貨幣のポリフォーミズム After 3

みなさんの質問に答える

インターネットのWeb会議の形式で講演のあと、さらにご質問をいただきました。主催者からの質問に対する回答 After2 が長くなったので、After 3 にあらためて、参加者のみなさんからの質問にも答えてゆきます。

最初の質問にお答えします。この種の問題は、苦労して説明しても「それは細かい違いで、基本は同じだろう」といわれ、ガッカリするのがオチかもしれません。平面幾何の証明問題のようなもので、「問題文の指示どおりに図を描けば、だれが何度やっても、分度器ではかれば二つの角はいつも等くなる。もうそれでいいじゃなか」という人には、以下は無用な話になります。ただキチンと証明しようとすれば、適格な補助線を引き、みたまんまの図形をみえない次元で分析するセンスが正否のカギになります。このレベルの話だということをまず断っておきます。

小幡道昭氏の「不換銀行券=商品貨幣としての信用貨幣」との見解は、不換銀行券論のフロンティアを拓くものとして評価します。不換銀行券はどのような意味において信用貨幣なのか、 中央銀行にとって支払約束たる債務とは何か、この点こそ不換銀行券の本質解明のポイントだと私は考えています。

小幡氏は、不換銀行券は様々な商品の合成された債権を見合いとした中央銀行の債務であり、不換銀行券の支払約束は「合成商品」であると主張されています。「これからの経済原論」における「複数商品」、泉正樹氏によるX=「商品なるもの」もこれに相当するものです。

一方、日本銀行は、不換銀行券は「物価安定の確保」を見合いとした債務であるとの見解を示しています。

銀行券債務に対応する資産は、金本位制時代の「金」という実物資産から、管理通貨制時代には「適切な金融政策の遂行」という「無形資産」に移ったと考えることも可能です。この意味からは、日銀の見解は「不換銀行券=無形資産見合い論」ということもできます。様々な商品価値の合成を通じてその価値の安定を確保するというとき、その合成された商品の束は物価で表現されると考えるならば、「合成商品の安定」と「物価の安定」は、厳密には同じものでないにせよ、共通の内容を意味するように思います。

小幡氏は日本銀行の見解についてどのようにお考えでしょうか。

長くなりそうなので、先に結論を書いておきます。

  1. 「物価の安定」説は、貨幣量で「物価」すなわち「貨幣の価値」(の逆数)は左右されるという発想。
  2. 「合成商品の安定」説は、商品価値を表現する貨幣にも固有の価値が内在する(貨幣量で結果的にきまるのではない)と考え、この価値の安定性の原理を追求したもの。
  3. 一見似てみえても、両者は水と油です。

ひとまず質問の内容を次のように整理してみます。

  • 日銀の見解:物価の安定 ≒ 無形資産見合い論 ≒ … \(\neq\) 金
  • これからの経済原論:複数商品 ≒ 合成商品の安定 ≒ … \(\neq\) 金
  • ∴ 日銀の見解 ≒ これからの経済原論

「似ている」「似ている」とたどっていけば、たしかにみんな「似ている」わけです。ただ「小幡氏は日本銀行の見解についてどのようにお考えでしょうか。」という質問の主旨は、小幡が「原論の世界では、似てると同じは大違い」と見栄を切ったので、それならどう違うかいってみよ、ということだろうと解釈して、三層にわけお答えいたします。

(1). 「日本銀行の見解」そのものは、株式会社日本銀行が、採算のとれる経営の指針を述べたもので、物品貨幣とならぶ信用貨幣の原理を規定するレイアにそのまま持ちこむことはもちろんできません。国債保有の累増とともに10年間で10兆円台からから400兆円に急増した日銀当座預金はひとまず括弧に入れ、同じ期間、80兆から110兆と微増にとどまった安定した日銀券にしぼってみれば、日本銀行は無利子の銀行券というこの負債に見合う額の、付利の債権(国債も含め)を資産として保有することで利潤をだしているわけで、「物価の安定」は無利子の銀行券を安定した量で保有させるための営業戦略です。私は「日銀の見解」をこのように了解しております。

(2). ただ、ご質問の意味するところは、「物価の安定」が実現できれば不換銀行券も金貨幣と対等だという貨幣理論についてどう考えるか、という主旨でしょう。この貨幣理論について、概略お答えします。ポイントは「物価」の理論です。日本の大学では、ミクロ経済学+マクロ経済学にコア理論をしぼるところがふえています。一般均衡論を基本とするミクロ経済学では、貨幣は実在しません。尺度財 ニュメレールは、相対価格を決定するときに登場するだけで、財の間接的物々交換であるミクロ経済学の市場に貨幣は実在しません。ミクロの担当者に貨幣について尋ねると、それはマクロ経済学の課題だと答えます。そこでマクロの担当者にきくと、貨幣とはそもそもなにか、なんていう問題は無意味、人々が貨幣として考えているものが貨幣( money is money )なのであり、重要なのはその貨幣の量が「物価」をきめるしくみのほうだ、として \( Mv=pT, M = k(pY) \) のような関係を説明します。貨幣量\( M \)に定数vないしkで対応する「総需要」と、「総供給」ないし「総所得」とが一致するように、「物価」に相当する\( p\)が定まるのだ、と教えてくれます。「総供給」「総所得」は、本来、個々の価格決定を前提に集計されるべき概念なのですが、マクロ経済学には価格決定の理論はなく、それを担うべきミクロ理論は貨幣不在の相対価格(厳密には交換比率)決定の理論となっており、マクロ経済学の欠を埋めることはできません。マルクスも含めアレコレ他人の理論に言及するのを私は最近極力避けるようにしていますが、《価格決定論なき集計量にもとづく「物価」の虚構性》は、言わずもがな、スラッファの『商品による商品の生産 経済理論批判序説』を読んで知ったことです。私は大学で30年以上給金取りとして、ミクロ+マクロ連合に対抗できるマルクス経済学を組み立てる職務に専従してきました。端からみると「合成商品」も「物価」も似たものにみえるかもしれませんが、マクロ経済学の《貨幣 → 「物価」》と、マルクス経済学の《商品価値 → 貨幣》とは水と油、けっして「物価の安定」という考え方で、信用貨幣(不換銀行券)と物品貨幣(金貨幣)の対等性を証明するようなことはいたしません。やたらと過去の論文の参照を求めることも極力避けているのですが、もし上記で不明なら、ミクロ+マクロ連合との対決については「マルクス経済学を組み立てる」の前半、「物価」の虚構性については『経済原論 基礎と演習』問題37 をご覧ください。

(2’).「不換銀行券は『物価安定の確保』を見合いとした債務である」という説に対して、では小幡が「見合い」とするものはなにか、積極的に述べよ、という問に略答してみます。ポイントは「見合い」という概念です。「見合い」というのは、直接には、債務が債権に見合うのであり、債務を凌ぐ債権の存在を意味します。質問文には「銀行券債務に対応する資産は、金本位制時代の「金」という実物資産から、管理通貨制時代には「適切な金融政策の遂行」という「無形資産」に移った」とありますが、「銀行券債務」に見合うのは「金本位制時代」でも「『金』という実物資産」ではありません。ピール条例下のイングランド銀行の発券部だけをとりだすと100パーセント金準備、発券高と金量が一致することになりますが、銀行システム全体をみると銀行券高はこれを上まわっており、銀行券が外部で保持されるのは、内部にこの債務に見合う優良な債権が保有されているからです。このとき、銀行券に見合うものが、「実物資産」か「無形資産」かという区別には意味がありません。「無形」といっても、銀行の保有する債権はそれを支払うにたる資産の価値(価値をもつ商品)と結びついています。金1グラムという物量が、商品金1グラムの《価値》と結びついているように、1万円という債権も1万円と価格をつけられた商品の《価値》と結びついています。ここで考えている債権は、すでに現存する商品に内在している価値を、債権という知覚可能なすがた Gestalt,shape で表現しているのです。銀行の債権は、現存する商品に内在する価値がそのすがたを変えているだけで、無から価値を創造するものではありません。要するに、小幡が何を不換銀行券の「見合い」としているのかという質問への答えは、銀行の債権と結びついた既存の商品《価値》である、ということになります。

(3). 以上の「日銀の見解」、マクロ経済学の物価理論、小幡の不換銀行券論は、いずれも信用論レベルの問題であり、「合成商品の安定」は(1)および(2)(2’)のレイアの下に広がる別の抽象レイアの問題です。質問の直接の範囲ではないかもしれませんが、「厳密には同じものでないにせよ、共通の内容を意味する」ようにみえるというコメントにお答えします。変容論における商品貨幣 → 信用貨幣の骨格は次のようになります。

  1. 商品には価値がある。
  2. 価値は必ず同時に等価物によって表現される。
  3. 同種大量の商品が無数に存在すれば、必ず「持続的な一般的等価物」=商品貨幣が存在する。
  4. 商品貨幣の実現方式には、同一商品の物量とその価値を結びつけた物品貨幣型と、商品価値を債権に結びつけた信用貨幣型がある。
  5. 一般的等価物の持続性は、その価値が時間が経過するなかで安定していることを必要条件とする。
  6. この安定性は、物品貨幣型では大量の同一商品ストックにより、信用貨幣型で商品の合成により、実現される。

したがって、最後の「商品の合成」は、すべての商品の価格を加重平均した「物価」(どのような物量のセットで加重するかが原理的には一意にきまらないのですが)ではなく、債権と結びついた範囲の商品群(一般にストックとしての性格を強くもつ商品群)の合成です。個々の価格の決定をスキップして、総需要と総供給を等号で結び、「物価」一般\(p\)を求めるマクロ経済学の「物価の安定」論と、個々の商品にはそれぞれ固有の価値があり、その価値は、貨幣によって価格のかたちで表現されると説くマルクス経済学とは水と油、がんばりすぎかもしれませんが、マクロ経済学の「物価の安定」説と一点の交わりもない基礎のうえに、債権そのものが貨幣となる原理を追求してみたいと私は考えています。

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