Counter: 818,
today: 1,
yesterday: 0
2005年11月4日 沖公祐 報告について、少し考えてみました。
- 欲求と欲望の区別というのは、ちょっときくと、それ自身はいささか些末な問題にきこえるが、なかなか、報告をきくと、奥が深い問題へ発展しており、おもしろいと思う。
- 問題の提起のしかたも、必要なものを交換する、一般的な必要物への欲求が相互に満たされる、というのが、市場の本来的なすがただと、普通とられれているが、これはスミスあたりから、欲求の無限性という強い前提に立っており、むしろ、普通の欲求には狭い限界があり、これを打開して交換を拡大するのは奢侈の役割である、というのが、スミス以前には一般的であった、というのは、問題提起としてはよろしいのではないか、と思った。
- ただし、ロック、ヒューム、スチュアートを一括して、「17,18世紀の思想家」と一括するのは問題でしょう。
- 要点は、剰余のない交換、あるいはたとえ貨幣が生成したとしても、単純商品生産者相互の必要物の交換というかたちの市場が、市場としての本来のすがたなのか、というのが根本にある問題でしょう。スミスの場合、市場が欲求が相互に連鎖し、社会的分業のもとで、たがいに相手の欲求の対象を供給しあう場としての市場が、市場の基本増となっている。これは、余剰を求めて交換に励むという、それ以前の重商主義的な市場像、交換の動機は譲渡利潤だといった、資本本位の市場像から後退している、とマルクスは考えていた面がある。
- しかし、「貨幣の資本への転化」をみると、前半はたしかに、G--W-−G'という資本が必ず登場するといいながら、後半では等価交換に反するとして、この市場像を自ら反故にしてしまう観がある。ここには、商品・貨幣というレベルで構成される市場の基礎規定において、スミス的な市場観が払拭されていないがための障害があるのではないか、という問題になる。
- 余剰のある市場、したがってすぐに売らなくてもよいような商品在庫があり、反面に貨幣蓄蔵がある市場が、商品・貨幣論のレベルで理論化されていなくてはならない、ということになるだと思う。
- この問題は、市場の基本増は、単純流通か資本流通か、という問題に発展するのではないかと思います。資本流のもとでないと、商品も貨幣もその純粋規定を与えることはできない、という考え方は、久留間鮫蔵さんなどの立場ではないかと思います。資本主義的商品を取り上げないと、価値と使用価値との対立が鮮明にならない、等々、いろいろ主張があるところです。
- 宇野弘蔵が市場は社会的生産に対して外面的、外来的な存在だ、ということで、資本主義的な市場だけではなく、それに先立つ市場一般に通じる側面で、流通形態論を構成しようとしたとき、この点が問題になったと思います。正統派的な立場からすれば、資本流通=資本種的生産=労働力商品化の成立=労働者の必需品も市場を介して取得される世界=単なる余剰の交換ではない世界....ということになる。これに対して、共同体と共同体の間に発生する市場などというのは、不完全な市場=余ったものの交換=売れなければ売れないでもよい競争的でない市場....ということになる。佐藤金三郎さんの宇野流通論批判もだいたい、このような観点で展開されていたのではないかと思いますが、これは私の記憶違いかもしれません。
- これに対して宇野の議論のポイントだと思うのは、資本流通ではありながら、資本主義的流通にはならない、というレベルです。
| 単純流通 | 資本流通 |
共同体間の市場にも通じる 市場一般 | 正統派はこれと | 宇野派の隘路は ここを突破できるか |
資本主義生産の流通表面 | 通俗的宇野理論は これだが | 正統派はこれになる |