銀座経済学研究所

少しずつですが開店の準備を進めています。研究所といっても、大学院でやってきたようなゼミができる場を都心につくろうっていうだけなんですが、そう思うようになったわけは…

数年前、ある本の後書きに、いまの自分のすがたを漠然と思い浮かべながら、

もうかれこれ三〇年あまりになろうか、私は同じ大学に間口五尺の小さな店を借り、経済原論という看板を掲げて、一人細々と教師家業を続けてきた。その前に、自分が客として通った十余年を加えれば、半世紀になんなんとする。長いといえばたしかに長い。だが月日は加速しながら、あっという間に過ぎ去っていった。主な客筋は大学院生で、二十過ぎから顔を見せるようになり、三十前後で一廉の食通を気取り何処かに去ってゆく。思い返せば、いろんな人がいたし、いろんな人がいなくなった…..

しかし、安い店賃で使わせてもらってきたこの店の契約もあとわずかで期限切れ、さて、どこかに移ろうかと思っても「博士号をもってないと、役所の検査のとき、引っかかるんで….」などと渋い顔をされそうなご時世、「嫌いなものは、権威、権力、賞に式」などと嘯く人間には、大講堂の修復もなり、学位記伝達式などと大層な名前で卒業式が盛大に執り行われる近頃の大学はもう住みやすいところとはいえない。とはいえ「原理論の研究は一人ではできない。抽象的に考えることを厭わぬお客さんがいないとはじまらないし…」などと低回していると、それならいっそ、「何も大学ばかりが学問研究の場じゃないはず、塀の中の学問の自由よりも塀を壊す自由な学問こそ大事なんだ」などと友人と勇ましく語りあっていた「あの頃」にもどって、これからはそうした人が住んでいそうな裏町に、こちらから屋台を引いて出向くのも一興かと思えてくる。一服しながらあれこれ、取り止めもなく懐かしんでいると、アナーキーでラディカルな自分には、常設の見世より自由な流しのほうが、もともと性に合っていたような気さえしてくるのである。(『労働市場と景気循環』2014.東京大学出版会)

などとキザなボヤキを記したりしていたのですが、いよいよ昨日3月末日をもって辞職、いざそうなってみると、やはりただ自由に流すだけではチョットもの足らず、いつでも学問的議論に宇津々をぬかせる新しい店を開こうなどと、準備にとりかかった次第です。大学はなにやら知らぬ間に年間50万円も60万円もとる高級料理店になってしまい、通念や常識をハナから疑ってかかるような批判的な学問を楽しもうなんていう粋なお客さんの足はいつの間にやら遠のいてしまってたんだなあ、などとひとり懐旧に耽りつつ…

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