分散というのはネットワークをつくるという意味になる。全体から切り離され、部分を隔離的に独立させるという意味ではない。
電力の場合、送電網は物理的にはすでに完成している。ただ、エネルギー=コンテンツは上流の巨大な電力プラントから、一方的に下流にむかって供給されるかたちになっていた。これは、テレビ・ラジオなどの従来のあり方と同じである。これがインターネットの普及で、逆に末端のほうからもコンテンツを流すことができるようになる。上流下流関係が相対化されるようになった。これと同じようなことが、送電線、配電系でもおこっているということでしょう。分散化という用語はいささか表層的かもしれません。電力エネルギーの場合、送電線網はくまなく張り巡らされているので、ネットワークの物理的な基盤としては完成しているといってもよい。最近は、光ファイバー網など新しくはらずに、コンセントから電力線にデジタル情報を流せばいい、という人もいるようです。いわんや、末端で発電ができるようになると、この末端どうしで、エネルギーの授受分配が自由にできるようになる、ということがポイントなのでしょう。
だから、この関係を地域社会の自立とつなげて考えるというアイデアには、もう少し工夫がいるのではないでしょうか。語義的には、分散は地域化を連想させますが、分散の意味は統合、システム化、全体化です。末端の自立性は、全体につながることで確保される。世田谷区とか、東京都とか、そういう地理的な地域で閉じる、その意味で分離・独立する、という物理空間的な自立ではない。ネットワーク・システム(とか、こじゃれたことばをつかうと赤面してしまう質なので、書いていてちょっと困っているのですが)では、外部につながるということが、自立ということになる。アナーキズムの世界です。末端の個別の自立が、外部に、またその外部にと、多層的につながる階層化がなされる、という例の原理でしょう。
したがって、地域主義というのも、この種の多層性で捉えなおす必要がある。一種の相対主義です。インターネットの原理を考えると分かりやすいでしょう。フラットな個体の集合が、いきなり全体を構成するのではなく、末端があるといえばあるのですが、これも実はルーターでつないでやると、その下にネットワークをつくることができるので、どこかに最終端末があるというわけではない。ある末端は、外部のWANから見ると一点ですが、その下には、同じ構造のネットワークが広がっていることもある。家庭内LANがあるわけです。LANのなかにも、また無線LANでいろいろな端末をネットワークに構成していることもあり、原理的には、閉じていない192.168.1.1.といった階層構成の仕組みです。ネットワーク上のLocalというのは、切ってつなぐ切れ字的構造をもっているのです。
電力の分散化の場合、この意味でのインターネット的な構成が、果たしてどう構想されているのか、このあたりが基礎・技術的には決め手になるでしょう。外部につながるノードがあって、何層にも構造化されており、その点から下は、なにをしようと自由だ、というコントロールの権限が確保できる、その意味で自治が与えられる、というかたちが、送電システムに成りたつのかどうか、このあたりです。インターネットと同じように、電力エネルギーが階層に区切られて配送されていれば、この種のローカルの概念を考えることができるのですが、どうでしょうか。
山口報告では、IT産業と電力とが比較されているのですが、IT産業というのはかなり曖昧なところがあるので、私はインターネットを想定して、電話会社などと類似から考えたほうがよいかなと、思った次第です。もちろん、マイクロ・発電装置をパーソナルコンピュータに喩えれば、もっと広く、IT産業という内容を広げることもできるのですが、本質は切ってつなぐ、つなぐ方の原理でしょう。切ること自体は、孤立化であっても、けっして自立化ではない。パソコンで自立化というかというと、たしかに大型コンピュータでやっていた作業をPCでできるようになったから、バラバラに自立した、と見なすこともできるのですが、これは当たっていません。この辺はご承知だとは思いますが、IT産業というような茫洋とした捉え方をせずに、その内部を分析して、どんな構造をもっており、その核心部はなにか、というような分析を打ちだてもらうと議論が進むと思います。
ということになると、けっきょく、山口報告の結論に当たる、地域主義的な価値観をこの問題に接合するとすれば、送電網がネットワーク的な構成をもちうるのか、がポイントになります。そして、それは物理的な意味でも、あるいは空間的な意味での地域ではなく、全体がフラットな個体の集合ではなく、中間に階層を形成してゆく構造になっている点が前提です。そして、このようなインターネット型の構造なら、どのようにローカルを形成するか、だれがどのような権限で管理するのか、管理権をめぐる闘争が生じるのです。送電線経由で、アナーキーに自由に電力を売り買いしてよいのか、しかし、このあたり送電網世界も、無抵抗のスペースではないでしょうから、いろいろな社会的問題を引きおこすはずです。どっかのノードが輻輳するとか、ピークで停電するとか、この種のフィジカルなレベルでの摩擦問題(技術レベル)をだれがどのような権限で処理するのか、このコントロール問題(社会レベル)が地域主義と結びつく、と考えるべきかと思います。ともかく、分散化、それなら地域の時代ね、といった情緒的連想を理論的に分析し抜かないと、地域主義との接点はでてこないでしょう。
ならぬ、送電線上のイデオロギーなんですが、こっちはノイジーです。問題の構造は、こうなっているように思います。
ともかく、新しい技術であるから、いろいろなイデオロギーで斯くあるべし、と思えば、都合のよい可能性を読みとることができます。技術とイデオロギーの問題を考えるうえでは、なかなかおもしろい劇場です。イデオロギーは、自らをイデオロギーだとは言わず、科学だ、技術だ、といい、相手はこの客観的真理、新たな現実を無視した、時代遅れのイデオロギーだ」と非難すれば、「いやいや、それはあまりに浅薄な聞きかじりでしょう、そんなことだと、ピーク時で停電します、しっかり管理しないと国がダメだ」なとやりかえす。割って入って、「分散化のなのだから、国家はいらない、地方の自治を支える技術が登場したのだ、新たな社会主義は新しい技術がうみだすのだ」などと、わかったようなわからないような、唯物史観張りの蒸し返しをはじめる。御本人たちは、朗々とアリアを歌い上げているのでしょうが、送電線上は Possible World、ノイジーなこと限りなし、といった感じです。