必ずしも小幡が担当するというわけではありませんが、おもしろそうなので議論してみませんか。以前の本のものも併せて議論してもいいと思います。

問題関心

重商主義段階をどのように捉えるかは、現代のグローバリズムを段階論的な観点から捉え返すときに避けて通れない問題となる。従来の資本主義像が根本的に狭すぎたのではないか。宇野弘蔵のいう意味での重商主義が狭く、これに対応して自由主義段階、帝国主義段階もサブステージのようにみえる。この三段階を被覆するようなもう一つ大枠の資本主義の枠組を考える必要があるのではないかと思う。その意味で、宇野の重商主義段階論に内在的なかたちで疑問を提示した櫻井論文を検討し、私の仮説を固める手がかりにしたい。

櫻井論文の概要

論点

5 重商主義段階について

櫻井論文は、宇野の重商主義段階に関して、産業資本との関連を切断して、宇野によって重商主義段階の特徴とされた諸要因が連続的に自由主義段階につながるわけではない、という否定形の結論で終わっている。この結論には基本的に賛成だが、それは消極的結論であり、積極的にでは資本主義の発展過程をどう捉えるのかのかは示されていない。

自由主義段階という規定も明示的に規定されていないし、産業資本主義段階ともいわれており、あとの段階の規定を見なおして、この側面から重商主義段階をふり返ってみると、これほど決定的な断絶説になるかどうか、疑問となる。櫻井論文では、自由主義段階が逆に、原論的な機械制大工業の理念に昇華されてしまっているように思う。

重商主義段階と重商主義との関係も、明確に区別して考えないといけないであろう。重商主義段階というのは、いわゆる時代区分の問題であり、そこには対立し矛盾する要因が含まれる。これに対して、重商主義というのは明確に一つの広義の政策的立場、さらに広くとればイデオロギーであり、基本的には一貫性を有する。

羊毛工業に関して、それが重商主義か、と訊ねられれば、世界市場を相手に三角貿易で利潤をあげる本来の商人資本による重商主義とは異質であり、固有の意味での重商主義とはいいがたい。毛織物は櫻井論文にあるように、イタリアから発して、スペイン、オランダに至るヨーロッパ大陸における地域的な市場での主要商品であり、当初、原料供給地だった、イングランドが次第に加工過程を取り込み競争力をつけてゆくなかで、産業育成的な政策がとられたということであり、これを重商主義の本質とみるかどうか、この点は疑問が残る。この意味であれば、その後、産業的な発展をめざした諸地域ではことごとく、このような産業育成的な政策がとられている。19世紀末の合衆国、ドイツも、この種の保護政策はおこなっており、帝国主義も重商主義も基本的に同じ政策的基調となる。重商主義段階という時期にとられた諸政策をすべてこのような重商主義政策と括ることができるかどうかは、かなり疑問である。基本的には、むしろ、世界市場を相手にした輸出促進的な政策が基調となる。オランダからみれば、貿易自由化のほうが重商主義政策となるのであり、イングランドの保護主義は反重商主義的な政策となるのではないか、と思う。重商主義をイングランドからみるのがよいのか、ぎゃくに、スペイン、オランダといった当時の先進国からみるのがよいのか、という問題になる。私自身は、重商主義をイングランドから捉えることは、つづく自由主義段階でイングランドが中心国となるということが逆算して、その萌芽を見いだそうとするために生じた誤操作だと思う。

この誤操作がすべての混乱のもとになっている。櫻井論文が、宇野段階論の重商主義段階、そこにおける羊毛工業から綿工業への連続性に疑問を投げかけたのは、それ自身は正しい。時代としての重商主義段階においては、イギリスは重商主義の中心には存在せず、本来の意味での重商主義政策を遂行する能力を充分具えてはいない。この時代の中心国であるネーデルランド側から重商主義の規定は与えるべきである。

このことから考えると、重商主義段階は、イングランドの外部、イタリア諸都市、スペイン・ポルトガル、そしてネーデルランドに至る長期の時代として考えなくてはならい。イングランドは、この流れでいうと、はじめから反重商主義的な方向を強く帯びた存在として世界的には現れる。

櫻井論文はこの点に気づき、自由主義段階のイングランドと重商主義段階のイングランドとの不連続性、断絶面を強調するのだが、その結果、重商主義段階そのものの位置づけを困難にしている。前資本主義なのか、資本主義への過渡期なのか、あるいは宇野が主張したように、初期資本主義、資本主義の形成期なのか、曖昧である。私自身は、重商主義自身は、立派な資本主義であると捉える。自由主義段階の資本主義を理念化しすぎるために、それとの異質面がただちに不純とか、非資本主義的という断じられているだけである。資本主義の原理的な規定を、変容面に重きをおいて与えれば、重商主義も一つの資本主義のあり方として位置づく。この裏側で、今日のグローバリズム下の資本主義も、長い重商主義段階と否定できる、一段階と位置づけられると考えている。

6 段階規定と過渡期について

段階論という問題構成は、移行とか変容という問題をもちこむとむずかしいことになる。現実の資本主義をみれば、つねに変化しているはずだが、そうしたなかにある期間にわたって不変な性質が維持されていることを前提に、型とか、タイプといった構造を摘出するわけである。同じ資本主義の異なる型という発想である。

しかし、この型と型との関係を問うと、その間には過渡期の存在を想定したくなる。過渡期ということ自体に問題があるわけではない。過渡期も段階の一つとしてしまうと、混乱が生じる。過渡期という段階というのは、本来、語義矛盾なのである。しかし、重商主義段階をしばしば自由主義段階への移行期とか、過渡期と捉える場合もある。こういうのであれば、19世紀イギリス資本主義を一つの段階とみるほうが一貫する。自由主義段階のイギリス資本主義も、19世紀を通じて絶えず発展変化しているのだから、この時期に安定した不動の型が実在していたわけではない。先行する時期から連続性をもって現実は変化している。過渡期というのであれば、絶えざる過渡期というべきなのであり、典型としてのイギリス資本主義という段階がそこに抽出できるというわけである。

この場合、自由主義段階との断絶をもつ重商主義段階は、イギリスに先行してたとえばオランダに存在したのであり、ネガティブなタイプとしてイギリス重商主義段階が存在したとみるべきなのだ。

7 「支配的」という規定について

支配的という発想が、二重性をもつことは櫻井論文の概要をまとめたところで示唆したとおりである。

この点に関連して特に重要なのは、この支配的という発想が一国的な資本主義像に結びついている点である。あるいは、少なくともどのような資本主義の発展段階にも、基軸産業があり、この産業を中心に資本主義の発展は進むという通念である。それは、自由主義段階の資本主義が、イギリス綿工業を中心に発展した、という通念である。このことの野暮な類推から、重商主義段階にも、帝国主義段階にもそれぞれ中心的な産業が存在するというのであろう。下手な唯物史観の拡張解釈である。産業が変わるから、資本主義の典型も変化する、というのは、生産力が変化するから、生産関係が変わる、あるいは下部構造が変わるから上部構造が変わる、という発想からの、実は根拠のない類推(形式的な当てはめ)ではないかと思う。

農業に関しては、基軸産業としての資格をはじめから剥奪されている。それは、資本主義に先だつ経済社会の産業と考えられているからである。農業は資本主義に不適切というが、借地農の形態をとるかぎり、資本は固定資本的な制約を基本的に解除される。土地所有者が固定資本相当の生産手段をリースするからである。逆に重工業段階の資本のほうが、固定資本の制約をもろにかぶるという意味では、資本にとってあつかいにくい産業なのである。ここでも株式資本の形式をとることで、固定資本的な制約を超える傾向が顕著になった。ある意味では、農業は資本主義的経営に向いており、重化学工業はあつかいにくい産業だ、ということになる。

しかし、資本にとって、このような特定の産業との結びつく必要があるとか、あるいは資本に適合した産業というのがあり、これにフィットしたときに資本主義は純粋なすがたに近づくとか、という命題は根拠薄弱である。これは、(1)資本ないし市場がそれ自身多態性をもつこと、(2)産業自体が市場との関係でその組織編成原理を変える可能性をもつこと(実質的包摂論)、(3)資本自身、本来寄生的な性質をもち、さまざまな産業に付着するものであり、さまざまな産業をない交ぜにとりこむ雑食性をもつこと、などを考えると、たとえば綿工業に偏って発展したことのほうが異例なのかとも思われる(基軸としても綿工業は一種のモノカルチャーであり、これは先行する重商主義では、植民地サイドに強制されたのであり、これをむすぶ商人資本は、モノカルチャー化された経済を統合するものとして、雑食性を示した。この点で、商人資本や株式資本の一般性を、資本主義の原理として明確にする必要があると思う。


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