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2005年11月4日 沖公祐 報告について、少し考えてみました。
必要=交換説と剰余=交換説との対比について †
- 欲求と欲望の区別という出だしは、ちょっときくと、それ自身は些末な問題にきこえるが、報告をきくと、なかなか、奥の深い問題へ通じていることがわかり、全体としておもしろいと展開になっていると思う。
- 問題の提起のしかたも、不要なものを必要なものと交換する、それで一般的な必要物への欲求が相互に満たされる、というのが、市場の本来的なすがただと、普通は考えられているが、これはスミスあたりから、欲求の無限性という強い前提が導入され自明視されていったことが与っており、むしろ、通常の欲求には狭い限界があり、これを打開して交換を拡大するのは奢侈の役割である、というのが、スミス以前には一般的であった、というのは、問題提起として”なるほど”と納得できた。
- ただし、ロック、ヒューム、スチュアートを一括して、「17,18世紀の思想家」とするのは無理であろう。スミスの欲求を無限だとする通説が、かつては逆に欲求の限界が市場を制約していると考えられいたことの例として、それぞれ立場や主張内容は異なるが、たとえば、ロックは...、ヒュームは....というかたちで論じるべきであろう。
- 要点は、剰余のない交換、あるいはたとえ貨幣が生成したとしても、単純商品生産者相互の必要物の交換というかたちの市場が、市場としての本来のすがたなのか、というのが根本にある問題であろう。スミスの場合、市場が欲求が相互に連鎖し、社会的分業のもとで、たがいに相手の欲求の対象を供給しあう場としての市場が、市場の基本像となっている。分業が先か、市場が先か、という「決着のつかない問題」がスミスには内包されているというのが沖報告の重要な指摘であろう。このようなスミスの市場像にの転換は、余剰を求めて交換に励むという、それ以前の重商主義的な市場像、交換の動機は譲渡利潤だといった、資本本位の市場像から後退している、とマルクスは考えていた面がある。
余剰を内包した市場は奢侈に領導されるか †
- しかし、「貨幣の資本への転化」をみると、前半はたしかに、G--W-−G'という資本が必ず登場するといいながら、後半では等価交換に反するとして、この市場像を自ら反故にしてしまう観がある。ここには、商品・貨幣というレベルで構成される市場の基礎規定において、スミス的な市場観が払拭されていないがための障害があるのではないか、という問題になる。
- 余剰を内包した市場、したがって、どうしてもいますぐ、売らなくてはならないというわけではない、商品在庫があり、反面にすぐに買わなくてはならないわけでもない、貨幣蓄蔵がある市場が、商品・貨幣論のレベルで理論化されていなくてはならない、ということになるだと思う。
- ただ、余剰と奢侈の関係については、簡単に同じことだとすませずに、さらにもう一歩ふみこんで、分析を進めるほうがよい。奢侈の結果、余剰が形成されるというわけでもないだろうし、必要か余剰か、という問題と、必要か奢侈か、というのは、簡単につながらないと思う。橋本暁子さんが示唆していたように、奢侈を外来性に求めるという立場からすれば、奢侈の対象となる商品は、必要な量が満たされない、不足している、稀少だ、ということになるわけである。
資本の実存する市場から捉えなおすと †
- 『資本論』の商品・貨幣章における市場と、「資本の一般的定式」での市場との間には、断絶がある。
| 『資本論』第1巻 |
| 商品章・貨幣章 | 資本の一般的定式節 | 一般的定式の矛盾節以降 |
スミス的市場 | 価値実体・正常な過程など | (埋没) | 剰余労働と余剰 |
ステュアート的市場 | 命がけの飛躍・蓄蔵貨幣など--> | 前面化 | (埋没) |
- この問題は、市場の基本像は、単純流通か資本流通か、という問題に発展するのではないかと思います。資本流通のもとでないと、商品も貨幣もその純粋な規定を与えることはできない、という考え方は、久留間鮫蔵さんなどの立場ではないかと思います。資本主義的商品を取り上げないと、価値と使用価値との対立が鮮明にならない、等々、いろいろ主張があるところです。
- 宇野弘蔵が市場は社会的生産に対して外面的、外来的な存在だ、ということで、資本主義的な市場だけではなく、それに先立つ市場一般に通じる側面で、流通形態論を構成しようとしたとき、この点が問題になったと思います。正統派的な立場からすれば、資本流通=資本主義的生産=労働力商品化の成立=労働者の必需品も市場を介して取得される世界=単なる余剰の交換ではない世界....ということになる。これに対して、共同体と共同体の間に発生する市場などというのは、不完全な市場=余剰物のみの交換=売れなければ売れないでもよいような競争的でない市場....ということになる。佐藤金三郎さんの宇野流通論批判も、だいたい、このような観点で展開されていたのではないかと思いますが、これは私の記憶違いかもしれません。
- これに対して宇野の議論でポイントだと思うのは、資本流通ではありながら、資本主義的流通にはならない、という位相の存在に対する認識です。
| 単純流通 | 資本流通 |
共同体間の市場にも通じる 市場一般 | 正統派はこれと | この宇野の隘路を いかに突破すべきか |
資本主義生産の流通表面 | 通俗的宇野派は これだが | 正統派はこれになる |
- 要するに、<流通形態としての資本が存在する市場>を理論化するには、「流通における剰余」の存在を商品、貨幣論のレベルから明確にしておかなくてはならない、という問題になると思います。なぜ、そうする必要があるのか、こうするといままで不明であったどの点がクリアになるのか、さらに考えてみます。