『資本論』第1巻を読む II 第9回

第8章 労働日 –その1

今回は「労働日」の前半、第1節から第4節までを読んでみます。第5節以下では「工場法」の成立過程が対象になりますが、この前半は工場法の圏外におかれた職種の労働に関するレポートです。細部に踏みこむとおもしろい(踏みこまないと無味乾燥)と思いますが、そこは各自で楽しんでもらうこととして、ここでは『資本論』第1巻全体のなかで、このような記述は、どのように位置づけ評価したらよいのか、そもそもこの本はどういう性格の本なのか、できたら、そのあたりをみなさんと探ってみたいと思います。

第1節「労働日の諸限界」

労働日 workgin day の定義は前章末尾で与えられています。必要労働時間は<労働力の再生産に必要な生活手段の生産に必要な労働時間>によって与えられるが、これをこえて労働日は延長される。ただその延長には二重の限界があるとして、「純粋に肉体的な制限」と「社会慣習的な moralisch 制限」を指摘します。このあと、労働日の延長をめぐって、資本家の言い分、労働者の言い分が紹介され、「どちらも等しく商品交換の法則によって確認された権利たい権利という一つの二律背反が生じる。同等な権利と権利とのあいだでは強力Gewaltがことを決する」というのです。

これは「貨幣の資本への転化」から「価値増殖過程」にかけて展開されたロジックと整合的かどうか、どうでしょうか。あそこでは、「商品交換の法則」が阻害されるのではなく逆に貫徹するからこそ、剰余価値が形成されるのだ、という点が強調されていたと思います。たしかに、労働者の異議申し立ては、あくまでも「過度な」延長に対する上限に関わるもので、延長そのものに文句を言っているのではない、と読めば筋は通りますが、しかし、「商品交換の法則」そのものがウムをいわせず剰余価値を生むのだ、というポイントがちょっとボケてしまうのではないでしょうか。剰余価値の形成には、「商品交換の法則」のみで充分なのか、ゲバルトが必要なのか、あとで議論してみましょう。

このため、第2節以下の具体例も「過度労働」の事例に偏ってしまいます。剰余価値は、こうした「過度労働」によっているのだ、と読まれたのでは『資本論』の剰余価値論の誤解になる思います。ただ、現実にはマルクスの時代にはかぎらず、こうしたブラック企業の話は山ほどあるわけで、資本主義批判という意味ではこうした事実に訴えたほうが受けいれられやすいのはたしかです。事例をみてみましょう…

第2節「剰余価値に対する渇望。工場主とボヤール」

渇望 Heißhunger というのは、greed でしょうか。この節では冒頭で「資本が剰余労働を発明したのではない」と述べ、他の社会における剰余労働との比較をおこなっています。夫役労働でも賃労働でも、剰余労働の存在自体はかわらない、ただ前者だと「一つの自立的な感性的に知覚できる形態」S.251をもつといっています。ここは「賃労働」が剰余労働の存在をみえにくくするという文脈でしばしば引かれるところです。終わりのほうにはグアノの話ができてきて、自然からの収奪的農業と人間労働の疲弊がパラレルに論じられているのですが、資本主義の搾取をこのようなかたちで強調するのが適当かどうか、少なくともこの種の収奪が資本の自己増殖に必須だ、というように印象づけてしまうと誤りになるでしょう。

註の(48)をよむと、マルクスがイギリスを資本主義の「典型的に代表している」と考えていることがわかります。マルクスは、このイギリスのレポートをどういつもりでドイツ語を母語とする読者におくったのでしょうか。

第3節「搾取の法的制限のないイギリスの産業部門」

前節の後半では「工場監督官たちの言うところを聞こう」というスタイルで工場法の適用下でも労働時間の延長に言及されているのですが、ここではこの適用外の産業での「過度労働」がレポートされています。
1. Nottinghamのレース製造業
2. Staffordshireの製陶業
3. Stoke-on-Trentの陶業地方
4. マッチ製造業
5. ロンドンの製パン業(不純生産物)
6. アイルランドの製パン業(夜間労働反対の大集会)
7. Lasswade 1866.1.5 農業労働者の大衆集会
8. 鉄道労働者の「故殺」
9. 婦人服仕立女工
10. 鍛冶工

註の(90)では、トーリー党による奴隷と賃労働者の比較の話が紹介されている。賃金労働者よりは奴隷のほうがまし…

第4節「昼間労働と夜間労働。交代制」

労働日自体の延長ではなく、夜間への延長の話。「固定資本」という概念は第二巻ででてくるのですが、事実上、この固定資本の遊休を避けるために24時間連続操業が必要になり、夜間労働に年少労働者が導入されることが詳細にレポートされています。労働日の延長という本題からいうとズレていないか、この節のねらいはちょっとつかみにくいところがあります。

コメント:グリードの告発と資本主義の克服

この章をここまでよんできて、改めてふり返ってみると、記述のスタイルがちょっと特徴的なのに気がつきます。間接話法というのか、著者マルクスが語りかけてくるのではなく、歴史書、工場監督官の報告、雑誌などから縦横に引用し、それらに語らせながら、マルクスがこれにちょっとコメントを加えてゆくようなかたちになっています。たしかにここまででも、たくさん註をくわえてそのなかで、これでもかこれでもか引用をしてみせるのですが、本文はだいたいマルク自身がこう考えると言いきっていると思います。あるいは本文に引いた場合には、コテンパンに批判しています。まえの章のシーニアのように。けっして、だれだれがいっているように… などと、引用で自分の主張を補強するような書き方はしてません。

ところが、この章は逆に自分の主張は抑えて、ひたすら他者に、それも資本家にも労働者(擁護者)にも両サイドで語らせています。こういうのをみていると、マルクスの本職(?)は一種のジャーナリストなのじゃないかと思ってしまいます。そして、『資本論』を読んでいると、こういうある意味ではわかりやすい箇所、しかも資本主義の目に見える欠陥を提示している箇所の書きぶりが鮮やかで印象に残り、「要するに『資本論』というのはこういう資本主義の不正を暴いているのだ、いろいろむずかしい議論をしているが、それはこの不正を知るための理論なのだ」「七面倒な「理論」についてさらに一知半解な御託を並べている「マルクス経済学者」などより、『資本論』を素直に読めばいいんだ」ということになる。実際、マルクスが引用している告発内容は、ちょっとイメージを膨らませれば、現代にも当てはまる事実がでてきます。『資本論』はこうした意味で、現代まで見通している、すごい、という評価のしかたはしょっちゅうお目にかかります。

しかし、マルクスのスタイルにもう一度注意してみると、簡単にこうした評価で済ますわけにはゆかない問題があることに気がつきます。なによりも、マルクスはこうした「告発者」と肩を並べて、いっしょに過度労働の是正を、欠陥の改善を提唱するかたちになっていません。『資本論』が単なる告発の書であれば、多くの類書とともに過去の闇にきえていったはずです。マルクスが『資本論』を書こうと書くまいと、これとは独立に資本主義が資本主義である限り、時代とともに姿を変える資本主義の欠陥に対する告発批判は次々にでてきます。しかし、こうした告発から資本主義そのものが変わることはない、という観点が『資本論』のベースです。

ちょっと時間がないのでまたいつか続きは書きますが、取り急ぎ、結論のみ述べますと、この告発型の資本主義批判にもとづく現実の政治運動、社会運動を横目で見ながら、これらが展開されるう舞台を資本主義として総体として捉えて、そのゆくえを、あるいは克服の道を考えてゆくというのが、『資本論』という書物がもっている特性です。これが、しかし、このあと、こうした告発型の運動を指導する<党>を必須とする20世紀のマルクス主義になってゆく<種>だったのではないかと思います。そして、この20世紀のマルクス主義が根本的に挫折してしまった、それがいま直面している状況です。ちょっと舌っ足らずですが、いずれまた。

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