第3節「価値形態または交換価値」(つづき)
今回は、前回の「A 簡単な価値形態」に続いて、「B 拡大された価値形態」から「C 一般的価値形態」、そして「D 貨幣形態」まで読んでみます。ただ、価値形態論のポイントは、「A 簡単な価値形態」で、ある意味ではすでに尽くされています。そのポイントとは?もういちど、議論してみます。
『資本論』のテキストは、ちょっと読めばわかるとおり、はじめの「商品」のところがむずかしい。なんのために、この議論をしているのか、行く先がみえないまま、読むのはシンドいでしょう。…ということで、本文に入るまえに、ちょっと、余分な話をしておきます。
まず、読んでわかることは、商品の分析をこれだけ詳しくやっているネライはなにか? というと、「貨幣」について知りたいから、ということになると思います。貨幣を知らない人はいないのですが、あらためて、貨幣とはなにか、といわれると答えに窮する。毎日つかっているのに、わからない、そういうものは少なくないのですが、それにしても、貨幣は厄介な代物です。貨幣とはなにか?ということを、自問自答して、それから読むと、なるほど…と得心がゆくかもしれません。
ちなみに、いま、大学で標準的に教えている経済学で「貨幣」がどんなふうに扱われているのか?…と思って、ミクロ経済学の教科書をみても、貨幣の説明はなかなかでてきません。一般均衡論では、「全面的な物々交換」ができる、ことになっています。あとから、実は、一般均衡は実際には成り立たない、だから、貨幣があるのだ、という修正をするのですが、一般均衡が成立するための条件$\cal{P}$に、後から、別の条件$\cal{Q}$を追加しても($\cal{P}\cup\cal{Q}$)、貨幣を説明することはできません。完全情報というもとものと条件を差し替えなくてはならないのです($\lnot\cal{P}\cup\cal{Q}$)。貨幣を説明する理論を別に立てようとすると、途端に、一般均衡論のようなスッキリした理論ができなくなります。だから、貨幣のない一般均衡の全面的物々交換のモデルを参考にして、貨幣のある現実の世界はそれからズレたものとして理解すればいい、といった感じになっています。なんだか、どこかできいたような話….純粋資本主義論、なんていったら、大目玉をくらいそうですが、もちろん、全然違います、内容は。ただ、理論というのはどこか、キレイにつくろうとするとムリがでるものです。もう一度いっておきます、一般均衡論と純粋資本主義論は、縁もゆかりもありません!
こうしたわけで、標準的な市場の理論では、貨幣が説明できていない、あるいは、説明しないですむように理論をつくっている、これに対して、『資本論』のネライは、貨幣の実在する市場を理論化することにあるのだ、と思えば、がんばって読む気になると思うのですが….
とはいえ、貨幣は毎日使っているもので、現実になじみがあるものだけに、実は貨幣ってこういうものですよ、と理屈で説明されると、たしかにそういう面はあるけれど、でも、それってやはり、この目の前にある貨幣と違っていない、という気がすると思います。たいてい、現実そのもの(これが曲者で、じゃ、そのものってなによ、といわれると、そのものはそのものだ、とワケがわからないことになる)と比べると、理論どおりでないのが普通です。しかし、こうした細かい話は置いておいても、やはり、『資本論』で説明されている貨幣を、いま毎日使っている貨幣と比べると、明らかに違うのはたしかです。
『資本論』で導きだされているのは、金属貨幣、金貨幣です。一万円札のような銀行券は、商品から貨幣を説明するところではでてきません。マルクスのみていた19世紀にイギリスはそうだった、それは純粋な姿に近い資本主義だった、そこでは金貨幣が流通していたのだ、これが理論的に説明できればよい、そうでない銀行券が、あるいは預金通貨が流通する現実は、不純な資本主義だからだ、というのは、一つの説明の仕方ですが、これはやはり考えものです。このあたりは、『資本論』を読みながら、いろいろ、考えなおしてみるべきところでしょう。
たとえば、前回、議論した例の「価値物」の話なんかも、この問題に深く関わるのです。リンネルの価値を上衣で表現する、というのですが、上衣の何で?と質問したと思います。「商品体」で。じゃ、商品体でいいなら、等価物自身の価値は関係ないの?一枚、二枚って、たしかに、量的にはっきり数えられる、それで充分なんですか?いや、やはり、上衣に価値が内在することが前提になる、だから、ただの「商品体」じゃなくて、上衣の商品体を価値物にして、リンネルの価値ははじめて表現されるんだ、云々、という、禅問答のような話なんですが、実は、これが今の貨幣に通じる基本的な説明を考える大本になるのです。たしかに、今の貨幣は金貨幣ではないのですが、では、それ自体何の価値もない、ただ、量的に数えられる国家紙幣が流通しているのか、あるいは、やはり価値物としての制約をもっている銀行券なのか、といった議論につながるのです。
ちょっと難しい問題になりますので、また、次回、貨幣の章を読むときに、前座で話してみます。ただ、あとで、プルードン批判の註を読むときに、マルクス自身が目の間におこっている問題関心から、この価値形態論を考えていたことについてふれてみたいと思います。
ということで、本論に入りますが、そのまえにもうひとつ、用語の整理をしておきます。「価値」と「交換価値」の違いは? 「4 簡単な価値形態の全体」の第1パラグラフを見てください。また、この第3節のタイトルは「価値形態または交換価値」となっています。けきょく、価値、交換価値、価値形態、この三者の関係はどう整理したらよいでしょうか?
B. 全体的な、または展開された価値形態
「1.展開された相対的価値形態」のはじめにでてくる「リンネル価値の鏡」という「鏡」のメタファーは適切でしょうか?また、註(23)の「リンネルの上衣価値」をめぐる S.ベイリーへの論及について考えてみましょう。
最後の3パラグラフは「C 一般的価値形態」への移行規定です。この「移行」については、いろいろな議論がなされてきました。宇野弘蔵は、ここで等式の左辺と右辺を入れ替えてしまった(等式は逆の関係を含むとして)ことに異議を申し立てました。価値形態論を貨幣の導出の論理だと読むと、たしかに、この「移行」が最大のポイントになります。そして、この肝心カナメのところで、簡単に逆の関係を認めてしまったのでは、商品に対する貨幣の特別の位置がわからなくなる、と批判したのです。ここから遡って、こうした逆転を可能にした背景には、はじめに労働時間による価値量の規定があると考え、冒頭の商品価値のところで、いわゆる労働価値説を説いたことに、そもそも難点がある、と根本的な見なおしを主張しました。
この宇野の批判は、どう評価したらよいでしょうか。私は、宇野の批判自身も、やはり批判的に評価しなくてはならないと思います。現場で議論しましょう。
C.一般的価値形態
次のパラグラフをよく読んでみましょう。
「前の二つの形態は、商品の価値を、種類を異にするただ一つの商品によってであれ、その商品とは異なる一連の多数の商品によってであれ、一商品ごとに表現する。どちらの場合にも、自分自身に一つの価値形態を与えることは、いわば個々の商品の私事であり、個々の商品は他の商品の関与なしにそれをなしとげる。他の諸商品は、その商品にたいして、等価物という単に受動的な役割を演じる。これにたいして、一般的価値形態は、商品世界の共同事業としてのみ成立する。一商品が一般的価値表現を獲得するのは、同時に他のすべての商品がそれらの価値を同じ等価物で表現するからにほからず、そして、新しく登場するどの商品種類もこれにならわなければならないのである。これによって、諸商品の価値対象性は —それがこれらの物の単に「社会的な定在」であるがゆえ — 諸商品の全面的な社会的関連によってのみ表現されうること、それゆえ、諸商品の価値形態は社会的に通用する形態でなければならないこと、が現われてくる。」(S.80-81)
註(24)のプルードン批判、ここに、ある意味では、マルクスにとって直接的な動機があるように思えるのですが….
D.貨幣形態
ここでは、「進歩は、ただ、直接的一般的交換可能性の形態または一般的価値形態が、いまや社会慣習によって、商品金の独自な自然形態に最終的に癒着しているということだけである。」(S.84)という、この「社会慣習による癒着」を具体的に説明したらよいか、議論してみたいと思います。