『資本論』第1巻を読む III 第2回

第11章 協業

短い章で、内容も比較的まとまっていて読みやすいので軽く読みなしてしまいそうですが、資本主義の本質を考えるうえで無視できないところがあります。たしかに、資本主義的生産の基本が、独立の小生産者には手が届かない大規模生産にあるのは確かです。だから、分業ではなく、協業こそが資本主義的な労働編成の基礎である。この命題は、このあと『資本論』第1巻の後半体系を支配し、資本の蓄積で大資本が小資本を淘汰するという集中集積論に通じてゆきます。しかし、単純に<規模>の問題だけではありません。無視できない協業の根本問題は「労働過程」との内在的なつながりに潜んでいます。今日の労働の変容を理論的に理解するためには、この埋もれた部分を掘り起こしてみる必要があります。そのために、資本が労働と生産を組織するとき、決定的な意味をもつ協業の概念は、分業と理論的にどう区別されるのか、両者は一体となって現象するわけですが、今回はこうした原理的な区別を探ってゆきたいと思います。

概要

協業と生産力

前半の構成は pg.13 で一通りまとめられています。

  1. 「労働の力学的力能を高めるからであろうと、
  2. 労働の空間的作用部面を拡大するからであろうと、
  3. 生産の規模に比べて空間的生産場面をせばめるからであろうと、
  4. 決定的瞬間に多くの労働をわずかの時間のあいだに流動させるからであろうと、
  5. 個々人の競争心を刺激して彼らの生気を張りつめるからであろうと、
  6. 多くの人々の同種の作業に連続性と多面性との刻印を押すからであろうと、
  7. 異なる作業を同時に行なうからであろうと、
  8. 共同使用によって生産諸手段を節約するからであろうと、
  9. 個別的労働に社会的平均労働の性格を与えるからであろうと」

労働の生産力を高める

というのです。1〜9 が述べられている順序は、この通りではありませんが、これが前半の結論です。順番にみてゆきます。

同時就業  pg.1-2

導入部です。多数労働者の同時就業が資本主義的生産の出発点である。逆にいえば、一人ひとりバラバラに労働する方式は資本主義的生産になじまないということになります。

社会的平均労働 pg.3 = 9

12人を就業させている大資本家と、2人を就業させている6人の小資本家の比較。大資本家に場合に特に有利にはたらく効果があるのか、今ひとつハッキリしません。

生産手段の節約 pg.4-5 = 8.

協業の定義 pg.6 

「同じ生産過程において、あるいは、異なっているが連関している生産諸過程において、一緒になって計画的に労働する多くの人々の労働の形態が、協業と呼ばれる。」

集団力 pg.7 = 1(?) 

生気と競争心 pg.8 = 5 

結合された労働者または全体労働者 pg.9 = 2-3 

分業に基づく協業 pg.10 = 4 

短期集中 pg.11 = 7 

空間的拡縮の自由 pg.12 = 2-3 

結合労働日pg.13

協業そのものから独自の生産力が生じる。まずはここで一括り。

資本の集中

pg.14-16 「協業の範囲または生産の規模は、この集中の範囲に依存する。」

資本家の指揮の二面性

指揮一般 pg.17-18

「オーケストラの指揮者」の喩え。「社会的労働過程の本性から発生し、この過程につきものの一つの特殊な機能」の側面。

資本の指揮 pg.19 「搾取の機能」

産業上の指揮官 pg.20

だれのものか? pg.21

「この労働の社会的生産力は、資本が生まれながらにしてもっている生産力として、資本の内在的な生産力として、現われる。」

歴史的考察

単純協業 pg.22

歴史的存在としての単純協業。「古代のアジア人、エジプト人、エトルリ ア人などの巨大な工事」。このパラグラフの末尾で株式会社へ言及。

資本主義的協業との対比 pg.23

古い時代に支配的な協業は、「生産諸条件の共同所有」と「共同体の臍帯」によって、資本主義的協業と区別される。

資本主義的協業との対比 pg.24

協業は「資本主義的生産の出発点」

基盤としての協業 pg.25

協業は分業や機械と結びついて現れる。単純協業だけを独立に取りだして、分業や機械制と対比すべきではない。

資本主義的生産様式の基本形態 pg.26

その意味で「協業は…資本主義的生産様式の基本形態である。」

論点

以上が概要ですが、問題点をいくつかあげてみたいと思います。

協業の概念

『資本論』の場合、「相対的剰余価値の生産」の一つの手段として「協業」が位置づけられています。しかし、協業の可能性は、第5章「労働過程」において与えられた人間労働の一般的特性から直接導かれる面があります。すなわち、人間労働の合目的的性格、目的意識的性格が、人間労働を結合させるベースになっている点が明確になっていないように思えるのです。目的の共有が協業のベースであり、このためのコミュニケーション能力、情報通信技術が強く作用するといった協業の現代的側面が明らかになってきません。そのことは、現象論的な協業の規定に次のような現れています。
「同じ生産過程において、あるいは、異なっているが連関している生産諸過程において、一緒になって計画的に労働する多くの人々の労働の形態が、協業と呼ばれる。」
「一緒になって」というのはどういうことをいうのか、明確にされなくてはならないのです。人間労働が目的意識的なものであり、自己の直接的欲求から切り離して目的を設定し、それを合理的に追求することができるという点が、他者と目的を共有し一体となって結合労働となることができる。その意味で、協業は基本的に知的な労働を含意するはずなのですが、実際にはこの章の後半で顕著なように、プリミティブな単純協業がイメージされる結果になっているのではないかと思います。

結合の基本動力

この章を丹念に見ると、労働者の主体性のうちに結合の基本原理はいくつか含まれているのがわかります。「集団力」や「競争心」など、これは必ずしも外部から強制されて発生するのではなく、個々の労働者が相互を意識すると自ずと発生する同期作用です。

前半の9つの「であろうと」は、もっと分析的に捉え返す必要があります。集団労働を外部から観察して、場所や道具の節約(共用)、収穫のような短期集中などと、「生気」(やる気)が生じるといった主体的要因、他者と自然に同期できる人間労働の潜在能力とは区別して考える必要があります。

指揮への偏向

この章の後半になると、協業の主体的要因が切り捨てられ、これに対して資本家の「指揮」が強調される方向に議論が進んでゆきます。「オーケストラの指揮者」は有名な喩えでマルクス経済学者の多くがここにウエートをおきますが、私は指揮はあくまで内発的な同期形成の能力を発揮させる契機に過ぎないと考えます。
指揮監督が協業の核心であると捉え、この指揮をだれがおこなうかによって、協業の効果がだれに帰属するかがきまる、というように考えると、資本主義では資本家がこれをにぎっているが、これを労働者が、といっても、労働者を指揮する労働者がいることになりますが、こちらにイニシャティブを移すという発想になってゆきます。階級闘争的にみえますが、人間労働の特質をやはり捉え損なった議論になっているのではないかと思うのです。
これに対して、結合の基本原理を、主体的内発性におくと、およそ次のような議論になります。人間労働は本来ばらばらな個別的労働が基本をなすのではなく、コミュニケーションをおこない、互いに目的を共有しながら協力して遂行する潜在能力を秘めている。ただこうした労働者の接触は空間的時間的な条件を必要とする。通信技術とか、そうしたものまで考える必要があるのですが、資本は労働力を買い集め、こうした条件を整備することで、この潜在能力を発揮させることで、その成果を吸収すると考えるわけです。資本家の強権的な命令で一斉に同一作用をするというのとは違う、現代の企業における労働のすがたを念頭において、『資本論』で列挙された協業の諸相を抽象的規定に組み替えてゆく必要があるというのが私の読み方です。

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