*第25章「近代植民論」をめぐって((2004年11月27日大学院演習報告)) [#s1e6bae8]

補足として[[第24章>obata/「いわゆる本源的蓄積」(24章)]]も参照

**本章の概要 [#l6c18f8b]

***私的所有の二つの原理 792-93 [#zfc3dda2]
自己労働に基づく所有と他人労働の搾取に基づく所有。「墳墓のうえで」という書き換えは、おそらく領有法則の転換論を含意。搾取が現実に確立した資本主義のもとでは、自己労働による所有がイデオロギーとして経済学的に主張される。植民地では、搾取を隠蔽するイデオロギーではなく、逆に自己労働に基づく所有という原理が現実のものとなり、他人労働の搾取の条件が生産手段の労働者からの分離にある点が赤裸々になる。

>「この完成した資本の世界に、経済学者は、事実が彼の&color(white,navy){イデオロギー};を声高に面罵すればするほど、ますます気遣わしげな熱心さといっそうもったいぶった口調で前資本主義世界の法観念および所有概念を引き合いに出すのである。」( S.792)


>>「経済学者と封建的法学者」の関係(S.794)も同じようなイデオロギー論であろうが、関係はどうなっているのか。

***賃金労働者の実存をめぐって<ウェークフィールド(1)> S.793-98 [#n531a87f]

ウェイクフィールド(Edward Gibbon Wakefield)の「計画的植民地政 策」("systematic colonization")
ウェイクフィールド(Edward Gibbon Wakefield)の「計画的植民地政策」("systematic colonization")
を引用し、おもに賃労働を問題にしている。
とくに「奴隷制度は、ウェイクフィールドの言うところでも、植民地の富の唯一の自然発生的な基礎なのである」((「自然発生的植民」と対立するのが「組織的植民」である))というのである。&aname(slavery);

***結合労働をめぐって<ウェークフィールド(2)> S.793-95 [#n531a87f]
記述は連続するが、「どんな代価を払っても結合労働を手に入れることは困難である」というウェイクフィールドを引用。分散的な労働をおこなう独立小生産に転化してゆくという。この場合、分散の自己労働が結合労働よりも生産性が高いことが前提であろう。「自分自身を富ませる独立生産者への不断の転化」というが、貧困化する独立生産者がヨーロッパでは一般的であったはず。ただ自由に土地が入手できると言うだけではなく、この土地で分散的に生産したほうが、資本による集中、結合労働よりも生産性が高いという条件が必要なのではないか。あるいは西ヨーロッパにおける資本主義的生産様式の成立も、競争論的に生産性の格差で説明できるのではない、経済外的な強制によるものなのだ、ということになっているのか。
記述は連続するが、「どんな代価を払っても結合労働を手に入れることは困難である」というウェイクフィールドを引用。分散的な労働をおこなう独立小生産に転化してゆくという。この場合、分散の自己労働が結合労働よりも生産性が高いことが前提であろう。「自分自身を富ませる独立生産者への不断の転化」というが、貧困化する独立生産者がヨーロッパでは一般的であったはず。ただ自由に土地が入手できると言うだけではなく、この土地で分散的に生産したほうが、資本による集中、結合労働よりも生産性が高くなるという追加条件が必要なのではないか。あるいは西ヨーロッパにおける資本主義的生産様式の成立も、競争論的に生産性の格差で説明できるのではない、経済外的な強制によるものなのだ、ということになっているのか。

***労働市場の確立をめぐって<ウェークフィールド(3)> S.798-802 [#n531a87f]
ウェイクフィールドの植民理論というのは、租税で土地価格を高くし、労働者に移民の費用を提供。移住してきた労働者は高価な土地を購入するために一定期間賃労働をおこなう。この世代が土地を購入して賃労働市場から離脱するとき、高い租税をもちいて次世代の賃労働者を旧大陸から移住させることで、労働市場は新規参入を確保できるというものである。

**問題点 [#a4e12800]
+イデオロギーについて~
『資本論』で”イデオロギー”という用語法はあまり多くはないように思うが、ここではイデオロギーと明確にいっている。一般にイデオロギーというのは、だいたい次のような意味に理解できる。ある言説の内容がイデオロギーにすぎない、ということはその言説の真偽自体について判断することはできないが、そのようなイデオロギー的言説が、なぜある状況でなされたかについては合理的な推論をすることができる。この種の言説は、明確に個人的な言説であってはならない。社会的に共有されていることが前提となり、社会的機能を果たす。迷信は迷信にすぎないが、社会的な隠れた機能を果たしてる。嘘は嘘だが、そんな嘘をいわざる得ない事情があることは嘘ではない。~
+奴隷制度と資本主義の関係~
マルクスによれば、小生産者型植民地は脱資本主義化になるのであるが、奴隷制資本主義というのは、生産編成との関係で成立するのか。資本主義は賃労働を基礎にする、という以上、その定義上、とうぜん奴隷制は資本主義ではない、ということになる。問題にしたいのは、資本G-W-G'と、あるいはもう少しレンジをひろげ市場と、生産との結びつき方である。~
+労働市場と人口の維持の関係~
ウェイクフィールドの労働人口入れ替え型の労働市場論は、労働人口の自然的な維持を想定してきた原理論での労働市場論とは異なる。両者の関連はどう整理したらよいのか。ウェイクフィールドの場合、植民地の賃金は単に人口維持・増加というだけではなく、生産手段としての土地を、貯蓄を通じて取得できるほどの高水準になっている。これはどうして可能なのか。~
大きな問題は、資本主義にとって労働人口の維持というのは、原理的に必要なことなのか。労働者個人の生活の維持、という問題と、労働人口の維持、労働人口の「再生産」ということの間には、大きなギャップがある。人間が自己の欲求の充足に熱心である、ということと、子どもを生み、老齢者を養うという利他的な行動を本能的にとるものだ、自然にするのだ、ということとは、同列には扱えない。近代の家族制度を当然視するのは、イデオロギー的な遮眼作用である。労働力の再生産という概念は、<説明原理>ではなく、<説明対象>なのであり、さらに分析対象とされるべきものなのである。労働力の価値規定を、近代の家族制度を説明原理にして、養育費や収容費をとうぜん含む、というように考えるべきではない。奴隷制のように労働力の単身としての維持、出産による人口増加はない、その分、新規労働力はつねに外部から調達するというかたち、もあるかもしれない。~
ウェイクフィールドの植民論でも、労働力の人口維持、増加という要因は除外される。マルクスのような労働人口の再生産を内包した、労働市場を、超歴史的な原理を体現するものとして一般化できるのかどうか。少なくとも、労働主体単身の存続の問題と、その種属的な存続の問題とは、明確に区別して両者の関係に理論的な光を当てることは必要であろう。

***補足1 イデオロギーというターム [#q8e97c92]
”イデオロギー的”という用語がでてくるのが、このほかに2箇所ある。ともに第13章「機械と大工業」においてである。
--第1巻注(88)~
第1節の冒頭部で、ダーウインやヴィーコにふれて、「テヒロノギー(技術学史)の歴史」を論じた注の終の部分。
--第6節「補償説」の末尾でイングランドの人口構成を解説した部分。~
「官吏、僧侶、法律家、軍人などの「イデオロギー的」な諸身分のもの」S.470

**補足2 市場と生産との接合面のモザイク性 [#xc82385d]

直接関係ないが、市場と生産との結びつき方には、原理的にも多元性がある。たとえば、それは労働の変形を基礎に理論化できるような関係である。小生産者型や、ここでのプランテーション型(奴隷制)がそれである。植民地では、
+この「近代植民論」におけるような小生産者型への方向
+奴隷をつかった合理的な生産=生活編成の方向性~

がある。つまり、個体の生存は合理的に管理するが、人口維持は度外視して、労働力の新規供給源は外部に依存する方式である。ウェイクフィールドの組織的植民も、外部労働力への依存という点では、実はこの奴隷制方式に近い。

このほかにとうぜん、この「いわゆる本源的蓄積」にみられるような、
+小生産者の賃金労働者への転換
(これにも暴力的なエンクロージャー型もあれば、
宇野派では一般に否定されているが商品経済的な分解作用型も考えられる)
もある。
++資本主義の形成期だけではなく、この種の接合面の複雑な作用は、資本主義には恒常的につきまとうと考えた方がよいのかもしれない。労働力の再生産をめぐっては、家族・地域などの側面があり、ここにはこの種の接合面がどこまでも残る。
++また、労働力が単純な機械的なエネルギー源とならず、スキルをどう処理するのか、人間の知的な活動をどう誌上に載せるのか、こうした諸々の処理すべき問題があり、この面で生産様式は多様性をもつ。労働の多型性論。
~この両面の作用・反作用によって、資本主義的な生産様式は、本質的にモザイク的な構造を具えるのである。資本主義は、その純粋像においては賃金労働者+単純労働に収斂するというように理論化するべきではなく、本源的に多元性を具え自己変容する原理に立脚している。

**補足3 独立小生産者の位置づけ [#icce6d01]
青才さんから、”小幡説(小生産者も資本家)”という、いささかミスリーディングなタイトルでご批判をいただきました。小幡は、すべての小生産者は資本家だ、とったつもりはありません。小生産なら資本家だ、という一般論、十分条件だというのではないのです。逆に、すべての小生産者は資本ではない、といえるかどうかという点を問題にしたのです。可能性として、小生産者であるということだけで、ただちに資本の特性をそこから除外してよいかどうか、ということです。なぜ、独立生産者であることが資本としての性格に反するとされてきたのか、その論理構造を整理してみたいと思います。

:「小」であること|規模の問題。大生産になるためには、他人労働に依存する必要がある。しかし、他人資本に依存するといっても、賃労働に依存するということには直結しない。集合力の利用、協業は、古代から土木工事など国家権力の必然性の基本。軍事力の協業性。
:「生産者」であること|生産をしているから、資本ではない。資本は流通に起源をもつという一般的定式の議論の流れで、小商人はまず資本とされる。非生産型の独立営利追求活動を資本の原型としている。これに対して、同じく営利活動をおこなっても、小生産者は、資本とは異なる、という論理構成。
:非利潤追求|非商品経済的な動機を小生産者はもつという、現実の歴史的なイメージの投影。小農の具体像。理論的な根拠ではない。
:労働手段の所有|C部分の市場が発展しない。あるいは、農民のイメージでいうと、生活手段は商品化しない。種子や生活手段が商品化しない。余剰生産物を市場にもちだしてくるだけ。この種の小生産者は、当然資本ではないだろう。小生産者=小農のダブルイメージ。
:自己労働|

***文献 [#icd83efa]

-斉藤義介(成蹊高等学校)「ウェイクフィールド植民地論の基本性格」(経済学史学会 第39回大会(1975年11月8,9日 慶応義塾大学 報告)

-沢井淳弘『ニュージーランド植民の歴史  イギリス帝国史の一環として』昭和堂、2003年

-熊谷次郎「J・S・ミルの植民論──ウェイクフィールドとの関連において」『経済経営論集』(桃山学院大学)20、1978-6

-[[テキサス大学>http://www.eco.utexas.edu/facstaff/Cleaver/357ksg33.html]]

トップ   差分 バックアップ リロード   一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS