[[2007年度/夏学期]]

**参考文献:山口重克『類型論の諸問題』 [#w8161bba]
>[[obata]] (2007-05-06 (日) 08:36:35)~
~
もし山口重克さんの方法論についてまったく知らないという場合は、上の本の第1部をちょっと読んできてください。~

//
**「意図せざる結果」 [#xd275e99]
>[[obata]] (2007-05-16 (水) 12:00:39)~
#include2(obata/外的条件を二分化する手続き,notitle)

原理論と段階論という区別を小幡は全面的に無視して、要するに、いっしょにしてしまう立場だ、というようにいう人があります。私は、発展段階論として、3発展段階論を展開し、これと不変の原理論とを区別する、という立場には反対です。変化のしくみを分析する方法を原理論自体にも求める立場です。その意味で、純粋資本主義の立場が、それは「原理論の問題だ」としてフタをしてきた問題(たとえば不換銀行券の可能性とか、熟練の解体・商品化など)も原理論の観点から理論化するべきだ、という考えて試論を提示してきました。~
~
ただ、このことは、純粋資本主義で頭がガチガチになった人から見ると、非商品経済的な要因を何でもかんでも持ち込んで原理論をゴタゴタにする、没理論、というように映るようです。しかし、これは商品経済外的といったとたんに、もう、あとはすべて同じゴミためか宝の山か、一様な外的条件というようにみえてしまう、思考慣習によるのです。必要なのは、この「外的条件」を分析することです。分けることです。これも羅列的に分けるというのは、センスが悪いのです。問題は羅列です。理論的な軸がはっきりしないから、あれもあるし、これもあるし、またこっちも気がついたからいれておこう、といったことになる。杜撰な思考というほかありません。原理論であるということになると、あれほど、微細な区別にこだわった人が、外部といったとたんに、さあ、なんでもありだ、と安易な姿勢に流れるのです。~
~
分けるというのはもちろん、いくらでも細かく分けることはできますが、基本はある特徴に焦点をあて、そうであるか、そうでないか、という二分法をとることです。もちろんこうした二分法をとると、必ず境界部分がでてきます。そんな単純に白か黒かいえるか、というわけです。「でも事実は・・・・・」というのが、理論的センスが悪いというのは、この点です。現実が白でも黒でもないのは承知で、しかし、ある基準、観点、焦点を明確にすると、どちらかになる、どちらかになるような基本的な分岐線を見いだすことが理論の課題です。もし現実に近づきたいのであれば、この二分法の下位の階層にさらに二分法を配置してゆくことです。何でもかんでも同じ階層で並べるから、羅列になるわけです。~
~
話がそれてしまったのですが、ここでの問題は、外的条件をひとくくりにするのではなく、そこに分岐をいれることです。外的条件といっても、原理的な論理展開から見ると基本的な前提から導出される論理的派生条件、内的条件に密接に関連し、論理展開の方向を規定するような外的条件とそういう規定性を明確にできない条件に分かれるでしょう。これは、外的条件のほうだけ切り離して分類してもわかりません。原理論の論理展開との関連でみると、はじめて分岐するわけです。だから、こうした外的条件を明確にするには原理論が必要になるし、こうした要因を明確にしながら原理論は展開されてゆく必要があるわけです。こうしたことは、以前、山口重克氏のブラックボックスという考え方を批判しながら明らかにした点です。~
~
今回の報告では、これに関連して、こうした外的条件として、広い意味での主体の行動、意図の関与ということを考える必要がある、ということにふれました。ただ、この意図には「意図せざる結果」として、結果的に意図が意図としては機能しない、という、経済学が昔から繰り返してきたレトリックを指示しました。私自身は、いきなり外的条件のうちに、共同体とか、互助主義とか、といったものをいれてしまうのは、反対です。これは純粋資本主義の裏返しで、何でもいれすぎです。私は純粋資本主義の方法は狭すぎるということをいいますが、理論が理論としての有効性をもつことには、重視しています。意図は排除する必要はないのです。むしろこれをいれるところに理論の展開動力も明確になるので、機械的に外部から観察して記述したような均衡論的な原理論を私は二流の似而非客観主義だと考えています。歴史的事実を無視するのは、主観主義だというようなのは、没理論であり、理論展開が理論展開としてもつ客観性、どういう条件があればどういう帰結が生じるのか、という合理的推論のもつ「論理的客観性」と、事後的な「歴史的必然性」との区別もできない単細胞的理論感覚のためとしか考えられません。~
~
意図といってもそれが、商品経済的な意図か、そうでない意図か、どうやって区別するのかむずかしくはないか、と質問してくれた正上くんに感謝します。私の答えは、意図を予め区別して、そのうちの商品経済的な意図を原理論に持ちこむというのではなく、意図は全部いれてよいのだが、そのうちにのある種の意図は、意図せざる結果を生む、というかたちで、事実上、無化する、ということがある、そういうかたちで無化する意図は理論的に説明する、というようなものでした。不十分な回答ですが、原理論との関係で、意図一般を二分しようという趣旨だったのです。不十分なところというのは、実は、原理論のなかに互助的な関係なども意図的な行動としてもちこむかのように説明したことです。そのときに申し上げたとおり、意図的行動一般を全部原理論の内部に持ちこむととれれる前言に反して、私は原理論の内部にこのような「共同体的要因」ははじめから導入しません。~
~
私は原理論のは外的条件が作用するのは開口部がいくつかある、ということをいってきました。これは理論的な推論の結果わかる、その意味で、その存在は理論のなかにあるといってよい開口部です。これにどのような性質を付与する外的条件が作用すべきか、これも理論的に要請されてきます。貨幣は金属貨幣になるにせよ、信用貨幣になるにせよ、すべての商品が同じ単位で価値表示するという計算貨幣としての要請は、原理的に説明されますが、それにどのような外的条件で応えるのか、これは一義的にはきまらない、というようなかたちの問題に逢着するのです。開口部には、原理論のなかから<位置>と<機能>の要請は特定できるが、その要請に応える方法は内的条件だけから推論できるわけではなく、その実現形態は一義的にきまらない、という二面性をもつというのが私の考えです。こうして開口部に引き込まれる外的条件は、外的条件といっても何でもはいるというわけではありません。すでに述べたように外的条件と思われるものを分類すれば、複数に分類されるでしょうが、開口部にはまる外的条件はそのうちの部分集合です。この意味で、外的条件は原理論との関連で二分されるわけです。これを私は「非市場的だが経済的な要因」とよびます。マルクスの唯物史観における二分法と、経済原論における流通と生産という二分法のズレを詰めるなかで導いた概念です。純粋資本主義論の市場・非市場の二分法が、経済的・非経済的という二分法と同値化される誤謬を正したものです。~


//
#article

トップ   差分 バックアップ リロード   一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS