Obata Michiaki-J 『経済評論』原稿

情報と市場

--- マルクス経済理論の観点から ---
\thanks{1992年度科学研究費研究「情報化社会と人間」 「資本主義経済の変容と産業構造の転換」に基づく研究}:『経済評論』原稿\\

はじめに

重い媒体

データ・ソフトウェア・知識

情報の商品化

知識・機構・組織

市場の変容

biblio

Obata Michiaki-J \section*{はじめに} 近年、情報の問題は経済学の理論のなかで 次第にクローズアップされる傾向にあり、 さまざまな接近方法が試みられている。 そうしたなかにあって、 マルクス経済学においても実証的な研究の領域では、 現代資本主義の特質を分析するといった視覚から、 情報通信技術の発展の影響が 次第に重視されるようになってきているが \footnote{ たとえば、 中岡哲郎 『工場の哲学 --- 組織と人間 ---』,平凡社,1971年や、 Braverman, H., {\it Labor and Monopoly Capital}, 1974, chap.15(富沢賢治訳『労働と独占資本 』、岩波書店、 1978年) などでは、比較的早い時期に情報技術がもつ意味を 『資本論』の労働過程論を基礎として的確に分析されている。 また、Mandel, E., らによる長期波動論的な研究や レギュレーション学派によるポスト・フォーディズムの理論などでも、 情報通信技術の革新に対する強い関心が示されている。 }%ENDNOTE 、 純粋理論的な観点からこの問題に取り組む態勢は まだ充分整っているとはいえない。 たしかに、『資本論』のなかで情報の問題が 直接論じられている箇所を 見つけだすことはむずかしいかもしれないが、 だからといってこの問題がすべて実証的な分析手法で 研究されなければならないということにはならない。 事実、あらためて考えなおしてみると、 マルクス経済学の理論的な枠組みは、 オーソドックスな近代経済学の場合よりも、 情報の問題を考察するのに本来ふさわしい条件を 具えており、 また情報という表現をとることこそなかったが、 実際上この問題を独自の視覚から追及してきた といってもいいのである。

今日さまざまな方向から議論されている 情報をめぐる問題は、 マルクス経済学の理論の観点から捉え返してみると、 次のような二つの問題群に分かれてくる。 その一つは、生産技術との関連である。 従来マルクス経済学は、技術の問題を 経済過程に対して所与のものとして 理論的な考察の枠外におくのではなく、 むしろ人間労働の特質の解明を基礎として、 生産方法の発展が経済社会に及ぼす作用を 一つの重要な考察対象としてきた。 『資本論』に即していえば、 「労働過程」の分析を基礎とした 協業・分業・機械制大工業の展開において、 マルクスは彼の時代における先端技術の趨勢が 資本家と労働者の間の社会的な関係に及ぼす 影響力の分析にいち早く着手したのである。 そして、今日の情報通信技術の新たな進展は、 彼の時代とは異なる労働の知的な領域においてではあるが、 しかしある意味では同じような類型の社会的な作用を 加えつつあるように思われる \<\footnote{ 小幡道昭「コンピュータと労働」,『経済学論集』( 東京大学), 58-3, 1992年をみられたい。 }%ENDNOTE 。 だが、情報が問題となるのはこのような 直接的な労働過程においてだけではない。

もう一つの問題群は、 マルクス経済学固有の市場理解に 関わるものである。 それは「完全情報」というような想定を 基本とした理論とは、 本質的に異なる市場像を提示してきた。 本稿では、こちらの問題群に焦点をあて、 市場との関連において、 情報の問題の内部構造を整理してみることにしたい。 ただ、その前提となる市場像に関しては、 マルクス経済学者の間においても、 必ずしも共通な了解があるとは思われないので、 この点に関して簡単に私見を示しておくことにする。 Obata Michiaki-J

重い媒体

市場なるものをどう理解するのかは、どのような経済理論を たてるにせよ、おそらくその核となる問題であり、 それは商品の価格現象をどのように 把握するのかという、価値論ないし価格理論に 結晶する面をもつ。 この点についていうと、 周知のようにマルクスは いわゆる労働価値説をその根幹としていた \<\footnote{ 労働価値説という表現でマルクスの価値論を概括することが、 必ずしも適当とはいえない面がある。 小幡道昭『価値論の展開』, 東京大学出版会, 1988年, 192頁をみられたい。 }%ENDNOTE 。 ただこの説自体はマルクスに特有のものというより、 彼の時代の支配的な経済学、すなわち リカードに代表される古典派経済学の理論構成を、 搾取理論を埋め込むかたちで 批判的に取り入れたものであった。 そしてマルクスは、それと同時に労働価値説の帰結である 商品に内在する客観的な「価値の大きさ」が 市場においてどのように実現されるのかという問題に検討を進め、 それがそのまま、あるいは平均において実現されるとみなす、 古典派経済学の予定調和的な市場像に鋭い批判を加えたのである。 たしかにそれは、 商品がまさにその「価値どおり」には 売れないという恐慌現象をめぐって展開された 当時の論争に触発された面をもっており、 またそこに市場経済の欠陥を読みとろうとするマルクスの イデオロギーが強くはたらいていたことも否めない。 しかし、マルクスはそこから遡って、 もっとも抽象的なレベルにおいて、理論的に 市場それ自身のもつ無規律な性格を分析する方法を 開拓していった。 こうした試みは、『資本論』冒頭の商品論に示された 「価値形態論」の構築にまで及んでいったのである。

このような特徴をもつ『資本論』を基礎として発展してきた マルクス経済学は、 市場そのものに対する次のような独自の認識を 内包する結果となっている。 すなわち、そこでは多かれ少なかれ、 商品の販売には一定の時間がかかるものとされ、 資本の運動の内部には生産期間と 区別される固有の流通期間が存在し、 そこに特殊な性格をもった資本の投下と 費用の支出が避けられないものとする 理解が示されている。 このような状態は、 市場が不完全であるために生じる特殊問題の対象ではなく、 まさに商品価値の本質を論じる 一般理論の課題とされてきたわけである。 そして、 このように市場を通過するのにある期間を 要するというマルクス経済学の基本認識は、 必ずしも労働価値説でなくてもいいわけであるが、 ともかく商品の価値が市場において はじめて与えられるのではなく、 生産過程を通じてあらかじめ 決定されているとする理解と深く結びついていた。 これに対して、 商品の価値は需要供給の反映でしかないと考えるのであれば、 商品がすぐに売れず多少とも市場に対流する現象は、 その商品の売値が高すぎるからであり、 商品在庫が存在するのは けっきょく市場の情報伝達機能が不完全で、 価格が弾力的に変化しないためだ ということにならざるをえないからである。

このようにみてくると、 マルクス経済学が価値形態論の展開を通じて、 貨幣でならなんでも買えるという市場構造を 強調してきたことの背後には、 いつでも市場が売れ残りの商品在庫で充填されており、 逆に売り手は自由な貨幣所有者のなかから、 自己の商品の特殊な使用価値に関心をもつ相手を発見すべく、 たえず一種の情報活動を強いられる状況にあるのだといった 認識が控えている。 こうして、マルクス経済学が提示してきた 市場の基礎構造には、 個別主体が無秩序な世界を どのように把捉し行動するのかという点をめぐって、 いわば重い媒体としての市場に特有な情報の問題が 内包されていることがわかるのである。 Obata Michiaki-J

データ・ソフトウェア・知識

さて以上のようマルクス経済学の市場認識が 情報の問題にいかなる分析視角を可能にするのか、 という課題にすすむまえに、 もう一つ情報という概念を ここではどのような意味内容で用いようとしているのか、 という点をはっきりさせておきたい。 けだし、社会科学者が使う「情報」という表現ほど、 曖昧な諸要素を無造作に包括しているものも少ないからである。

ここでは、市場における情報の意味を考える という目的に沿って、それを データ、ソフトウェア、知識という三つの契機に 分けて捉えてゆくことにしたい。 それはなによりも、情報なるものが、 たえずなにがしかの処理過程のうちにあり、 けっしてある過程の結果として与えられた、 静態的・固定的な物量ではないことを 強調したいからである。 すなわち、 日々刻々移り変わる対象世界は、 その状態に関する種種雑多な記録(「データ」)を 生みだすことになるのであるが、 それらは一定の手続き(広い意味における「ソフトウエア」)に したがって処理され、 主体による判断と行動の基礎となる認識(「知識」)に 繰り返し加工されてゆくというように考えるわけである。

工学的な意味における情報の概念は、 一般にはこのうちデータの層に焦点をあて、 ある特定のデータが交信を通じてどのように 別の装置や人間の意識に再現されるのか という問題を中心に展開されたといってよい。 この意味でも情報という概念は、交信という それ自体社会的な契機に深く結びつく 性格を具えているのであるが、 社会科学の固有の領域では、 このようなデータ層での横の再生処理とともに、 社会的なデータ交信が主体の行動にどのように結実するのかという、 いわば人間主体に向かう縦の加工処理が あわせて重要な問題となる。 かりに市場に焦点をあてて考えるとすれば、 さまざまな場所でいろいろな時期に、 同種の商品も異なった価格で取り引きされる可能性があるが、 こような価格状況に関する分散したデータが、 市場という場を介して 個別主体のもとにどこまで正確かつ効率的に再現されるか、 という横の関係とともに、 こうして収集されたデータがいかに関連づけられ、 特定の行動の基礎となる知識に転換されてゆくのかという点が、 経済的な行動の分析においては本質的な問題となってくる。

いまかりに、ここ一週間の間に日本全国で ある規格のメモリ・チップがいつどこで、 どのような価格と数量で取り引きされたかを 調べてたとすれば、 おそらくその記録は膨大な量にのぼるであろうし、 それをただ眺めていたのでは混乱の種になるに過ぎない。 それは特定の目的に沿って、 たとえばどの地域で相対的に高く売れているのか、 またそこでの平均価格はなお上昇傾向にあるのか、 さらにはその上昇がある買い手が大量に 発注したといった特殊事情によるものか、 それとも一般的な品薄によるものなのか、 といったことをデータのうちに 読みとってゆかなくてはならない。 このためのデータの処理過程は、 さまざまな手続きの積み重ねを要するのであり、 そこには現存のコンピュータに 実行させる形態にあるかどうは別として、 広い意味におけるソフトウェアの 動員が不可欠となる。 しかもその処理過程においては、 同じようなデータからも、 主体の関心に応じたさまざまな知識が 引き出されてくる可能性がある。 いずれにせよ以上のような意味において、 知識は個々のデータに内在するものではなく、 むしろその隙間からたえず湧出してくるものなのであり \<\footnote{ 工学理論的な情報概念に社会科学的なそれが還元できないといる観点から、 石沢篤郎『コンピュータ科学と社会科学』,大月書店,1987年, 142頁では 同じような主張がなされている。 ここでは、本稿で使ったデータという用語はメッセージとなっており、 おそらくそのほうが正確な表現かもしれない。 }%ENDNOTE 、 情報とはデータが集積され整理され 知識に加工される過程的存在なのである。 Obata Michiaki-J

情報の商品化

以上のような市場像と情報概念とを重ねあわせてみると、 いわゆる「情報の経済学」として論じられてきた 内容 \<\footnote{ たとえば、野口悠紀雄『情報の経済理論』,東洋経済新報社, 1974年 などでは、情報を「経済財」として捉え、 その取り引き形態と生産をめってその特殊性が、 どのようにして市場の原理で処理可能か、という観点から 考察が進めらえている。 }%ENDNOTE に対して、次のような疑問が生じてくる。 すなわち、情報なるものがはたして第三の種類の 商品たりうるか、という問題である。 情報の問題に対する一つのアプローチとして、 現代の経済では、物的な財やサービスとならんで 第三の商品たる情報が占める比重が増大しており、 市場現象の解明には このような商品の特殊性を織り込んだ新しい 理論が必要だといった主張がしばしばなされる。

しかし、 市場における活動にとって、 情報がますます決定的な意味をもつようになってきている ということと、 市場における取り引き対象として 情報の占める割合が大きくなってきている ということとは、 基本的に異なることである。 そして、これら二つの事態は両立する関係にあるというよりも、 むしろ背馳する可能性が強いのである。 すなわち、 必要な情報が市場で自由に取り引きされ、 他の商品と同様に貨幣を支払えば いくらでも入手可能だとすれば、 それは従来市場を介した社会的な分業編成の内部で、 新たな技術を体化した生産手段が調達されてきたのと 基本的には同じようなことになる。 このような意味で、情報が商品化してしまえば、 情報を収集加工する企業内部の活動は 収縮するはずであり、 市場における情報活動は、 分業の原理により大幅に節約されるはずである。 だが実際には、 「情報の商品化」には大きな制約があり、 むしろその結果、 生産過程における社会的な分業の深化のなかで、 商品化しにくい経済主体の 情報活動の比重が相対的に高まらざるをえないという点に 問題の本質が横たわっているように思われるのである \<\footnote{ 池上惇『情報化社会の政治経済学』,昭和堂, 1985年 43頁 で照会されている Hirshleifer, "Where are we in the Theory of Information\?", {\it American Economic Review}, 63-2, 1973の議論なども 参照されたい。 }%ENDNOTE 。

とはいえ、あらゆる情報過程のすべての層において、 市場原理の浸透が一様に 困難で成り立ちえないというわけではない。 さきに分析したような情報をめぐる 横の再生と縦の加工という構造をふまえてみれば、 このうち広義のデータ転送に関わる横断的な基層は、 従来からさまざまなかたちで市場を介した 取り引き関係にさらされてきた。 出版とか新聞といった紙を媒介としたデータの 転送や放送・通信などの新たなマスメディアは、 それが物的な生産活動を押し退けて 経済活動の中心になるとは思えないが、 独自の産業的地位をかためつつあることはたしかである \<\footnote{ したがって、そのかぎりにおいてこの種の商品に関しても、 その価値がどのようにきまるのかという問題に答える必要はあろう。 このうち、転送媒体や転送サービスの部分に関しては、 従来の価値論を変更する必要はないが、 必ずしも投入と産出の確定的な関係の 存在しないそれと異質な部分に関してまで、 生産過程の技術的関係がその価格の運動を規制するという 考え方を適用しようとすることは論理的に無理があろう。 マルクスの価値論を外部から眺めると、 情報財の価値は労働価値説では 説明できないのではないかという疑問は 当然に生じてくるのであり (竹内啓「情報化とこれからの経済学」 『経済セミナー』,1987年12月 )、 それに対してマルクス経済学の立場からも、 この種のいわゆる情報商品の価値を労働価値説の 拡張によって説明しようとする試みもなくはないが、 それに与しえない。 労働価値説が基本的になんにでも 当てはまるというかたちで一般化をはかるのではなく、 むしろそれが妥当する対象の明確に画定し、 たとえば純粋の知識のような、 それが適応できない対象との関連を掘りさげることこそ、 マルクス価値論を積極的にいかす途である、 というのが本稿の基本的な立場である。 また、労働にかえて「情報・サービス財」の 基礎財としての性格に注目し、 「情報価値」説を展開する試みもあるが そこにはなおのこと疑問がある。 酒井凌三「『情報化社会』と労働価値説 --- 試論 --- 」, 『名古屋学院大学論集』, 28-2, 1991年。 }%ENDNOTE 。

しかし、この場合でも、 データそのものが 独立した商品として販売されるということは まれなのであり、 実際におこなわれている内容は、 電話事業のようにデータの販売ではなく 純粋に転送サービスを供給する活動であったり、 あるいは、 手元にあるデータのなかから相手の求める ものを抽出し、その複製を相手のもとに 迅速にかつ正確に再生するものであったり、 いずれにせよ 一種のサービス業務と一体となって 「情報の商品化」もおこなわれてきたにすぎない。 情報なるものは、 なにかしら独立した粒のように 個々ばらばらに量り売りされるような 性質のものではないのであり、 それはすでに強調したように 集積し関連づける活動に媒介された 過程的な性格を容易には脱しえない面をもつ。 その点を無視して、 近年における情報通信技術の発展が、 ただちに情報そのものの商品化を 等しなみに促進するものであるかのように 即断するわけにはゆかないのである。

Obata Michiaki-J

知識・機構・組織

だがともかく、 このようなサービス産業の拡大という形態をとってではあれ、 情報通信技術の急速な発展のもとで、 現在急激に社会的なデータの横断的な転送が 大量化・高速化し、その精度を高めてきている という事実は否定しがたい。 では、この帰結はどうなるのであろうか。 ますます大量かつ正確に 収集可能となった流動的なデータによって、 現実の判断と行動の基礎となるような 知識が形成される縦の断面が どのような影響を被ることになるのかという点が、 次に当然問題となってくるのである。

ところでマルクス経済学の理論研究は、 すでにこの断面への商品化の浸透が、 いかなる障碍に直面せざるをえないかを さまざまな角度から分析したきた。 生産価格論を基礎とし 商業資本論や信用論の展開を通して構築されてきた その市場機構の理論は、 市場に関する知識がそう簡単には売買できないという 基本的な認識を土台としてきたといってよい。

たとえばさきの例にもどっていえば、 いま特定の規格のメモリ・チップの価格が、 ある地域の売り手たちから相対的にやすく 購入できそうだという知識をいちはやく 得たものがいたとしよう。 問題はこの知識がそれ自身として 商品化し、取り引きの対象となりうるかどうか、 という点にある。 しかし、利害関係に密着したこの種の知識は、 相手がその正しさを確信しないかぎり売れはしない。 しかし、データをソフトウェアで加工して獲得した結果のみを その過程から切り離して販売しようとするのでは、 一般に確信までは売れない。 そのためにはデータを開示しその加工の手続きまで相手に説明し、 その知識が形成される過程をもう一度相手のまえで 再現し説得しなくてはならない。 だがそれでも、 その確信がどこまで相手のもとに再生するかは 定かではないし、 それを完全にしようとすればするほど、 この知識を獲得する方法まで すべて相手に売り渡すことになり、 知識のみを売ることの利点は消滅する。 このような障碍が程度の差はあれ避けられないがゆえに、 一般的には知識を独立に取り引きするのではなく、 むしろ実際にその知識に基づいて、 自らの危険負担で相対的にやすく買い取り、 それを相場で売るという活動形態のほうが普及してきたのである。

同じようなことは、信用関係の形成をめぐる 理論構成に関してもいえる。 無秩序におこなわれる商品の売買関係のなかでは、 ときとして相対的に早く売れ資金に余裕をもつ主体や 逆に販売がたまたま遅延して資金の不足に悩む主体が生じてくる。 このような関係がある商品の売り手と買い手の間に生じた場合、 前者が後払いででも自己の商品を 高く売ろうとすることはありうることである。 しかし、このような信用取り引きの形成において たえず問題となるのは、それによって繰り延べられた 将来の支払いを、売り手がどこまで確信できるかという点であった。 このことは、基本的には、 買い手が次に自己の商品を販売し支払代金を回収しようとしている側の 市況を調査することで察知してゆくほかない。 しかし、この点に関するデータも処理手続きも知識も、 この両者の間で均質だという保証はない。 こうした場合、資金の事実上の融通を受ける買い手の、 将来の返済資金の取得の確実さを保証するにたる 知識を得た第三者がいたとして、 その場合この第三者がはたしてその知識だけを 切り離してこの場合の売り手に販売できるのかというのが、 銀行信用の一つの基本問題であった。 しかし、ここでも実際に生じてきたのは、 この種の知識を取り引きする独立の市場が形成され、 そこで競争的な売買がされるという関係ではなかった。 このような個別主体の利害に関わる知識は、 自らそれに基づき判断し行動することによるほか、 基本的には利用しにくいのであり、 この場合も第三者たる銀行は、 その形態はさまざまなであろうがともかく、 一方で債権をもつというと同時に、 他方で自ら債務を負う構造を展開することなしに、 その固有の知識を利得の手段に転じることはむずかしいのである。

こうして、 市場がけっして真空状態ではなく、 商品がそこを通過するには、 多少とも時間と費用とを要すると 考えてきたマルクス経済学の理論は、 市場という場が一方では、 データを収集しそれを独自の手続きで処理し、 特定の目的に沿った知識を得るといった、 動的な情報処理を個々の主体に強く求めながら、 しかし他方では、 この種の情報自体が独立した商品として 売買の対象とはなりにくい という結論につながってゆく。 \<\footnote{ Hayek,F., "The Use of Knowledge in Society" {\it American Economic Review}, XXXV, No.4, 1945 (田中正晴・田中秀夫編訳『市場・知識・自由』,ミネルヴァ書房, 1986年所収 ) は、近代経済学の流れのなかで、 いち早く市場のもつ情報伝達機能を中心に考察している。 この伝達機能が充分であれば情報自身の商品化が生じない ことになるのであり、事実ここには情報自身が独立に 売買されるという問題は強調されていない。 しかしその反面、情報活動にコストがかかるという点は ほとんど無視され、価格システムは変化を記録する一種の機械 にたとえられている。 これに対して、 マルクス経済学では、市場における個別主体は、 少しでもやすく買い高く売ろるべく、 無規律な市場で利得追及に奔走せざるをえないとする想定が なされており、そのことがかかる過程への資本と費用の投下を 不可決とすると考えられている。 こうして、 効率的に伝達されたかにみえる情報伝達も、 実は秘匿された情報を探りだすことで 個別的に利得をあげようとする 私的な活動の結果である点が強調されるのである。 }%ENDNOTE 。 その結果、市場に固有な知識の利用は、 商品売買やそれに付随する信用仲介を 自らの責任負担で遂行する 商業資本や銀行資本の発達を促すことになるのであり、 いわば重い媒体としての市場は、 知識の販売の困難という抵抗物に直面して、 独自の機構を形成してゆくわけである。

この関係は、一般の資本の内部に存在する いわゆる流通費用が独立し、 流通資本や余裕資金が外化したものであるとして、 理論的に捉えてゆくもできよう。 ただこのような外化・独立が、 一般の資本の側の情報活動の停止を 意味するものではない点は充分注意する必要がある。 もし一般の資本の側が 自己の商品をできるだけ迅速に 高く売るための情報活動を怠ったり、 あるいはできるだけ有利な条件で信用を与えてくれそうな 相手を自ら調査し判断してゆくこと回避するようになれば、 市場における知識を集中した商業資本や銀行資本との間で、 不利な取り引きを強いられることになる。 この意味で、市場が一方で知識そのものの販売の困難から 独自の機構化を遂げてゆくとすれば、 一般の資本の側にもむしろそれとの対抗上、 独自の情報処理活動をはかる内部組織が 発達する可能性は充分ある。 それは資本の内側にあったものが そのまま外部に押し出され、 単純に独立したというよりも、 両者のそれぞれで変形しつつ 分化したという性格をもつ点を見逃しては ならないのである。 Obata Michiaki-J

市場の変容

さて以上のような基本的枠組みをふまえてみると、 一九八○年代における情報通信技術の急激な発達と その普及の影響はどのように捉えうるであろうか。 まず第一に確認しておきたいのは、 この技術革新が基本的には、 知識形成の縦の断面に比べて、 データ層の横の交信の断面において 相対的に強力に作用しているという点である。 このような不均等な力のかかり方は、 市場構造に対して変容を惹き起こす可能性が高い。 資本主義経済の歴史を振り返ってみても、 広い意味での交通・交信に関わる技術革新は、 これまで何度か繰り返されてきた。

たとえばいわゆる「帝国主義」政策と密接に結びついた 鉄道開発とか、あるいは合衆国の大衆消費社会を 支える一つの基盤となった電話回線の普及など、 市場の構造に直接的な影響を与えることにより、 資本主義の発展段階を画する重要な契機となってきた。 そして、通信網といういう意味では、 一九八○年代における技術革新も基本的には 電話回線による通信網の発達の延長線上にあるといえなくもないが、 しかし、そこにはある決定的な断絶があることも見逃してはならない。 たとえば電話回線がもっぱら頼ってきた肉声による交信では、 基本的には知識のレベルにおけるものが中心とならざるえず、 その基底となる操作可能な大量のデータ自身は なお紙などの固定的な媒介を通じて、 物理的に輸送されるほかなかったといってよい。 これに対して、現在進行している技術革新の特性は、 データ層における大量転送ないし瞬間的なアクセスへの途を拓き、 基層における急激な流動化を生みだす大きな潜在力を秘めている。 ここでは人間が関与してデータから特定の知識を引きだし、 それを主体間で伝達するといった従来の方式に対して、 次第に根本的な変容をもたらしつつあるのである。

そこで第二に問題となるのは、この基底における変化が、 市場機構に対してどのような作用を及ぼすか、 という点である。 市場における人間行動の基盤となるような 基本的な事実に関するデータが大量高速に流動化するとすれば、 まず当然、この大量のデータから特定の知識を引きだし、 それを利得獲得のために利用する市場機構の高度化を もたらすのではなかと考えられる。 すでに述べたように商業資本や銀行資本は、 市場に関する知識が独立の商品として 売買しにくいという点に基礎をおき、 自ら資本を投じて独自にデータを収集し、 固有の処理手続きを施し的確な判断をくだすことで、 市場における情報活動に特化したことの優位性を 保持しえたのだとすれば、 その基底をなすデータ層の流動化は、 一般にこうした特化を加速する動力となりうるように思われるのである。

しかし第三に、次の点もあわせて考慮しなくてはならない。 それは、情報通信技術の発展によってもたらされてくるのが、 磁気的なデータに端的に示されるような 微細で結合・分離といった処理を加えやすい形状を とっているという点である。 それらは従来の人間の記憶や 紙などに記録されたデータとは異なり、 それを収集し記録した主体の手からはなれて、 さまざまな状態で浮動し拡散する性格を 強くもっている。 このことは、これまでデータとその処理手続きが、 市場機構の取り引きに特化した主体と 分かちがたく結びついていた構造を 突き崩す可能性を内包している。 従来市場における活動に特化してきた主体のもとに統括されてきた、 データ収集、処理手続き、知識に基づく判断といった 複雑な過程がコンピュータの単純な構造にそう簡単に 移しかえられるとは考えられないが、 そこで扱われるデータが大量で微細な操作対象と 化してゆくなかで、その複雑な過程の周縁部から徐々に 機械的な分解作用が及ぶことは充分に予想される。 そしてこのようなデータの特性が強まってくれば、 その操作を通じて得られる知識の特殊性は 低下してくることになる。 すでに見たように、市場の活動に特化した資本と それに基本的に依存する途を選んだ一般の産業資本との間には もともと強い軋轢があり、後者が市場における情報活動を いっさい回避することがありえないことは マルクス経済理論の示すところである。 そして、市場をめぐるデータの性格が、 それに専従する主体から剥離し、 機械的な処理過程に馴染む傾向にあるとすれば、 それはこれら二種類の資本の間での 分業の利点を収縮させることになる。 その意味において、 市場における情報活動に特化し集中的に得た知識を もとに活動しうる余地が浸食され、かわってどの資本も 同じように組織的な情報処理活動を展開し、 個別的に市場の無規律性に対処してゆくという 構造を生みだすような側圧の存在も 看過しえないのである。

以上のように分析してくると、 近年における情報通信技術の発展と普及は、 市場での活動に特化した資本も含めて、 市場における情報処理過程がすべての資本間の 競争の大きな機軸に転じ、 その内部の緊張を高めてゆく可能性が大きいのであり、 こうした強力な磁力のもとで、 資本対資本の間で繰り広げられる情報処理活動に ますます多くの労働力が吸収されることも予想される \<\footnote{ この種の労働吸収の可能性については、 Petit,P., {\it Slow Glowth and the Service Economy}, 1986, chap.6-2 (平野泰朗訳『低成長下のサービス経済』、藤原書店、1992年) などを参照されたい。 }%ENDNOTE いずれにせよ、 目下台頭しつつあるコンピュータを核とした 情報通信技術の発展は、 従来のように生産技術の革新と生産力の上昇を通じて、 間接的に市場機構に変化を迫っているだけではなく、 それ以上に多数の主体が無規律に反応しあうという 市場そのもののもつ基本構造に 直接的な変容を迫る性質を具えているように思われる。 たしかに現実に生じつつある市場の変容が、すべて 本稿が扱ってきたような抽象レベルで 説明できるというわけではないが、 マルクス経済学の理論的諸問題を さらに掘り下げてゆく作業は、 少なくともその理解の一助たりうる 面をもつのではないかと考える。 Obata Michiaki-J \begin{thebibliography}{99}

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Last-modified: 2021-02-23 (火) 13:11:10