*資本の前貸概念について [#r722be8f] -重商主義的な流れと重農主義的な流れがあるか? -スミス、リカードのケースはどうか。 -J.S.ミルから、グレイなど、銀行創設にいたるなかで、前貸概念が用いられている可能性。 -投資 investment 概念がいつ頃から、前貸にかわっていったのか。 *資本の誕生と商品経済の発達 [#bb551fdb] K.,I, S.183-84 ||現象|背景|h |A|自由な労働者|古い諸構成体の没落の産物&br;des Untergangs einer ganzen Reihe &br; aelterer Formationen der gesellschaftlichen Produktion| |B|商品流通の発達|社会的分業の一定程度の発達| |C|資本の歴史的な実存諸条件&br;Seine historischen Existenzbedingungen|最初から社会的生産過程の一時代を告知| +三つの現象と三つの背景を、同時進行的なものと読むか(縦の区分) +A,CとBとは、本質的に異なる事態であると読むか(横の区分) 宇野理論的な読み方は、横の区分を重視する。しかし、商品流通の発展に商人資本としての資本の発生をも重視する。 別の見方は、商品の純粋な規定も含めて、全体として資本主義のもとで、本質規定は与えられるという立場をとる。このとき、Bを物々交換に毛が生えたような、共同体と共同体の間で偶発するような交換は、商品流通の規定には不的確であると読む。すると、全体として縦の区別を重視することになる。 このあたりは、このテキストをどう解読するのか、互いに力量が問われるところ。 *弾力性問題 [#v2b5fd4b] #ref(elasticity.png) -「高賃金の経済」問題: 賃金率を引き上げると、より密度の高い労働が手に入る、逆に無理に賃金率を引き下げると、劣化した労働になり、かえって不経済である、といった類の議論。労働の質・密度を勘案した労働量をT、賃金率をwとすると、T/Wが1円でえられる労働の内容ということになる。Wをあげてもそれ以上にTが殖えれば、結果的には上がるという論理で、スミスにも見られるときく。これは生活物資が弾力的に変化し、それに応じて質を考えた労働量が 労働量が増大する、ということだと解釈することもできる。弾力性βに比例して、弾力性αも変化するというわけである。阿部さんの発言はこれに近いものだったのか。しかし、もし、弾力性βに弾力性αが正比例的に変化するとすると、実はここで考えている弾力性はないことになる。なぜなら、投入に比例して産出が変化する、という命題に帰着するからである。弾力性の議論の本質は、逆に、投入と産出に比例関係がない、つまり、投入を殖やさなくても産出は増大する可能性がある、ということを含意しているからである。 -マルクスが第4章第3節で問題にしているのは、労働力商品の価値規定をめぐる弾力性βである。労働力の維持にどれだけの生活物資が必要か、これをめぐって、拡張を試みている。足立論文は、この弾力性をめぐって、 |単身|拡散| |家族賃金|収斂| という、異説を展開。通常は家族の導入が労働力の価値規定を複雑にしているオーソドックスな原論では、ダメということか。足立説は、正確には、家族といっても特殊なかたちで、収斂するのだ、とということでした。 -「本源的弾力性」(小幡)という場合には、弾力性αのほうを想定している。同じ生活物資を消費しながら、そこから引き出される労働量、労働内容は、''生産技術的な意味で''一義的にきまらない、これが絶対的剰余価値=剰余価値の本質である、という立場。今回の弾力性とは別の意味で強調。 *労働力の再生産 [#gd6831ce] **なぜ労働力について再生産と用語を多用するのか [#m24640b9] 労働力については、やはり、生産とはいいにくいから再生産というのだ、というニュアンス。 これに原論主義者がから反論。曖昧にするために、再生産というのはなんたること? 生産でないのに、再生産である、というのは矛盾も甚だしい。 **生産とはなにか、再生産とはなにか、という基本概念 [#l8d6648e] -生産とは、Input < Output --生産概念は期間概念と独立に与えられるか。 --生産は物量レベルで規定できるか。(Ax > x s,t. x>0 となるAの技術が生産的。個別の生産過程をとって生産かどうかは規定できない。) -再生産とは、Output --> Input という単純な規定に戻すべきである。投入と産出の関係に、明確な量関係が規定できない労働力に 生産という概念をもちこむのは混乱のもとだ、という異説あり。 労働力の「生産」と一般商品の生産とは、基本的に異なる。 労働力は、Cのみで「生産」されている。生きた労働なき「生産」概念を認めるのか。 綿花が自動的に綿糸になるようなかたちで、労働力の生産が考えられている、のではないか、 と思うのだが、どうしてこんなことになったのか、プルードン批判と結びついているのではないか。 RIGHT:2007-05-25 (金) 19:00:01 obata #article