*第2節「商品に表わされる労働の二重性格」 [#d926ccc6]

** 前置き pg.1-2 [#tfc445b9]
//「10エレのリンネル = W のとき、1着の上着 = 2W である。」という結論は、20エレのリンネル = 1着の上着という関係からの推察になっている。
** 具体的有用労働 pg.3-8 [#md47239a]
***使用価値と具体的労働の対応関係 [#f6311b96]
 上着とりンネルとが質的に異なる使用価値であるのと同じように、それらの定在を媒介する労働も質的に異なるもの --- 裁縫労鋤と織布労働である。pg.5

-裁縫労働だけで上着が生産されるわけではない。布地をつくる別の種類の労働も間接的に関与している。使用価値(有用性)と特定のタイプの労働を一対一で対応させることはできにない。相互に独立した「単系列」の寄せ集めになっている。
-労働の合算可能性(合算根拠)が、「商品に表わされる労働の二重性格」に先行して規定されなければならない。「労働過程」における「生産物の立場」に抽象的人間労働の一般的基礎を求めた宇野の議論は正着。しかし、「抽象的人間労働」という概念にこだわるべきではなかった。

*** 有用労働と合目的性 [#kc4ddce1]
 一定の合目的的な生産的活動または有用的労働 pg.6
- 合目的性が有用労働に結びつけられてしまった点。
-本来は、異種労働の合算可能性の基礎に合目的性は位置づけられるべき。

*** 有用労働と分業 pg.5-6 [#fd07bed2]

*** 具体的有用労働の普遍性 pg.7-8 [#m1b8e353]
-「商品体は、二つの要素の、すなわち自然素材と労働との、結合物である。上着、リンネルなどに含まれているすべての異なった有用的労働の総和を取り去れぱ、人問の関与なしに天然に存在する物質的基体がつねに残る。」というように、労働、しかも有用労働を、要素として<物体視>することは無理である。「モノとモノとの反応過程」とでもいうべき、素材のレベルと、人間の合目的的な意思は別。労働概念のコアは後者にある。目的意識 -- 身体 -- モノ というように考えた理由はここにある。
-「人間と自然との物質代謝」このフレーズは広く受け入れられているが、どういう意味か、あらためて考えてみる必要がある。

**抽象的人間労働 pg.9-15 [#w7db9015]
-二つのパラグラフで、基本規定が与えられている。
***抽象的人間労働の基本規定(1)pg.10 [#jb1630a3]
-pg.10では、労働の「形態変換」が重視されて、
-この観点から複雑労働の単純労働への還元が論じられている。
-基本は、単純労働だから移動可能、転換可能という話。
-抽象的人間労働という規定はまだでてこない。

***抽象的人間労働の基本規定(2)pg.11 [#kb1726c6]
-使用価値の捨象による価値の抽出と同時に進む、有用労働の側面の捨象による抽象的人間労働への還元
-商品と結びついた抽象的人間労働の規定
-この関連で、抽象的人間労働は「質」規定であることが強調される。

***質と量の関連 pg.12-13 [#z0337d9e]
-「商品に含まれている労働は、使用価値との関連ではただ質的にのみ意義をもつとすれば、価値の大きさとの関連では、それがもはやそれ以上の質をもたない人間的労働に還元されているので、ただ量的にのみ意義をもつ。
//まえの場合には、労働のどのようにしてと、なにをするかが問題となり、あとの場合には、労働のどれだけ多くが、すなわちその継続時問が問題となる。商品の価値の大きさはその商品に含まれている労働の分量だけを表わすから、諸商品は、一定の比率においては、つねに等しい大きさの価値でなければならない。
」というのは、
-けっきょく、抽象的人間労働を一度は両規定をもたない質と定義しておきながら、逆に質をもたないから量だけが重要なのだ、という難しい理屈になっていないか?
-けっきょく、抽象的人間労働を一度は量規定をもたない質と定義しておきながら、逆に質をもたないから量だけが重要なのだ、という難しい理屈になっていないか?
***生産力の増大は有用労働にのみ帰属pg.14-15 [#r7f35f57]
-「だから、生産力がどんなに変動しても、同じ労勧は同じ時間内には、つねに同じ価値の大きさを生み出す。ところが、同じ労働は同じ時聞内に、異なった分量の使用価値を....提供する。」というのは、投下労働価値説のコア命題だが、これが終始維持できるかどうか、特別剰余価値など、いろいろなかたちで修正している。これは是か非か?私は非だとおもう。
-「だから、生産力がどんなに変動しても、同じ労働は同じ時間内には、つねに同じ価値の大きさを生み出す。ところが、同じ労働は同じ時間内に、異なった分量の使用価値を....提供する。」というのは、投下労働価値説のコア命題だが、これが終始維持できるかどうか、特別剰余価値など、いろいろなかたちで修正している。これは是か非か?私は非だとおもう。

-[[「力能を高められた労働」はこれに背馳する可能性があると思います。こうした「過程」を視野にいれながら労働価値説を拡張するのが、理論的発展になるのか、あるいは、それはあくまで限定された条件のもとで、限定された命題を説明する理論として、頑健性を確保するほうがよいのか、これは理論の基本スタンスに関わります。私は、最近、あとのほうに傾いています。「マルクス経済学を組み立てる」をご覧ください。>http://gken.sakura.ne.jp/gken/2016/05/17/%E3%80%8E%E8%B3%87%E6%9C%AC%E8%AB%96%E3%80%8F%E7%AC%AC%EF%BC%91%E5%B7%BB%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80-iii-%E7%AC%AC1%E5%9B%9E/#more-1652]]

*2年前のレジメ [#iace2764]
-[[こちら>http://gken.sakura.ne.jp/gken/2014/07/16/%E3%80%8E%E8%B3%87%E6%9C%AC%E8%AB%96%E3%80%8F%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%B7%BB%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80%E3%80%80%E7%AC%AC%EF%BC%93%E5%9B%9E/]]の方がまとまっています。

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