2012年度/夏学期
阪口正雄「『資本論』における交換問答」輪読 †
- 使用価値の「実証bewaehren」と「実現realisieren」の区別
- 使用価値の「実現」は商品を消費すること,使用価値の「実証」は商品を交換手段として用いること(形式的使用価値)と整理することで,単なる交換の媒介物に還元されない貨幣の実在性が浮かび上がってくる.
- ただし,(1)阪口論文がそう読めるか(阪口論文は「実現」を形式的使用価値に充てているように読める),(2)貨幣の実在性を取り出すにあたり,「形式的使用価値」という概念を用いることが適切かどうかについては,議論が分かれる.
- 「他方において,彼はその商品を価値として,したがって同一価値をもっている任意のbeliebigenあらゆる他の商品に実現しようとする」(S.100)
- beliebigenは「任意の」「any suitable」と訳すべき
(国民文庫は「気に入った」,岩波文庫は「任意の」になっているようだ).
そうすることで,商品の使用価値に対する欲望とはひとまず切り離された,同一価値であれば任意の商品を等価形態に置くプロセスに焦点が当たる.
- 阪口論文225頁最後のパラグラフと226頁最初のパラグラフは,マルクスは商品の直接交換の困難から貨幣の必然性を論証しようとしていたのではなく,「同質性」としての価値を統一的に表現しうる貨幣の単一性を説こうとしていたのではないか,という問題提起をしているように読める.
「評価の効率化」と「交換の効率化」の区別などはその謂いではないか.
ehara
欲望から切り離した価値の評価 †
なぜ、阪口論文を取りあげたかというと
- obata はかつては、価値形態論を「交換を求める形態」として捉えてきた。
- その後、「交換を求める形態」と「価値形態」を区別する(レベルを異にする)と考えるようになった。
- 「交換を求める」(動機)--> 「価値が表現される」(結果)という説明は、『基礎と演習』の説明。
- 最近では、「交換を求める」ことの延長線上に価値表現を位置づけること自体に問題がある、と思いはじめている。
- 商品に内在する価値という考え方を明示すると、これを表現するということが必然となる。
- 「表現」と直接的「欲望」の実現とは異なる。
- 「欲望」がなくても「表現」は成り立つ。
- 何のために? --- 商品はそれ自体「資産」である。「資産」としての「価値」を評価する。
- ....
W ---> W' から W ===> G ---> W' というかたち(だけ)で、G の存在を説明することの不充分さを感じている。
阪口論文は、かなり早い時点で、宇野派の
- 欲望=商品所有者
というとらえ方の一面性を批判的に捉え返していたのではないか、この点を先週のゼミでは説明したつもりです。わかったどうか、ehara 氏はだいたいこのラインを要約してくれたように思います。
obata