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*三層構造 [#b67e51f8]
*三層構造論 [#b67e51f8]
先進国 vs アフリカという構図で、アフリカの貧困化が論じられているが、先進国に対して、新たな資本主義化の動きを示す、中国・インドなどの発展が、アフリカの貧困化を招いている直接的な原因かもしれない。世界経済論の焦点という以上は、少なくとも
 先進国<-中国・インド=> アフリカ
という三層構造で考える必要があるだろう。

一般に、資本主義の歴史的な移行期は、このような三層構造が発生すると考えられる。没落するイギリスと台頭するドイツと新たに停滞を強いられる第3世界、という具合である。

*欲望飽和論 [#ife2f31d]
**欲望の限界は成長の障壁 [#i6f70a2a]
勝村務テーゼは、先進国の内部構造において、欲望の飽和が成長の停滞を招いている、というものである。このテーゼを理論的な問題として捉え返すと、表式でいう''第2部門が拡大しないと拡大再生産は成立しない''という命題が成りたつかどうか、ということになる。

**生産手段生産部門の自己展開的拡張による拡大再生産 [#x542acf4]
これについて結論的にいえば、第1部門による第1部門のための拡大ということも考えられる。沖公祐テーゼが成立する可能性もある。表式とは離れるが、たとえば
 小麦10トン --> 小麦30トン
 小麦10トン + 労働10時間 --> パン10トン
 労働者はパン2トンを消費して10時間はたらく
この関係が資本の競争を通じて編成されているとしよう。
((パン生産部門が正の価格体系 p1/p2 > 0 のもとで、小麦部門と同一の利潤率を維持して成立するためには、労働者が受けとるパンの物量が、10/3トン以下であることが必要がある。))

賃金率をw, 一般的利潤率をRとすれば、
 10p1(1+R)=30p1
 (10p1+10w)(1+R)=10p2
 10w = 2p2
となり、
 R=200パーセント、p2 = 15/2 p1, w = 3/2 p1
となる。
このような過程を通じて、労働者は毎年2トンのパンを消費しながら同じ生活水準を繰り返しており、とくに消費の拡大がなくても、小麦生産部門(完全オートメーションになっている)は、小麦の蓄積を通じて拡大してゆくことになる。
 小麦20トン --> 小麦60トン
 小麦10トン + 労働10時間 --> パン10トン

**両部門の蓄積率の較差 [#u9f1f279]
-とはいうものの、ここには一つ、盲点がある。
小麦生産部門の資本家は”蓄積せよ、蓄積せよ!これがモーセであり、予言者たちである!”(('Akkumuliert, Akkumuliert! Das ist Moses und die Propheten!))と考えるのに対して、
パン生産部門の資本家は享楽的消費に耽らなくてはならない、
という矛盾である。
-10トンのパンは、労働者が2トン買い戻し、また小麦生産部門の資本家が 10p1 = 4/3 p2 という交換比率で4/3 = 1.333...トンを買い取るかたちになる。だから、残りのパン 6.66...トンは、パン生産部門の資本家が毎年消費することになる。
//表式マニアのひとには
表式的には、I(v+mv+mk) = IIc の関係が、ここでは完全オートメーション型で簡単化してあるから、Imk = IIc となり、本質がすっきり見える。
-小麦部門の資本家は毎年、10トンの小麦に相当する1.333トンのパンを消費するだけで、毎年増え続ける小麦をひたすら再投下する禁欲型の行動をとる。これに対して、パン消費部門の資本家は、利潤をすべて6.66トンのパンとして消費してしまうという快楽型の行動をとる。パン生産部門の資本家の蓄積率は毎年ゼロであるのに対して、小麦生産部門の資本家の蓄積率、つまり毎年増大する小麦収穫量のうち、蓄積にまわす比率は、1/2, 3/4, 
9/10, 27/28,....と限りなく100パーセントに近づく。つまり、一方は蓄積率0パーセント、他方は100パーセントの世界になるわけである。
-この蓄積率100パーセントの行動こそ、資本の本質をなす、と考えられている。このことは、G-W-G'という運動でただ貨幣目当ての''貨殖行動''としてよりも、ここでは小麦をつぎつぎに再投下し、生産手段それ自身を増大させ、小麦というかたちで''価値を増大させようという動機''によって説明される。

**利得動機と蓄積動機 [#tc51669c]
-この点の矛盾はマルクスが指摘しているところだ。1巻22章3節「剰余価値の資本と収入への分割。節欲節」である。利潤追求の動機と、あがった利潤を再投下することの間には、動機の転倒、自己目的化、フェティシズムがどうしてもはたらかないとつながらない、というわけであるが、うえの例では、この転倒性が両部門の資本家のうえに目に見えるかたちで分裂して現れるているように思われる。
-欲求の限界、欲望の飽和というけれど、このような転倒した欲望を資本主義がどう処理しているのかは、けっこうの根が深い問題である。
//最終消費の現象をつらつらながめつつ、ただ、「ほしいものがほしい」、とアンニュイにかたる、お嬢ちゃん、お坊ちゃんや、「欲求は枯れても欲望は不滅です」と素直に論じる[[インテリ青年>obata/単純流通と資本流通]]をみていると、ついつい、「お客さん、資本主義の世の中、やっぱりそれじゃあ、すまないじゃないでしょうかねー」((うらぶれた裏町原論をさまよってきた私としては、鶴田某ふうに....この最後の一文は無視してください。後で消しますから。))といいたくなる。

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