質問に答える:「マルクス経済学を組み立てる」をめぐって


  • 質問に答える:「マルクス経済学を組み立てる」
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  • 2021年6月22日 15:00

東経大の先生から、大学院のゼミで「マルクス経済学を組み立てる」を検討したときに、つぎのような質問が提出されたよし、簡単に回答してみます。

「その中心点を構成するのは、価値ないし価格に関する理論である。多少とも体系性を具えた経済理論であれば、それは必ず競争的な市場で商品価格がどのように決まるのかを説明する一般理論を基礎にもつ。」P2右10~15行

経済理論が、価格についての理論を基礎に持つ理由とは何でしょうか。経済現象が、価格によって表現されるため、まずは、その表現単位の意味を明らかにするということでしょうか。(※質問19と同じ)

経済「理論」(演繹型の推論体系)が誕生したのは古典派経済学(あるいは「原理」というタイトルをもつJ.Steuartの Priciples あたりから)。それ以降、古典派への批判をふくめ、「中心点を構成するのは、価値ないし価格に関する理論」であったのは、歴史的事実。「競争的な市場で商品価格がどのように決まるのかを説明する一般理論」といったのは、一般均衡論型の「ミクロ経済学」を意識したためです。

「ここに理論体系の特徴は凝縮されて現れる」P2右下(「動く中心」の見出しから上に4~3行)

ケインズ経済学の特徴は、価格理論を持たないと考えてよいのでしょうか。

はい。理論としては自立しておらず不完全です。

「20世紀末の新興資本主義諸国の群発が、19世紀末の群発を出自としてきた「マルクス済学」に再度の中心移動を迫っているように思われるからである」P3左上2~5行

19世紀末の群発を出自としてきた「マルクス経済学」と小幡先生の「マルクス経済学」(経済原論)の関係はどのように考えればよいのでしょうか。
(質問19と同じ)

「これまでのマルクス経済学」と「これからのマルクス経済学」の違いです。違いは、大きな構造が変わったことを意識して、理論を「組み立てなおす」必要があるとかんがえるからです。状況が変わったことはだれでもわかることですが、さて、では理論の中身に手を入れるべきか否か、で立場が変わります。あるセンセイは「どんなに状況が変わろうと資本主義であることに変わりはないのだから、組み立てなおす必要なし」といっておられました。
「20世紀末の新興資本主義諸国の群発」とは具体的にどう理解するのでしょうか。
(※4月の研究会で議論になった。それ以前のアメリカ中心とは違う、ということを強調したいらしい)

1980年にはったころから、「グローバリズム」という言葉をちらほら目にするようになり、それまで「インターナショナル」とよばれてきた言葉が急速に上書きされていきました。四〇年以上昔のはなしです。はじめは、あれこれいろんな目新しい「現象」にこのレッテルが貼られていたのですが、そのうちこうした「諸現象」全般を生みだす原因はどこにあるのか、という議論になりました。多くの人はその本質は「アメリカナイゼーション」だというのですが、私はちょっと違うのではないか、と考えました。「アメリカナイゼーション」といわれたのは、ちょうどこの議論がはじまった一九九〇年代は、八〇年代に好調だった西ドイツ、そして「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といわれた日本の経済が低迷し、「ネオリベラリズム」を標榜する合衆国経済が復調したようにみえた時期です。「市場にまかせよ」という新自由主義のかけ声で、福祉国家型のEUの経済体制も「日本型経営」が破壊されていったのは周知の通りです。こうした流れもあり、この時期、マルクス経済学の人々の多くが「パクスアメリカーナ」という用語を受けいるようになったのです。

「20世紀末の新興資本主義諸国の群発」といった背景には、こういった風潮があったのです。しかし「これはちょっと視野が狭くはないか」「19世紀末からずっと『帝国主義段階』だといった、あの『段階』とのつながりはどうなるのだ」と思う人がでてくるのは当然、「20世紀末の新興資本主義諸国の群発」といったのもこの疑問に発するものです。詳しくはその人の書いた論文を見ていただくとして、「具体的にどう理解する」か、だけ、ここで答えておきます。

ひと言でいえば、1970年代あるいはもうちょっと前からはじまり、やがてNICS,NIES とよばれるようになった新興国・地域の台頭、日韓条約からしばらくしての韓国、蒋経国が李登輝などを登用した七〇年代の台湾、あるいは香港、シンガポールのような都市的規模での資本主義的発展です。「グローバリズム」という言葉が登場するずっと以前から、宇野弘蔵の段階論のなかで、二〇世紀後半の資本主義をどうみるか、考えるなかで、次第にハッキリするようになった歴史的な認識です。詳しくは別項にゆずりますがポイントは、「帝国主義段階」というのが「帝国主義国+植民地」という大枠にしているという点です。それが「先進国・福祉国家+低開発」とよばれようと、ともかく「南北問題」(もうすっかり死語と化して観があります)という二重構造ないし第三世界の停滞が、二〇世紀の「帝国主義段階」論のコアだったのです。このコア構造が徐々にだが大きく地滑り的に変化しているというのが「20世紀末の新興資本主義諸国の群発」の具体的な中身です。

その後の事情につき、ひと言ふれておきます。二一世紀になると、中国の経済発展が目につくようになります。アメリカナイゼーションを説く人々は、はじめこれは合衆国のグローバリズムのおこぼれだ、合衆国がちょっと混乱すれば中国経済は瓦解する(一九九七年のアジア通貨危機のときのように)と軽くみてきました。ところが、二〇〇八年の金融危機をみると、掌を翻すがごとく、中国経済の影響力を強調するようになります。いまに続く米中二極化論です。大国主義的なアタマの人たちで、”世界にはいつも「覇権国」が存在する”というイデオロギーで脳がパックされているのでしょう。なにを見ても、それはこうだ、という結論ありきで、イデオロギー性の強い人といくら議論しても埒はあきません。それはそれでしょうがないのですが、ただこうしたひとたちには「20世紀末の新興資本主義諸国の群発」も、中国経済の台頭も、みんな同じに見えてしまうようなので、この点だけはハッキリ別だよ、といっておきます。中心国の「交代」ではなく、新たな「群発」なのです。そして余計なことですが、「20世紀末の新興資本主義諸国の群発」を強調する人もおそらく、いまでも六〇年代の学生運動のイデオロギーにとらわれているのだ、っていうことも、若い人にはわからないことでしょうが、ひと言つけ加えておきます。


                 (資本論における通常の規定)
 Ⅰ 貨幣が実在する市場      (商品貨幣説)
 Ⅱ 客観価値説          (労働価値説)
 Ⅲ 余剰の理論          (搾取論)
 Ⅳ 産業予備軍の存在する労働市場 (相対的過剰人口の累積論)
 

これに関連して「この4項目に抵触するものであってはならないという最小限綱領であり」(P4左20~22)

>この「抵触」とは、どういう意味なのでしょうか。(※質問20と関連)

「必須要件」といっているので、それ以外の要件をつけ加えて、それを強調する人がいても、それはそれでかまわないという意味です。

「自然環境の資本主義的処理を解明するために、既存の地代論を「再生産されない生産手段」の理論に一般化したりするかたちで、いろいろなバリエーションが考えられる。」(P4左17~19行)について

  1. このセンテンスの内容をもう少し、具体的に説明をお願いします。
     (※知識への応用でしょう。『経済原論』202頁「無形の知的領域」)
  2. 本論からは外れますが、「自然環境の資本主義的処理」については、どうお考えでしょうか?
     (※『経済原論』143頁「廃棄物」に関連)
  1. 「知識」も含みますが、自然環境全般も含みます。「地代」というと「土地」が対象で、さらに「土地」を主要な生産手段にするという「農業」というように、無意識のうちに「具体化」することで理論の対象を狭めすぎてきた、という反省です。逆に「再生産されない生産手段」というように「抽象化」をはかることで、理論の説明能力を高めることができる(できるように理論をくみたてなおさなければならない)ということです。
    • 「資本主義的」という条件にはいるまえに、まず自然環境に対する人間の関わり方一般を特徴づけておく必要があります。基本は「うち」と「そと」の分離です。外的世界に対して、目的意識的に関わるということは、コントロールできる領域がある(と信じている)ということです。このコントロールできる範囲が「内部」です。いちおう「内部」だという自覚があれば、それを超えた「外部」、コントロールできない領域がまわりを取り囲んでいるのに気づくはずです。つまり「環境」=「目的意識的にコントロールできない(すべきでない)世界」という基本認識です。
    • 具体的にアレはどう、コレはどう、という話をする余裕はありませんが、ポイントはこの基本認識で、「資本主義的」といっているのは、市場を通じて大規模な経済が自己調整されるという認識を普遍化するイデオロギーによって、この基本認識を見のがしてしまうことをいっています。工場の内部のように直接コントロールできる「内部」であればその「外部」も目に見えるでしょう。しかし、資本主義は無数の生産過程を市場で調整できているという盲信は「外部」を見えなくさせます。外部の環境の「破壊」も、市場による取引の対象として設定すれば調整できるというのは?なのですが、これを自明のこととして、その方法ばかり考えることになるのです。資本主義ではダメだけれど、もっとスマートにコントロールできるオルタナティブ社会があると考えるのも、「できる」と信じているかぎりは同列です。コントロールすべきではない「環境」はつねにあるのです。人間の活動は、どんなに内部をコントロールできても、かならず外部を「破壊」するという基本認識にたち、「それがほんとに必要なのか」という目的設定のほうを見なおし、コントロールする経済の範囲を合理的に定めるべきなのです。

古典派経済学の体系 P4右9~13
  「Ⓐ 労働価値説によって社会的生産物を労働量で「集計」し、
  Ⓑ この「集計」されたものを基礎にして、新たに形成された価値の「分配」を説き、
   Ⓒ 剰余生産物の蓄積の結果を分析する。」 
  (P4右下から10~6行)「『資本論』第1巻の眼目は、このⒶ-Ⓑ-Ⓒへの批判にあり、必須要件のⅡ-Ⅲ-Ⅳは、解答の内容と異なってはいるが、同じ基本問題を継承しているとみてよい。」

Ⓐ-Ⓑ-Ⓒと必須要件Ⅱ-Ⅲ-Ⅳの関係はどう考えればよいのでしょうか。(※質問20)

内容は異なりますが、同じ問題をこの順で論じています。

「価格の決定原理にかぎれば、価格体系は需要と独立に、供給側の生産条件だけできまるという、いわゆる客観価値説で充分である。」 P5左、本文5~8行

価格については、需要と供給の関係で決まる商品もあると思います。

例えば高原野菜のレタス、豊作貧乏という新聞の記事を見るときもあります。
レタスは、季節商品で、日持ちが短く、在庫がないという商品の特性が一般商品と異なるために価格決定のメカニズムが異なるケースと考えてよいのでしょうか。

また、在庫があるということは、希少性はないと考えてよいのでしょうか。

さらに、高度に発展した資本主義経済においては、基本的に希少性のある商品は少なく、それについては別のロジックで考えるということでしょうか。

「需要と供給の関係で決まる商品もある」は真です。「も」ならですが。ポイントは資本主義的に生産され消費される「商品」の中心部分です。それが「も」に含まれるのかどうか、考えてみてください。「希少性」については未定義語なので、yesでもnoでtrueになります。

「”労働こそ価値の源泉であり、その全成果は本来労働者に帰属すべきだ”といった「労働全収権」的イデオロギーに、どこか無意識のうちに囚われているせいだった。これに気づいたとき、自分のアレルギー体質は自覚できた。」 P7 右11~17行

「理念(イデオロギー)で歴史は動かない」 P7 12行

マルクスは、この「労働全収権」的イデオロギーを、イデオロギーとして捉えていたと理解しましたが、「労働こそ価値の源泉」この部分については、どうお考えでしょうか。

マルクスがどう考えていたかはわかりません(マルクスとか宇野弘蔵とかを主語にした文章を書くのをあるときから私はやめました)。『資本論』のテキストは複雑でいくとおりかに読めます。一つの読み方ですが、『資本論』冒頭の価値論では、価値をめぐって二度三度「還元」をして、やっと「価値の実体」は「抽象的人間労働」であり、その大きさは社会的に平均的な労働の量できまる、という結論をだしています。これが必要で正しい推論かどうかは別として、「価値の源泉は労働だ」という命題と距離をとろうとしていると「読む」ことはできるでしょう。つまり生のまんまの「労働が問題なのではないと「読む」のです。このながれで、このあと「物象化」とか、いろいろ複雑なタームがでてくるわけですが、こうしたものをぜんぶひっくるめて、それでも要するに「源泉」は労働なんでしょう、と「読む」人がでてくるのも、コレはコレでアリでしょう。

「「マルクス経済学」は、「マルクスの経済学」の歴史的客観主義を引き継ぎながら世界的な観点から窮乏化法則の再解釈し収斂説的内部崩壊論から脱却することで誕生した。」 P8 左4~8行

再解釈の内容とは何ですか?

窮乏化法則は資本主義内部の資本家階級と労働者階級の、さらに大資本と弱小資本の「両極分解」。その極限に現れるのが「内部崩壊論」です。二〇世紀の「マルクス経済学」は、独占資本の誕生により、世界的な帝国主義本国と植民地の「両極分解」と「再解釈」。この過程で、帝国主義間の「戦争」が必須となり、これで資本主義は「終わり」を迎えるという革命理論(マルクス主義ではなく、マルクスーレーニン主義)です。

「収斂説的内部崩壊論から脱却」について、具体的にはどういうことでしょうか。

脱却した具体的なゆき先は「資本主義の最高の発展段階としての帝国主義」論です。

必要と余剰(P8)
 a「搾取論」における論理的欠陥
   ▹ 搾取論は、労働力商品を一般商品と同一の再生概念の適用の可能性を前提にする。
   ▹ 労働人口を維持するために必要な生活物資の量には、技術的な基準はない。
   ▹ 生産手段の「補填」と生活物資を消費し生活過程を通じて行われる労働量の
「形成」、「維持」は、原理的に区別しなければならない。
 b「余剰」
   社会的再生産が補填を超えて生み出す生産物であり、換言すると総生産物から生産手段を補填した残余、すなわち純生産物である。

a搾取論の欠陥とb「余剰」の関係はどのように考えればよいのでしょうか。搾取論においては、「余剰」概念を前提にしておらず、利潤(剰余価値)は全て、不払い労働に帰着するということでしょうか。
(※余剰=純生産物と、剰余生産物(剰余価値)は区別されたうえでの質問)

①「搾取論においては、「余剰」概念を前提にしておらず」が、②「利潤(剰余価値)は全て、不払い労働に帰着する」とどうつながるのか、「ゆえに」(直列)なのか、「そして」(並列)なのか、わかりかねますが、②の「不払労働」「支払労働」という概念は、ちゃんと定義しようとすると、『資本論』の基本内容と矛盾する(『資本論』もこれはプロパガンダのための方便だと注意しています)ので、『経済原論』ではボツにしました。

「搾取論の欠陥」と「余剰」の定義は引用のとおりです。どういうことを「関係」といっているのか、想像するほかないですが、もし「矛盾」するとか、両立しないとか、いう意味であれば、そういう強い直接的な関係はありません。あえていろいろ想像していえば、”「搾取論」にこだわりすぎると(欠陥があるのに)「剰余」の基本が見えにくくなる”ということでしょう。誤解をおそれずいえば、 $C + (V+M)$ が基本なのですが、VもCと「同じように」とみると、$( C + V ) + M$ が基本にみえてしまう、ということになります。『経済議論 基礎と演習』の156頁の図に示された$P$のボックスと$Q$のボックスを、じっと見つめればわかるかも。

「スラファの場合、この自由度はrが「生産の体系の外部からとくに貨幣利子率の水準によって決定される」のに対しマルクス経済学では、賃金率wの決定原理が独自に究明される。」(P9左下14~9行)

「搾取論の枠組みを外し、賃金率w が単位時間あたりの価格であり、労働市場は一定量の労働がこの単価を基準に売買される「市場」であることを銘記する必要がある。」(P9右上4~9行)

「マルクス経済学ではwの決定原理が独自に究明される。」とありますが、その原理とは?
(※生活に必要な最低限の物資が買える金額でしょう)

「労働市場」の理論があるということです。Sraffa『商品による商品の生産』では、標準商品を尺度にとると利潤率$r$と賃金率$w$の間に、最大利潤率$R = w + r, R const$ という自由度があり、この自由度は 利子率→利潤率→賃金率という方向で埋められるとされています。すくなくとも、賃金率のほうをさきにきめることを「理論」のそとにおいています。『資本論』に「労働市場」の理論があるかというと、これが問題で「※生活に必要な最低限の物資が買える金額」というだけで、やはり理論の内部に「労働市場」がビルトインされていません。あるのは需要供給で賃金率は「生活に必要な最低限の物資が買える金額」から乖離するという話、産業予備軍が存在する市場(在庫のある市場)の分析が弱いのです。

「産業予備軍は、単に無為徒食の失業人口であるだけでな」く、「自営や家事労働のようなかたちで、社会的生活過程に携わることで、労働力を維持するもう一つの「機能」を担っていることがわかる。」     (P11下から2行~P13左5行)

この「機能」とは、換言すると資本主義が担うことができない社会的生活過程を産業予備軍が果たしているということでしょうか?
(※質問21に関連)(※『経済原論』173~174の「生活過程」に関連。産業予備軍が果たしている、ではなく、産業予備軍も果たしている、でしょう)

「産業予備軍も果たしている」の「も」で True となります。

「しかし、マルクスのいう古典派の目からみると、個々の商品価格とは別に、「総商品の価格」という概念を認めることはできない。さまざまな商品で構成される物量ベクトルをスカラー化することこそ、価格ベクトルの基本的な機能であり、労働価値説はこの価格決定の原理として古典派経済学のコアをなしていた。」  (P14左最終段落)

古典派においては、個々の商品が価格をもつのであり、それらを集計するために  労働価値という集計単位を設定したということでしょうか。

それでは、ケインズの総供給の根拠は、何に基づいていると考えればよいのでしょうか。
(※30頁左第2段落に関連内容)

『一般理論』もふくめケインスの著作も複雑でいろいろ読めるのでしょうが、端からみて「価格の決定理論」を欠いているのはたしかです。この点を伏せるので、「総商品の価格」のようなものを想定して「ケインズの総供給」はいきなり登場するのです。この「価格」はいろいろな商品価格p1,p2,… を指数にした「物価指数」p のようなものになります。ケインズがスラッファをイタリアから呼び寄せたりしたのも、もしかしたら、価格理論なき集計論の欠陥をなんとか埋めたいという気持ちがあったのかも。これは根拠のない憶測ですが。『一般理論』と銘打ったのは、新古典派の一般均衡論型の価格理論では、失業の存在が理論化できない、自分の理論はこれも包括する雇傭の一般理論だ、ということなのでしょうから、粗価格理論が、一般均衡論じゃマズいわけです。かといって、自前でそれにかわる価格理論ができているわけではない、というあたり、悩ましいところじゃなかったのかと邪推したくなります。

W-G-W‘の両端の交換比率を決める原理は異なるが、両説は媒介をなす過程は瞬時に通過できると事実上想定されている。 P22 左下から5行目から

これは、何を意味するのでしょうか? 
(※後半部の貨幣を流通手段としてのみとらえる、という質問でしょうか? それとも前半部の原理の質問でしょうか?)

質問の意味がよくわかりませんが、リカードをふくめ古典派には、「在庫と貨幣が実在する市場」の一般理論がかけています。これは一般均衡論もそうですし、スラッファの場合もそうです。『資本論』は「在庫と貨幣が実在する市場」を理論化する基礎を示していますが、これを批判して新しい理論を組み立てるのは「これからのマルクス経済学」の仕事です。

「けっきょく、ただ客観価値説に依拠するというだけでは、本当の意味で、交換過程の媒介機能を超えた残余としての貨幣が実在する市場像には手が届かない。」 P23左冒頭

「残余としての貨幣」とは蓄蔵貨幣ということでしょうか。

関連して、古典派において資本はどのように生ずると考えたのでしょうか。
(※どのように関連しているか不明)

「蓄蔵貨幣」の定義によるのですが、いっぱんに積極的に貨幣を引き上げる、溜め込んで使わない、という含意をともなうので「蓄蔵貨幣」という用語は慎重に使っています。「鋳貨準備金」という用語のと境界がむずかしいのです。「残余としての貨幣」といったのはおそらくこの点を懸念したためでしょう。

「資本」の定義を与えないとなんともいえないのですが、少なくとも『資本論』の「貨幣の資本への転化」のような発想はないので、「関連して、古典派において資本はどのように生ずると考えたのでしょうか」というのが、この転化論を念頭においたものなら「どのように生ずる」という考え方がないというのが答えです。

価値は商品という≪場≫に「内在」するのであり、この側面はリカードのように、その≪場≫の外に労働に基づき価値量を抽出したのでは視野から漏れてしまう。

「リカードのように、その≪場≫の外に労働量に基づく価値量を抽出」について P24 左下から6行目~

このことは、価値量を労働量とした場合、労働によって形成されたモノには、
等しく価値があるということである、という意味でしょうか。

例えば、商品ではないイースター島に大量にあるモアイも、大量生産された商品である仏像も共に労働生産物であるという点では、同質の価値がある。

これが、場の外に労働生産物としての価値をあらかじめ基準として設定したことである。これに対して「商品に内在する価値」とは、商品となっている仏像にのみ価値があるということでしょうか。
(※商品でなければ価値はない、という意味で考えてはいませんか? ここではそうではなく、“生産や労働に遡らなくても、商品が市場あるいは市場に向いている《場》に存在している段階で価値がある”という意味でしょう。)

“生産や労働に遡らなくても、商品が市場あるいは市場に向いている《場》に存在している段階で価値がある” で正解でしょう。

モアイとか仏像とか、こういうものに関心が向くのはなぜか、そのあたりが不思議ですね。かなり抽象度の高い議論をしているので、「具体的にはなに」と性急に考えずに、一般性に関心を向けてください。素数ってなにか、という問題に、たとえば…とどんなに列記しても、素数が有限か無限かという本質的な問題はわかりません。

それでも経済学なんだから、扱っている具体的な対象があるはず、その「具体的ななにか」が知りたいのだ、というのであれば、大量生産されている工業製品をイメージするのがよいでしょう。部品となるボルトナットとか、ICチップとか、こういう混ぜたら区別のつかない同種大量性をもった基本的な「商品」です。こういうものが組み立てられ消費者の目に触れるところになると、自動車でもいろんなモデルがあったり、スマホでもいろいろだったり、というに目をむくのですが、原価計算をしてみれば、部品の価格は明瞭です。客観価値説というのはずっと抽象度の高い理論の話なのですが、どうしても「具体的な」が必要なら、「ないよりはマシかも」という意味で、参考までに(とはいえ、これが誤解のもとになることのほうが多いのですが)。ただ、これは「例解」「イラスト」「挿絵」のようなもので、紙芝居になっていないと、シェークスピアはわからない、じゃ、やはりこまります。はじめはわからないことが多いと思いますが、抽象的な理論がもつパワーを信じて根気よく考えてみてください。

動く中心

経済理論の「中心点を構成するのは、価値ないし価格に関する理論である。」(2頁右10~15行)
とあり、「20世紀の新興資本主義国の群発が、19世紀末の群発を出自としてきた『マルクス経済学』に再度の中心移動を迫っているように思われるからである。」(3頁左2~5行)と述べていらっしゃいます。「中心移動」とは、マルクス経済学の商品価値の概念が変わるということでしょうか。また、中心移動を迫る動力は何でしょうか。

(※宮島:Q1,3,4と関連)

「経済理論の中心点」と、「『マルクス経済学』に再度の中心移動を迫っている」の「中心移動」は別です。「経済理論の中心点」というのは、どのような理論であれ最低限「価値ないし価格に関する理論」をもっているという意味。これに対して、『マルクス経済学』の「中心移動」というのは、帝国主義段階を迎えてイギリス資本主義内部の階級対立の激化に焦点をあてた資本主義収斂論から、先発型と後発型の資本主義の構想変化に焦点をあてた発展段階論に「中心移動」したという意味です。
「4つの必須条件」と経済原論の大構造

先生は『経済原論』で「経済原論を形づくる大構造の一つは『市場』であり、もう一つは『社会的生産』である。」(『経済原論』16頁2~3行)と述べていらっしゃいます。この「大構造」と本論文の「4つの必須条件」(4頁左上)はどのように関係するのでしょうか。大構造を説明する中心概念が「4つの必須条件」という理解でよろしいでしょうか。(※宮島:Q5、7と関連)

あえて「関係する」ようにいうなら、「貨幣が実在する市場」と、「客観価値説+余剰の理論+産業予備軍の存在する労働市場=社会的再生産」。

商品価値と労働力商品の価値の共通点と相違点について。

商品と労働力商品の二つは、価値が内在するということと、同種大量の在庫があるという2点で共通する。一方、産業予備軍は同種大量性の形成と維持の仕方で商品の在庫とは大きく異なる、という理解でよろしいでしょうか。また、産業予備軍は生活過程をバックグラウンドとして持つ、という点も相違点として考えてよろしいでしょうか。
(※生活過程については31頁)(※Q14に関連)

ご明察の通りです。産業予備軍も在庫だ、という「抽象化」ができるかどうかがカギです。もちろん抽象レベルを下げれば「違う」わけで「同じだが違う」という関係を、抽象レイアを明確にして分析したいわけです。素数だって自然数なのですが、そのうえで素数の特性を分析すると、たとえばフェルマーの小定理みたいなおもしろい関係がでてくるのです。

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