#author("2023-06-08T00:10:36+09:00","default:obata","obata")
#author("2023-06-08T09:50:18+09:00","default:obata","obata")
CENTER:[[前回 ◁ >2023年度/夏学期/第4講]]&color(#447CFF){第 &size(32){5}; 講}; [[▷ 次回>2023年度/夏学期/第6講]]

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#qanda_setstid(2023-06-01 16:20:00,100)
#qanda_who
#qanda_mathjax
#qanda_points_chart
#qanda_points_hist

✔ REC ON&br;
✅ 接続チェック

#qanda_set_qst(5,100,0){{
<p>&#x2714; 接続状態をおしえてください。</p>
}}
#qanda(5,100)


CENTER:&size(25){&color(yellow,navy){&nbsp;商品の二要因: 使用価値と価値&nbsp;};};
#contents
------
**概要 [#ce74c646]
-モノの定義をベースにした商品の定義を理解する。
-商品と財の明晰な区別ができるようにする。
-商品の二要因をなす、使用価値と価値の間の対極性を理解する。
-「交換価値」という言葉を一切抹消し「価値」という言葉に厳密な定義を与える。
-「商品には価値がある」というときの、この「ある」という言葉が正確な使いえるようにする。

**商品の定義 [#q5f6710e]
-商品とは「使用価値が完全に他人のための使用価値となったモノ」
RIGHT:2mini
#qanda_set_qst(5,1,0){{
<p>半ば自分のための使用価値をもち、半ば自分のための使用価値をもつようなモノの具体例を一つあげよ。(1mini)</p>
}}
#qanda(5,1)
#qanda_solution(5,1){{
<h4>解答</h4>
<ul>
  <li>食べきれないほどつくってしまったクッキー</li>
  <li>嫌いなデザインのシャツ</li>
  <li>遊び飽きたゲームソフト</li>
</ul>
<h4>解説</h4>
<ul>
  <li>「使用価値が完全に他人のための使用価値となったモノ」の「完全に」とは、自分で使うことが100%ないという意味。</li>
  <li>家庭菜園で家族のためにナスをつくったら、大豊作で食べきれなくなったといったケースは除く。</li>
  <li>商品の定義では、はじめから売る目的でつくられたモノのみを想定。ただし、商品の定義にこの「売る」を用いると、循環的な定義になってしまう。</li>
</ul>
<h4>After</h4>
<ul>
  <li>
    共同でつかうものをあげている人が多かったようです。しかし、ここで尋ねているのは、所有者にとっての話です。図書館の本は、そもそも自分の所有物ではありませんから、自分も人も利用したとしても、「半ば自分のための使用価値をもち、半ば自分のための使用価値をもつ」わけではありません。所有する図書館にとっては、やはり、100パーセント他人のための使用価値、ということになります。が、もちろん、図書館の目的は公共サービスですから、その蔵書が商品であるわけではありませんが。
  </li>
  <li>スマホと答えた人も、他人と連絡をとるという意味で、共同使用と考えたのでしょう。これは意外でしたが、なるほど...こう勘違いしやすのか、と参考になりました。</li>
  <li>ただ、ここでの質問は「商品とは使用価値が完全に他人のための使用価値となったモノ」という定義に対して、「この定義から半分ズレたようなモノは何かないかな?」ときいているのです。</li>
  <li>
    スマホは連絡相手が答えるという意味で、半分は、相手が使っているから、半ば他人のための使用価値か、というと、そうではないでしょう。相手が応答してくれるからこそ、はじめて自分のための使用価値になるのです。だれも答えてくれない、自分だけのスマホ、そんなのは、自分にとっても使用価値がない、のです。
  </li>
  <li>
    これに対して、スマホを、2機、3機.... ともっているとすれば、普段はつかわない余計なモノがあるはずで、まー、壊れたときの予備になるという意味では、自分のための使用価値をもつけれど、もし、セコハンでよい値段で売れるなら売りたい、という意味では、半ば他人のための使用価値をもつわけです。
  </li>
  <li>
    主流派のミクロ経済学では、スマホを1機、2機、3機.... ともっていると、1機目、2機目、3機目と「自分のための使用価値」、つまり「効用」が低下してゆく。だから、3機目のスマホを手放すことで失う効用より、この3機目のスマホと交換に得られる、たとばスニーカーが与えてくれる効用が大きければ、交換がなされる、と考えるわけです。つまり、スマホを必要以上に持っている人、スニーカーを必要以上にもっている人、等々の間で、効用を最大にするように、相対的に余計なモノと相対的に余計なモノとが「交換」される、これが市場だ、という発想になっています。
  </li>
  <li>要するに、ミクロ経済学では、半ば自分のため、半ば他人のための使用価値をもつ「財・サービス」を考えて、各人が交換を通じて、自己の効用が最大になるように、自分の所有する財の構成を組み換える、と考えるわけです。</li>
  <li>このような発想によるかぎり、本質的には、貨幣が実在する必要はありません。財と財の物々交換でOKなのです。</li>
  <li>
    マルクス経済学では、出発点において、このような発想をとりません。完全に他人のための使用価値になりきった「商品」から出発します。店にあるスマホは、1機、2機、3機....、どれも区別なく、100パーセント他人のために使用価値しか、もっていません。だんだん、効用がさがってくるので、交換するのではありません。売れなければ、ただのゴミ、捨てるほかありません。これが「商品」です。このような純粋な商品の存在を前提にすることで、はじめて、商品に対する「貨幣」の存在が定義できるのです。
  </li>
  <li>
    ....ということで、つまらない問題?!と思ったかもしれませんが、実は、けっこう深い意味があったのですが、みなさんの回答をみて、ちょっと心配になりました。"相対的に不用なモノを相対的に有用なモノと、物々交換するのだ"といった発想を拭い去らないと、この後の話は、全部、わからなくなります。
  </li>
</ul>
}}
#qanda_scorechart(5,1)

RIGHT:3mini
#qanda_set_qst(5,2,0){{
<p>「他人のため」というのは for others ということだから「他人のための使用価値」は広く社会的に求められているという意味で「社会的使用価値」と言い換えてもよい。</p>
<p>さて、この言い換えは適切か否か、理由を述べよ。</p>
}}
#qanda(5,2)
#qanda_solution(5,2){{
<h4>解答</h4>
<ul>
  <li>適切ではない。</li>
  <li>「他人のための」とは、for another であり、無数の商品所有者のうちの誰かという意味。</li>
</ul>
<h4>解説</h4>
<ul>
  <li>ほかのたくさんの人たちのうちの、ほんの一部の人たち、somebody であり、everybody ではない点に注意。</li>
  <li>このsomebodyを見つけだすのがたいへんなのだ。</li>
  <li>広く薄く、全体で必要にされているという意味ではない。</li>
  <li>「社会的に需要がある」ことだ。などと考えてはならない。</li>
</ul>
<h4>After</h4>
<ul>
  <li>
    4「社会的使用価値は、社会全体に対して価値があり、他人のためというのは他人のための幸せなどのことだ」という回答、前半はパーフェクト、後半が今一歩。たとえば「他人のためというのは<strong>ある限られたの他人(たち)</strong>ためののことだ」で3点でしょう。
  </li>
  <li>6「他人のためとはいっても社会全体で価値があるわけではなくある特定の個人や集団にだけ価値があるものもあると思うから.」は「価値がある」が誤り。「価値」ではなく「使用価値」といってほしかったのです。</li>
  <li>
    32「特定の誰かにとって使用価値があるだけで商品として成立するから。フリーマーケットなどが例。」という回答がありました。まず①「フリーマーケットなどが例」は誤りです。フリーマーケットにでてくるモノは、純粋な商品ではなく、問題1の半商品です。また②「商品である」ための条件は「特定の誰かにとって使用価値があるだけで」では十分ではありません。「自分にとって完全に他人ための使用価値になっていること」です。ただこの「他人」は「社会のだれにとっても」という意味ではないこと、「不特定な誰か」であること、がポイントです。「商品の使用価値は誰か他人のための使用価値である」という命題と「特定の誰かにとって使用価値があるだけで商品として成立する」という命題は同じではありません。「私としては、他人のための使用価値が、広く社会的に求められているという意味ではなく、特定の誰かのための使用価値であることを示していて、得点になると思います」ということですが、もしこのように回答していれば正解です。
  </li>
</ul>
}}
#qanda_scorechart(5,2)

**価値の定義 [#wfb3d699]
-価値とは:すべての商品が必ずもつ、他のすべての商品と「''等しい''」という性質 :: 同等性

RIGHT:3mini
#qanda_set_qst(5,3,0){{
<p>AがBに「等しい」なら、AとBは「交換」できる。</p>
<p>真か偽か、理由を述べよ。</p>
}}
#qanda(5,3)
#qanda_solution(5,3){{
<h4>解答</h4>
<ul>
  <li>偽</li>
  <li>「交換」はAからみてもBからみても同じになる対称な関係。</li>
  <li>しかし、AがBに「等しい」は、BがAに「等しい」という逆関係を必ず含むとはいえない。</li>
  <li>故に、AがBに「等しい」なら、AとBは「交換」できる、は偽。</li>
</ul>
<h4>解説</h4>
<ul>
  <li>「等しい $\sim$」は、商品の集合 $W = \{A,B,\cdots\}$ から $W$ への写像 $A \sim B$</li>
  <li>$A \sim B$ の存在は、逆写像 $B \sim A$ を保証しない。</li>
  <li>「同じ」$A = B$ という関係は、$A \sim B \to B \sim A$ という対称律 (symmetric relation)を前提とする。 </li>
  <li>AをBと「交換」すれば、同時にBはAと「交換」されているはず。つまり「交換」は対称な関係なのだ。</li>
  <hr>
  <li>この問題は「等しい」という言葉を「同じ」という言葉と区別して使うことを前提にしています。</li>
  <li>自分はこんな区別はしない!という人もいると思います。</li>
  <li>しかし、ここまで、この講義を注意して聴いてきた人なら、「商品は交換されるのではない、売られるのだ」ということから、上の解答に近い線まで、なんとかたどりつくはずです。</li>
  <li>この講義では、このあと以上の意味で、<strong>「等しい」と「同じ」は違う</strong>と、二つの言葉を使い分けてゆきます。</li>
</ul>
<h4>ポイント</h4>
<ul>
  <li>「百円玉でエビせんは買えますが、エビせんで百円玉は買えません。悪しからず。」(昔はやった宣伝コピー)</li>
  <li>この売買の非対象性の根本は、「等しい」と「同じ」が違うことにある。</li>
  <li>教科書には、価値とは「交換可能性」(交換性)だと書いてあります。いくら「潜在的な」可能性だ、と断わっても、「交換」という用語をつかうのは混乱を生むので、この講義では価値とは商品の間の「同等性」だ、と定義することにします。
  </li>
</ul>
}}
#qanda_scorechart(5,3)

RIGHT:3mini
#qanda_set_qst(5,4,0){{
<p>「等しい」ということは「同質」であると言い換えてもよい。</p>
<p>例えば、ボールペンと缶コーヒーは、見た目も、機能もまったく別のモノだが、商品としては、同質の何かが共通に存在する。</p>
<p>つまり、商品の価値とは、すべての商品に共通なこの同質性のことである。</p>
<hr>
<p>この価値の定義の言い換えは適切か。理由を述べよ。</p>
}}
#qanda(5,4)
#qanda_solution(5,4){{
<h4>解答</h4>
<ul>
  <li>不適切</li>
  <li>共通な同質な何かが、ボールペンにも缶コーヒーにも、対等に存在するということは、「等しい」がもつ非対象性に矛盾するから。</li>
</ul>
<h4>解説</h4>
<ul>
  <li>「同等性」と「同質性」は別だ、ということです。</li>
  <li>「等しい」ときくと、すぐ、何か共通の第三のものがあるからだ、と考えがちですが、そうなるのはまだ、「同じ」と「等しい」が区別できていないから!</li>
  <li>
    「$5+3$と$2+6$は見た目は違うが$5$に還元できる。つまり整数という同質性をもつのだ」とか言われると、「なるほど、見た目がちがう対象を同質の何かに《還元》できるのか」などとわかったような気になるでしょう。「同質な第三のものへの還元」という発想は、一般に広く受け容れられています。これを《通念》といいます。chatGTPの回答は"通念の塊"のようなもの、でも、学問は通念を疑うことからはじまるのです。
  </li>
  <li>こうした還元で得られるものは一般に、見た目の「形態」(現象形態)に対して「実体」とよばれています。</li>
  <li>しかし、このような「実体」の存在を想定することは、売買の非対象性を理論的に説明するうえで、害あれど益なし、この言葉は使わないことにします。</li>
  <li>普通のマルクス経済学の教科書では、たいてい「価値には形態と実体があり、価値の実体は人間労働に還元される」というような説明がなされています。この教科書、この講義は、この通説から大きく異なります。</li>
  <li>
    貨幣の存在を理論的に説明する、という目的から必要なことだからです。この通説との違いに立ちいると、K.Marxの『資本論』仕込みのむずかしい翻訳用語に悩まされることになります。この講義では、目的に沿って理論を組み立てることに専念します。この通説の話は忘れてもらってOKです。
  </li>
</ul>
<h4>After</h4>
<ul>
  <li>むずかしい問題でした。が、ガンバって回答してくれたようです。</li>
  <li>「等しい」という概念の本質を考えて、それがAにもBにも「同じ何かが共通しに存在する」ということと食い違うことを、なんとか説明できていれば、満点としました。</li>
  <li>
    カール・マルクスの『資本論』という本では、商品として「リンネル20ヤール=1着の上衣」というのは、リンネルとか、上衣とかという使用価値の違いを無視する(捨象する)と、両方に共通の何かが残るはずだ、この共通のものが「価値」であり、この価値の中身(実体
    Substanz)をなすのは、特定のものをつくる側面を捨象した人間労働(抽象的人間労働)である、という説明がなされています。
  </li>
  <li>マルクス経済学の教科書も多くは、これにしたがい、すべての商品に共通に含まれる「同質性」であり、価値の実体は抽象的人間労働である、と規定しています。</li>
  <li>
    しかし、このように「リンネル20ヤール=1着の上衣」を逆関係をみとめる等号で考えてよいのか、「リンネル20ヤール=1着の上衣」でも「1着の上衣=リンネル20ヤール」とはかぎらないのではないか、といった疑問が、マルクス経済学のなかから提起され,そのあと、多くの議論が展開されてきました。
  </li>
  <li>なかなか決着のつかない問題をみなさんにいきなり3分で答えよ、といってもそれは無理、当然,正解は期待していません。ただ、「等しい」(同等性)という概念に、ともかく自分でぶつかって考えてみることに意義があると思ったのです。
  </li>
  <li>
    回答29「適切ではない。「等しい」ということは「同質」だということではない。等しいは、量など「何か」が一致することであるが、同質は、性質や質が同じであることである。」は着眼点が適切。「等しい」というのは、ある量において等しい、のであり、両関係を無視した「同質」ではない、ということでしょう。
  </li>
  <li>回答40「適切でない。同質ななにかを共通してもっているかもしれないが、その性質が持つ方向性は異なるから。」は、「方向性」ということで、等号ような逆関係を含まない、という点に気づいているという点でOKとしました。回答59も同様。
  </li>
  <li>「等しい」は、①特定の両関係というか、②方向性というか、このあたりに着眼できるかどうか、が決め手です。</li>
</ul>
}}
#qanda_scorechart(5,4)

**価値の存在 [#z535d73a]
-すべての商品は価値という性質をもっている。この商品が価値をもつことを、商品には価値が「ある」という。

RIGHT:3mini
#qanda_set_qst(5,5,0){{
<p>①「ペンがある」と②「価値がある」。</p>
<p>二つの「ある」の違いを簡潔に述べよ。</p>
}}
#qanda(5,5)
#qanda_solution(5,5){{
<h4>解答</h4>
<ul>
  <li>五感でわかる①の「ある」と、五感だけではわからない②の「ある」。</li>
</ul>
<h4>別解</h4>
<ul>
  <li>②の「ある」は、「商品である」に条件付けられた「ある」である。②の「ある」は、無条件の独立した①の「ある」に従属する。つまり</li>
  <ol>
    <li>ペンがある。</li>
    <li>そのペンは商品である。</li>
    <li>商品ペンには価値がある。</li>
  </ol>
</ul>
<h4>解説</h4>
<ul>
  <li>切羽詰まった舌っ足らずの「解答」です。 </li>
  <li>でも、ポイントはついているかも。短い時間でみなさんに期待するのは、この程度の回答です。</li>
  <hr>
  <li>とはいえ、あまりに簡単すぎるので、少し補っておきます。</li>
  <li>「五感 five senses でわかる」というのは、哲学用語をちょっと借りれば「知覚できる」ということです。この知覚 perception というのは、西洋の哲学の世界観を二分するキーワードです。
  <li>今みえている目の前のペンはたしかに「ある」が、目をつぶったら?...みえなくなったペンは、もう「ない」のだ、と言い切れるかどうか?</li>
  <li>知覚できるものは、たしかに「存在」する、ものとしよう(存在の第一規定)。では、知覚できないものは?「見えなくってもあるんだよ」と、<span class="tooltip">存在の第二規定<span
        class="dscp"><span class="text">超越論的存在っていうのでしょうか。「超越」tranzendental
          って、要するに知覚を超えているということだ、という意味でつかえばですが...</span></span></span>を認めるか。</li>
  <hr>
  <li>本問の①はみえる「存在」、②はみえない「存在」です。「価値」はみえないけれど、商品にはやはり「価値」が「ある」のです。</li>
  <hr>
  <li>時間があれば、もう少し、掘りさげてみます。こんなこと、めったに考えないことですから。</li>
  <li>「ペンがある」なんて、ふつういいません。There is a pen. などというのは、文法の教科書のだけ。「長いペンがある」ならいうかも。There is a long pen. というのは、The pen is long.
    がいいたいことの中身で、どんな特性も指定されないペンなるもの a pen が「存在」するなど、普通は意味のない発言でしょう。知覚はモノそのもの a pen ではなく、モノのある性質 long/short に対してはたらくのです。
  </li>
</ul>
<h4>After</h4>
<ul>
  <li>多くの回答が「①のあるは存在を意味し...」と「ある」を「存在する」という言い換えですまそうとしていました。「物理的に存在」とか「物質として存在」とか、修飾句をつけて不充分。ここで「ある」=「存在する」としてしまうから、②のほうが価値は...としては「存在しない」という文の流れになってしまいがち。</li>
  <li>①も②も両方とも、「ある」=「存在する」という前提から出発して、「ある」の違った性質を説明する文の流れにすることが基本です。</li>
</ul>
}}
#qanda_scorechart(5,5)

**価値の量 [#w155f52f]

RIGHT:3mini
#qanda_set_qst(5,6,0){{
<p>価値というのは、知覚できない性質であり、したがって量ではない。</p>
<p>真か偽か。理由を述べよ。</p>
}}
#qanda(5,6)
#qanda_solution(5,6){{
<h4>解答</h4>
<ul>
  <li>偽</li>
  <li>量であることにとって、直接知覚できるかどうかは、必須の要件ではない。</li>
  <li>必須の要件は、人によってバラバラにならず(客観的に)はかれることである。</li>
</ul>
<h4>解説</h4>
<ul>
  <li>たとえば「電界の強さ」「放射能」など、計量法にでてくる「物象の状態の量」のなかにも、知覚できないが「単位」が法定されているものもある。</li>
  <li>しかし、価値の単位は、計量法にはでてこない。計量法にでてくる「物象の状態の量」以外の性質のなかにも、その量が考えらるものはある。</li>
  <li>たしかに、商品の「価値」の量は、「物象の状態の量」のように計測装置を使ってはかることはできない。その量がどのようにはかられるのか、それはこの後の話の主題になる。</li>
  <li>現段階では、「等しい」$A\sim B$ というは、「Aの価値は、ある量において、Bに等しい」のであり、どんな量のBであろうと「等しい」のではないことを確認できればよい。</li>
  <li>質と量をわけ、量の側面を無視し質だけ取りだして「同《質》性」というのと、価値が「等しい」というときの「同《等》性」とを混同してはならない。「同等性」は《等量》Equivalent という量の概念を含むのである。</li>
</ul>
<h4>After</h4>
<ul>
  <li>「同じ商品でも価値は人によって異なるになるから、量としてはかれない」というタイプの回答が多くありました。</li>
  <li>「人によって異なる」のは「価値」ではなく、「有用性」、「使用価値」、「効用」です。
  </li>
  <li>価値は主観的なものだ、という考えを棄却するために、あるいは棄却できるように,この講義では延々、言葉遣いを定義してきました。ここが最後のチャンス、まだ、わからない人は、もう一度,モノの定義から、たどってみてください。世の中でいろいろ使われている言葉が無意識のうちに紛れ込んでくるので、たえず、この講義の定義から外れていないか、反省してください。</li>
</ul>
}}
#qanda_scorechart(5,6)

RIGHT:3mini
#qanda_set_qst(5,7,0){{
<q>商品の価値は、個々の商品ごとにそれぞれ存在する(「ある」)。</q>
<q>商品所有者1の缶コーヒー$A_1$,
  商品所有者2の缶コーヒー$A_2$,商品所有者3の缶コーヒー$A_3$は、モノとしてはまったく「同じ」であっても、$A_1$の価値の大きさ、$A_2$の価値の大きさ、$A_3$の価値の大きさは、量として異なる可能性がある。</q>
<p>真か偽か、理由を述べよ。</p>
}}
#qanda(5,7)
#qanda_solution(5,7){{
<h4>解答</h4>
<ul>
  <li>偽</li>
  <li>価値は《商品の》性質であると定義したのであるから、持ち主がだれであろうと、同種の商品なら、その価値の量は同じである。</li>
</ul>
<h4>解説</h4>
<ul>
  <li>いちばんむずかしい問題です。</li>
  <li>価値は、商品に帰属する性質であり、人に属する性質ではない、という含意が、上記の「価値の定義」には込められている。...と読め、というのですが、そこまで読みとるのは無理でしょう。</li>
  <li>この問題で正解できなくてもOKです。ただここで、あらためて、価値は商品に属する性質で、混ぜたら区別がつかなくなる同《種》の商品は、すべて同じ量の価値をもつ、という原則を確認してください。</li>
  <li>ついでにすこし先回りして解説しておきます。あとで「価格」の話をしますが、この「価格」なら、同種の商品でも、売り手によって個々まちまちの価格がつけられる可能性があります。</li>
  <li>このあと「価値」と「価格」を区別して規定しますが、この区別は、価値を商品《種》の性質として規定することによるのです。</li>
  <li>だから逆に、同《種》の商品が大量に存在しないなら、あえて価値と価格を区別する意味はないことになります。前回話した
    unfungibleなアイテム、この世に1枚しか存在しない名画など、一点物に対して、価値と価格を区別する意味はないことになります。 </li>
</ul>
<h4>After</h4>
<ul>
  <li>第三者の目からのみれば!!混ぜたら区別のつかない,同じ種類の商品をみな同じだ、ということ。持ち主が自分の商品だけの価値を評価しても,無意味。</li>
  <li>回答14「商品とは100%他人のための使用価値をもっているものであるため、他人にとっては誰の缶コーヒーであろうと、すべて等しい価値を持つから。」は tres bien, ou plutôt le mieux でした。</li>
  <li>混ぜたらわからなくなる、同種の缶コーヒーでも、好きなアイドルが手のとった缶コーヒー$A_x$は、特別に価値がある、と思う人もいます。フェテシズムの世界にすんでいる人です。ほかの$A_1,A_2,\cdots$ と混ぜたらわからなくなるのに、それでも$A_x$を大事にしまい込んだり... とっても、けっしてバカにはできません。そういう自分も、まったくフェテシズムの世界から無縁か、と反省すれば、人は多かれ、少なかれ,モノとフェティッシュなつながりをもっているものです。「思い出の品」などというのがあります。なくしたら同じものを買えばいいじゃない,ではすまないでしょう。</li>
  <li>混ぜたらわからなくなる、同種の缶コーヒーでも、好きなアイドルが手のとった缶コーヒー$A_x$は、特別な価値がある、と思う人もいるでしょう。フェテシズムの世界に生きている人です。ほかの$A_1,A_2,\cdots$ と混ぜたらわからなくなるのに、それでも$A_x$を大事にしまい込んだり...</li>
  <li>といっても、けっしてばかにはできません。フェテシズムの世界から無縁だと思っている人ほど、実は、フェティッシュなのです。反省すれば、人は多かれ、少なかれ,モノとの間にフェティッシュなつながりをもっているものです。</li>
  <li>たとえば「思い出の品」などというのがあります。生前父が大切に使っていた万年筆、なくしたら同じものを買えばいいじゃない,ではすまないでしょう。</li>
  <li>「思い出の品」は、unfungible な一品モノです。が、この講義で対象とする商品は、こうしたunfungileな商品ではなく、いくらでもかわりがある、fungibleな商品です。</li>
</ul>
}}
#qanda_scorechart(5,7)

-----
#qanda_set_qst(5,101,0){{
<p>ここまでの範囲でわからないことがあれば質問してください。</p>
<p>「...ということですが、その理由がわかりません。」というような質問でOKです。</p>
<p>できれば「...ということですが、私は...ではないかと思います。」あたりまで突っ込んでください。</p>
}}
#qanda(5,101)

**まとめ [#r5e3e46f]


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