W-G-W に関しては、マルクスによる用語法も一致していないところがある
資本なき商品流通を一般的な存在と見なす。効用を目的に交換する市場。あるいは結果において使用価値で得をするのだから等価交換でよい、という見方。
ある特定の商品を売って、それで得た貨幣でちょうどその額に匹敵する商品を買う、というわけではない。隠れてしまう、鋳貨準備金的な貨幣保有の問題。
以上、obata
W-G-W'/・・・G・・・/W-G-W'
商人資本
「商品交換は、共同体の果てるところで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する点で、始まる」という規定の重要視。上述の市場観では転売活動を説けない。等価交換を前提とし、効用が高まるという市場観になっている。 商人資本を本来的資本と捉えてしまうと、単純流通、等価交換が本来的だという市場観になってしまう。
従来、資本概念はその背後にいると想定される資本家と同一視する形で構成されてきた(「主体」は主観的)。即ち、貨幣の増減と価値の増減の区分を捨象した形になってしまい、「価値」が増殖するか否か という問題が見過ごされてきたのではないか。(資本家なき資本概念など可笑しい) (→p169, 「価値」を主語として記述する意味・価値が主体に転化する / 「subjekt」が4章で初めて出てくる意味)
W-G-W'(価値が交換関係を規定する)とG-W-G'。