#author("2020-06-03T10:46:11+09:00","default:obata","obata")
#author("2020-06-03T23:58:04+09:00","default:obata","obata")
-時間: 2020年6月4日 07:00 PM 大阪、札幌、東京

-Zoomミーティングに参加する
https://oita-u.zoom.us/j/91535011545?pwd=anNtc0grMkRRQWcyZjVYWThSV1IrQT09

-ミーティングID: 915 3501 1545
-パスワード: 388621
-----
#qanda_who
#qanda_setstid(2020-06-03 23:57:00, 60)
-----
*第2篇 第1章 労働 [#ne5c23bb]
**基本スタンス [#l9131dcb]
-労働に関する単純労働一元論は、貨幣における金(属)貨幣一元論とよく似ている。両者はこれまで経済原論を、『資本論』が、そして純粋資本主義論が課した狭い枠に押し込めてきた。
-信用論の研究の深化は、金属貨幣一元論を突破するのにおおいに貢献した。その成果を貨幣論に還元するには、方法論の見なおしが方法論の見なおしが必須であったが。
-これに比べて労働論は、一元論から脱却するルートが未整備のままである。
-『資本論』の、そしてこれまでの経済原論の「労働過程論」は「生産過程論」の外に切り離され、「相対的剰余価値の生産」の手段としてその臣下に下った「協業」「分業」「機械と大工業」と絶縁状態におかれてきた。
-「(あらゆる社会一般に通じる)労働には、(市場に特殊な私的な利得追求をエンジンとした)商品・貨幣・資本のような演繹型の推論は成りたたない」。これが通説となる。
-しかしこれはドグマ。「労働」も、「市場」に匹敵する内部構造をもち、演繹的構成できる対象である。
-脱却の第一のルートは、価値論における労働価値説のほうを、客観価値説の枠組みのなかに正しく位置づることである。
-第二のルートは、商品の分析から抽出された価値概念のような、演繹的推論にたえる基本概念をつくりだすことである。たとえば「目的意識的」という用語に演繹力を注入するというように...
-これにより原論では端役的な「労働過程論」は、「価値論」に肩を並べる「労働(構造)論」になる。
--協業、分業は、「労働過程論」から導出される労働組織論として、労働構造論に内包される。
--「機械」の問題も、「労働過程論」に差し戻され、「情報通信技術」とともに、理論に統合される。
--「賃金制度論」も、搾取のための(姑息な)方策という脇役ではなく、「制度」を原理的に考察する実験の場となる。
--さらに、原論のなかに、アルようでナイ労働市場の理論を確立することにつながる。労働市場論は労働(構造)論と相補的な関係にあるが。
-労働論の起動キーが「目的意識的」だとすると、その拡張キーになるには「熟練(スキル)」の概念である。この拡張キーを奪われために、「目的意識的」という用語は単純労働と同定されてきたのだ。従来の単純・複雑労働論に対する批判が前提ないし出発点となる。
-「なんでそんな大改造をする必要があるの?」という人には、「コンピュータ相手の今の多くの労働のすがたは、『資本論』の「機械と大工業」にでてくる単純労働に、似ているようで似ていない、不思議な顔をしているんで、このあたりを見極めてみたいんです。」くらいに答えておきましょうか。答え方はいろいろありそうですが、「一九世紀の紡績工場の児童労働が本来の労働だ、それ以外の労働はみな、不純な労働なのだ」(「金貨幣が本来の貨幣で、それ以外はみな不純な貨幣だ」)とがんばるゴリゴリの純粋資本主義者はもういないでしょう。
-またこの拡張に際しては、情報通信技術の発展を念頭におく必要がある。広い意味でのコンピュータの違いが、『資本論』の「機械」とどう違うのか、分析する必要がある。
-だいたい以上が私の基本スタンス。これをふまえて『これからの経済原論』第2篇第1章「労働論」について、検討してみたい。

**第1節 労働過程 [#l4a5a4d0]
***「自然過程」と「労働過程」の区別 [#x65d66f0]
-図1.2.1 に集約される。これをみると
>
+「自然過程」と「労働過程」の二重性はよくわかるが
+二つの過程を媒介する「身体」の位置が曖昧。
<
***連接の三層構成 [#nd3cab3d]
-基本は三層構成
|CENTER:COLOR(#842):|CENTER:COLOR(#444):|CENTER:COLOR(#248):|c
|自然過程|モノとモノ|技術|
|身体|意識とモノ|スキル|
|意識|主体と主体|コミュニケーション|
&br;

-図1.2.1 のように「意識⇄労働成果」として、←を「[1]の段階」、→を「[2]の段階」として直結してよいか。
***労働の基本構造 [#y2b3a16e]
-( (「意識」&color(red){⇄};「身体」) &color(navy){⇄}; (「労働手段」&color(red){→};「労働対象」) )という《構造》がある点を明確にすべき。
-目的の一つは、「熟練」概念の分析。熟練は宙に浮いているのではない。
--熟練の第一の契機は(「意識」&color(red){⇄};「身体」)というユニット化。これで「労働力」=「労働''能力''」となる。
--第二の契機は「労働''能''力」&color(navy){⇄};「労働手段」の接合。道具を自在に扱えるようになること。
--とくに、意識←労働成果という「[1]の段階」も、基本的に外界への知覚には身体を含むモノの媒介レイアが存在する点は明示すべき。
--熟練は、このような外界への知覚が、身体・道具を必要とすることにも大きく依存する。
--全般に、労働論では意識→労働成果という方向に焦点があてられ、熟練も「つくる」過程のほうに力点がおかれている。
--知覚とその結果の操作から、外界を正確に認識することが、熟練の基底をなす。
-二つ目の目的は「技術」の原理的規定。
--(「労働手段」&color(red){→};「労働対象」))の自立性。
--主体の意識から独立に、自然科学の法則的世界が存在する。ここで''機械''の自動性の根本を示しておく。『これからの経済原論』では、''機械''が第3節「資本のもとでの労働過程」で定義されているのは些か奇妙。95ページ。
-さらに三つ目の目的は、「協業」概念の基礎づけ。
--「意志の連結」はコミュニケーション。ただし英語の communication は「通信」と「対話=コミュニケーション」と両義。
--「通信」には通信手段が多くの場合介在する。テレパシーは期待できない。発話にも身体操作は必要であり、スキルはここに宿る。
--「目的の共有」も無手順でできるものではない。さまざまなレベルの「ドキュメント」を作成することが必要。
--『これからの経済原論』の図2.1.3は、
>
+意志Aが他人Bの身体を直接指図できるわけではないこと、
+これを、Aが目的を設定しBが遂行するという素朴な「構想と実行の分離」に結びつけ、その限界を指摘したことはメリットだが、
+意志と意志の直接結合を一般化したところに限界がある。これについては後述。
<
-最後に四つ目の目的は、「分業」概念の基礎づけ。
--これは(「労働手段」&color(red){⇄};「労働対象」) の自立性を明確にすることで可能になる。これも後述。
***オブジェクトとしての労働 [#i062e31d]
-このような労働の構造論の外延に「欲望の目的化」という労働の契機がある。最近ではこれも含めて「オブジェクトとしての労働」のような拡張を考えている。
--第3節「資本のもとで労働過程」をみると、資本家の労働からはじまっている(ようにみえるがこれには同意できないけれど、ともかく)。
--こうした展開をとるのであれば、労働の基本概念も、相手の漠然とした欲望をハッキリした目的に定式化する活動(これもコミュニケーション)を取りこんでおくべき。

** 第2節 協業と分業 [#aaa5c80b]
***協業 [#xfab7dac]
-「労働力の結語」から「協業」に入る展開は妥当。「協業」で監督労働にふれなかったのは、理由は明示的ではないが、とにかくメリット。監督労働の必要を説くことで、結果的に労働主体が相互に結びつく能力を蔑ろにしてきた従来の協業論の限界を克服している。
-難点は、労働過程で労働主体間のコミュニケーションの原理が充分掘りさげられていないために、結合の基本原理が「競争心」に傾斜している点。
-情報通信の原理を労働過程論のなかで、もっと一般的に展開してゆく必要がある。''労働はコミュニケーションである''、とまではいわないが、与えられた目的を自己の目的として受けとめ、''ただ黙々と''遂行するというのでは、どんなに目的意識的の一語に主体性の意義をこめても、やはり、単純肉体労働を労働の本来のすがたとしてきたこれまでの経済原論の埒はこえられない。

***分業 [#h7b86166]
-最大の難点は、分業と協業の関係が曖昧な点。「協業にもとづく分業」を「分業」に先だって「協業」のところで小出しにしてしまった点。もっと純粋な分業の概念を与える必要がある。
-純化した分業概念は、労働手段や労働対象として他人の生産物を媒介にした労働の結合。意志の間のコミュニケーションは不要。
-「協業」も「分業」も、現実の現象(「協業にもとづく分業」を説明するための理論的な概念。現象レベルと異なる理論レイアの概念として、対極性を明らかにすべき。理論は、現実は所詮すべて色だ、というのではなく、その灰色を構成する純粋の白と黒の概念を与える場である。
-図2.1.5 は「自然過程」の切断・連結で分業を説明しているが、切断・連結は''生産物''を媒介にした連鎖として説明すべきもの。『資本論』にでてくる「生産物の立場」は、「分業」という用語はでてこないが、分業の基本概念を示すもの。他人の生産物を生産手段として用いることができる能力が、モノを介した無言のコミュニケーション(コミュニケーションというかどうかは?だが)。こうしたモノを媒介にコミュニケーションができる点が、情報理論の原理を考える基本。
-図2.1.6 あたりで述べられていることは、すでに述べた「機械」と同様、もっとまえで、「労働過程」において説明すべきこと。
-「分業」の最後「なぜ分業の導入は単位時間あたりの作業量を増大させるのか?ここではこれ以上深入りしないが、別途分析されてよい課題である。」という第一の文は、教科書としてはちょっとイタダケません。二番目の文にでてくる(この後も複雑労働のところで繰り返される)「単位時間あたりの作業量」というのは何か、こういうものは簡単な数値例で例示すること、曖昧な疑問はいっさい残さず、間違えてもいいから可能な答を自ら示すことを私は、講義の、そして教科書のポリシーとしてきました。
-熟練の基本は、熟練の程度を考え、ランク化するか、熟練のタイプの違いを考えて型づけ化するかです。『これからの経済原論』では、従来からのランク化する方向になっていますが、私は型づけ化論者です。単純労働化ではないが、労働の同質性(互換性)は型づけで担保されるとして、基本的に労働力一般が競争的に売買される従来からの労働市場論に熟練を含む労働構造論を接合してしています。このあたりの展望をきかせてほしいところです。

***資本のもとでの労働過程 [#cdc95981]
-「個人資本家」の「労働」の拡張から入るちょっと奇妙な議論になっています(85頁)。
-おそらく商業労働のようなものも取りこみたいという意図なのか、と思いますが、少なくとも出発点は「生産」にたずさわる労働(ワケのわからない「生産的労働」は使わないことにして)ではないでしょうか。
-インプットとアウトプットの間に技術的確定性のある労働が、資本のもとで編成される関係に進むべきかと思います。
-すでに分業のところでのべましたが、ここで「習得が易しいほうを''単純労働''とよび、難しいほうを''複雑労働''とよぶ」(92)というのは私からみると後退です。...って『経済原論 基礎と演習』(137)にもこの説明が残っていました、あしからず。
-型づけ(cast)論の基本は、すべての労働は何らかの意味でスキルをもち、そのスキルの違いでセグメント化されるが、型は産業予備軍によってたえず型づけなおさる(recast)ので、基本的には「労働市場では互換性のある同質の労働力が売買される」という命題が成りたつことにあります。
-型づけの費用の差は?という疑問には、それは労働力の販売のための流通費用であり、労働力の価値の大きさを左右するものではない、と答えてきました。これは拡張部分であり、これをはずして賃金格差を説明するための理論につくりかえることは可能です。
-ただ今日の「格差論」に、このようなスキルの差が貧富の差をもたらす、という論理でアプローチしても成算はないだろう、とこれは私の理論的直観です。おそらく「賃金論」のような制度論のほうが見込みがありそうにみえるのですが。
-「技術(テクノロジー)型」についてはすでに述べたように、機械概念が脆弱に思えます。繰り返しますが、もっと原理的な「きかい」とは何かという問いが必要です。で、お尋ねしますが「コンピュータは機械か?」

***賃金制度 [#sd9e31c7]
-基本は労働の成果に対する「評価」の問題でしょう。
-この観点から対を構成するのは、「先決め・時間賃金型」と「後払い・出来高型」(『経済原論 基礎と演習』139)です。
-型づけ論は「先決め・時間賃金型」になります。問題は「評価」(査定)論者を抱き込むかどうか?
-ポイントは同じ職種の労働でも、一人ひとり査定して、賃金を定めるかどうかです。
-職種間の賃金の差と、同じ職種内での賃金の差で、「同一労働同一賃金」というのは前者で、「査定」といっているのは後者です。
-この「査定」が効いているのだ、という人がいるのですがどうでしょうか?

ということで、細かいことはまだまだあるのですが、ここではじめの「基本スタンス」に戻って、みなさんの労働論についての基本スタンスを聞かせてください。


トップ   一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS