[[2014年度/夏学期]]

-註24のプルードン批判にこの章のねらいが見て取れる。所有法則の領有法則への転回論、イデオロギー批判が21.22章の課題。
-プルードンに関して、均衡論的市場による政府なき市場社会をめざしていること。均衡論的という意味について、ワルラスに言及した。次もみられたい。
--[[佐藤茂行「レオン・ワルラスのプルードン批判について」>http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/31237/1/22(1)_P53-102.pdf]]

-22章1節
 Umschlag der Eigentumsgesetze der Warenproduktion in Gesetze der
kapitalistischen Aneignung
--Eigentum
--Aneignung

-23章7節
 Es ist Negation der Negation. Diese stellt nicht das Privateigentum wieder her, wohl aber das individuelle Eigentum auf Grundlage der Errungenschaft der kapitalistischen Ära: der Kooperation und des Gemeinbesitzes der Erde und der durch die Arbeit selbst produzierten Produktionsmittel.

--Privateigentum
--individuelle Eigentum
--Gemeinbesitzes

obata



*宇野による領有法則の展開に関する記述 [#q282b200]

「資本主義社会は、いうまでもなく商品経済的私有制を全面的に確立する社会である。そしてそれは旧来の私有制を封建的等々の政治的権力から解放されたものとして、いわば純粋に展開するものといってよい。しかしそれはまた旧封建社会の内に発展して来た商品経済が、ただ単にその支配範囲を拡大して全社会に普及するにいたったというのではない。封建的体制が資本家的体制に変革されることによって始めて確立されるのである。マルクスのいわゆる「商品生産の所有諸法則の資本主義的取得諸法則への転換」も、実は「資本主義的取得諸法則」の展開によって始めて「商品生産の所有諸法則」が一般的な体制として確立されるということのうちに「弁証法」的「顚倒」があるといってよい(※注1)。しかしこの私有制の法律的観念は、恐らくマルクスのいう「自己の労働に基づく」「所有権」を暗黙の内に前提としながら、「他人の商品を獲得する手段は自己の商品の譲渡のみである」という形式的規定の内に、この顚倒を解消しつつ、確立されるのである。封建的その他の、前資本主義社会において、その社会の基本的社会関係の間隙に発展し、その内部に滲透しつつあった商品経済が、その法律的な所有関係を――それはその基本的社会関係と遊離せられたものとして形式的なるものに留まらざるをえないし、またかかる形式的なるものであるからかかる間隙に発展しえたのではないかとも考えられるのであるが、それはともかく――かかる社会の表面に展開して来たものといってよいのであろうが、それは資本主義社会における労働力の売買を通して行われる資本の生産過程において、その実質的基礎を――「自己の労働に基づく」所有権を他人の労働に基づいて―― 一般的に確立することになるのである。」

(※注1)「マルクスは「商品生産の所有諸法則の資本主義的取得諸法則への転換」を、労働力の売買を通して「商品生産と商品流通とに基づく取得の法則または私有の法則は、それ自身の内的な不可避的な弁証法によって、その正反対物に顚倒する」といっているが、この「自己の労働に基づく」所有権が、いかにして「それ自身の内的な不可避的な弁証法によって、その正反対物に顚倒するのである」かは、私の理解しえないところである。むしろ「自己の労働に基づくものとして現われる」「所有権」も、それだけでは商品経済的体制としては確立されないで、労働自身も労働力なる商品の売買を通して資本の形式のも下に行われながら、その所有権が「労働に基づく」ものとして確立されるというところに、弁証法的顚倒があるのではあるまいか。単に「自己の労働」によってえたものであるというだけでは、商品経済的私有を確立するものではない。それは一般にあらゆる社会の私的所有の根拠をなすものではあろうが、したがってまた封建社会では、封建的貢租関係の基礎をなすことにもなるわけであるが、商品経済的には、「同権の商品所有者のみが対立する」関係を通して確立せられなければならない。いい換えれば、労働自身がかかる「商品所有者のみが対立する」私的所有関係の下に行われる労働となる、資本家的生産方法において始めて、労働は近代的所有権の実質的根拠をなすことになるのであって、その点にこそ弁証法的顚倒があるといえるのではないかと考えられる。マルクスのいうような転換は、マルクス自身もいうように「資本主義的取得様式は、商品生産の元来の諸法則を無視するように見えるとはいえ、それは決してこの法則の侵害から生ずるものではなく、むしろ反対にその適用から生ずる」のであり、そこに弁証法的顚倒があるとはいえない。そればかりでなく、単にそういう「適用」からは商品経済的私有関係が、封建的体制の資本家的体制への転換によって始めて一社会を支配するものとなるという点が不明瞭にもなるのではあるまいか。実際また資本主義社会は、単なる商品経済の発展として「それ自身の内的な不可避的な弁証法によって、その正反対物に顚倒する」ものではなく、封建的体制を商品経済を原理とする資本主義体制に転換することによって始めて実現されるのであった。弁証法的顚倒は、商品交換関係が前提する私的所有が、単なる交換関係においてはその根拠を与えられていないということによるのである。いい換えれば交換関係が生産過程を実質的に包摂するときその前提が確保されるという関係にあるわけである。単なる交換関係の前提する私的所有をそのままに「自己の労働に基づく」ものとするのは、アダム・スミスとともに「労働は、最初の価格であった、あらゆる物に対して払われる本源的購買貨幣であった」ということにもなりかねない。商品経済的私的所有は、労働=生産過程そのものから必然的に設定されるものではないのである。」

(宇野弘蔵[1957]「地租改正の土地制度」,『宇野弘蔵著作集 第8巻』95-96頁)

*『資本論』第1巻第22章第1節の内容 [#nb3e0fc9]
-この節は、資本主義の歴史的発生の過程を論じているのではない。
-資本主義的な剰余価値の取得の正当化を根拠づけるイデオロギーがどのように発生してきたのかということが本筋。

*いわゆる領有法則の展開の内容 [#d921ec60]
-説明が幾通りかあると考えられうる。

--「ある年数が過ぎたあとでは、彼が取得した資本価値は同じ年数のあいだに等価なしで取得した剰余価値の総額に等しく、彼が消費した価値額は最初の資本価値に等しい。」(S.595)
--「しかし、生産の流れのなかでは、およそすべての最初に前貸しされた資本は、直接に蓄積された資本に比べれば、すなわち、それを蓄積した人の手のなかで機能しようと他の人の手の中で機能しようととにかく資本に再転化された剰余価値または剰余生産物に比べれば、消えてなくなりそうな大きさ(数学的意味での無限小〔magnitudo evanescens〕)になる。」(S.613-614)

*「所有」のあり方 [#p2c93892]
・私的所有 
・個体的所有(個人的所有)
・共同占有
・共有



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