問題関心

重商主義段階をどのように捉えるかは、現代のグローバリズムを段階論的な観点から捉え返すときに避けて通れない問題となる。従来の資本主義像が根本的に狭すぎたのではないか。宇野弘蔵のいう意味での重商主義が狭く、これに対応して自由主義段階、帝国主義段階もサブステージのようにみえる。この三段階を被覆するようなもう一つ大枠の資本主義の枠組を考える必要があるのではないかと思う。その意味で、宇野の重商主義段階論に内在低なかたちで疑問を提示した櫻井論文を検討して、私の仮説を固める手がかりにした。

論文の概要

  1. 「農業という産業が資本的生産になじみにくい」(58頁)。この命題はしばしば耳にするのが、どうか。資本になじみにくいのか、資本主義的生産になじみにくいのか。資本主義的生産というのが、綿工業だとすると、かなり狭いのではないか。資本になじみにくいということだと、それはなぜか、説明が必要となる。連続生産、大量生産、大規模など。論的先取りで、資本主義が綿工業で成立した、という結論から逆算しているようにも思える。
  2. 古い慣習と秩序が残存。共同体的規制(59-60頁)。これも、農業だからということになるのかどうか、要検討。綿工業も、児童労働か、婦人労働か、特殊な歴史的な関係を利用している面がある。機械制大工業という尾がそもそも概念的に問題を抱えているように思われる。
  3. 近代的地主や農業資本家の利潤が、綿工業ベースの機械制大工業に投じらた。これは原資説。「土地からの資本のフローが決定的」(60頁)農業資本主義は、揺するに工業ベースの資本主義が成立する「刊行を作っていた」(62頁)という。(A)商人資本が三角貿易を含めあげる利潤と、(B)農業資本主義がもたらす利潤・地代が、産業資本による綿工業を中心とした発展を「立ち上げることを可能にするような時代を準備する役割」ともいわれている。そういう時代でもなく、時代を準備するのでもなく、準備する役割を果たす、というのは、かなり韜晦的です。おそらく、農業資本主義は近代資本主義へのフロンティアを乗り越えるための「大きな船」(50頁)だというマクナリ説にかなり近いのでしょう。
    • 9 結語 (63頁)
      「商人資本としてのイギリス羊毛工業」という宇野説は否定。
      「産業資本主義の初期段階」ではないという、否定形で終わっている。

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