面から理論的に批判すべき。ここでは「仮象」による本質の隠蔽という議論で終わっている。隠蔽論は、期間が長ければ価値もその分増加されるという主張を、外観としては是認してしまう。私はこの種の「間違っているけれど間違える理由はちゃんとある」という物象化論には与しない。

購買過程と販売過程

W — G と W — G を区別して

販売は、資本の変態のもっとも困難な部分であり、ふつうの事情のもとでは、流通時間のうちのより大きな部分をなす。(128)

という。しかし、販売期間と同レベルで「購買期間」なるものを規定することにそもそも無理がある。売るのに期間がかかるのと同じように、買うのにも時間がかかる、というでは、価値増殖の制約要因という流通期間概念の本質が見えなくなってしまう。

流通当事者と生産当事者

事実上、商業資本論を想定した議論になっている。第三部の草稿はすでに書かれているはずだが、ここでは商業資本に言及することなく、ただ「流通当事者」die Zirkulationsagenten (129) とされている。

使用価値の腐朽

Die Gebrauchswerte verschiedner Waren verderben rascher oder langsamer,
腐る、だから一定期間内に売らなくてはならない、という流通期間への制約が指摘されている。

余談ですが、流通期間の不確定性が論じられるようになったころ、70年代80年代でしょうか、ロートルの研究者は、伝統的な「客観主義」に馴染まない考え方を手っ取り早くかたづけてしまおうと、この腐朽する商品をよくもちだしてきました。”どんなに不確定だといったって、商品には寿命がある。だから、販売期間がたまたま長くなるといったって、たかがしれている。”と押さえ込もうとしたりしました。…. が、こうした些末な(じゃないというかもしれませんが、普遍的に妥当する話じゃないという意味ではやはり些末な)「事実」「原理」を語る心の狭さには失望しました。

コメントする

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください