『資本論』第1巻を読む III 第4回

第12章 分業 その2

後半の二つの節を読んでゆきます。マニュファクチュアを同職組合を組織した自立した手工業者と比較しながら、マニュファクチュアのもつ資本主義的性格が解き明かしてゆきます。この点は、資本主義的生産=機械制大工業という通念を反省する契機になります。

概要

第4節「マニュファクチュア内の分業と社会的分業」

社会的分業の起源について

マニュファクチュア的分業は、既存の社会的分業を分解しながら深化させる(S.374)

社会の内部における分業と作業場内部の分業の相違作業場の内部における分業にあっては”先天的”に計画的に守られる規則が、社会の内部における分業にあっては、市場価格のバロメーター的変動において知覚されうる、商品生産者たちの無規則な恣意を圧倒する、内的な、無言の、自然必然性として、ただ”後天的”にのみ作用する。S.377

この前後では、市場の調整作用が一般的に受容されている。かつては魅力的にみえた一節だが、この種の価値法則論には最近はすっかり懐疑的になっている。

つぎのS.377-8 はいちおうの総括。「資本主義的生産様式の社会においては、社会的分業の無政府性とマニュファクチュア的分業の専制とは相互に制約し合っている。」
これに対して「職業の特殊化が自然発生的に発展し、次いで法律的に確定された以前の社会諸形態は、これに反し、一方では、社会的労働の計画的かつ権威的な組織の姿を示すが、他方では、作業場内部の分業をまったく排除するか、または、それを小規模にしか、もしくは散在的かつ偶然的にしか、発展させない」と述べて、その例解をインドに求める。

最後に S.380 同職組合組織にもとづく親方 Zunftmeister とマニュファクチュアの関係が述べられている。

親方は、彼自身が親方をしている専門の手工業においてしか職人を使用することができなかった。同職組合は、それに対立していた唯一の自由な資本形態である商人資本のあらゆる侵害を油断なく防いだ。商人は、どんな商品をも買うことができたが、商品としての労働〔力〕だけは買うことができなかった。商人は、手工業諸生産物の売りさばき人として容認されただけであった。

資本主義の「起源」という観点からみるとおもしろい問題になります。商人資本の進出に対して、同職組合は抵抗できたかが、マニュファクチュアにはかなわなかった、これがごくおおざっぱに言ってしまえば、ここでの結論となりそうです。

一社会全体のなかでの分業は、商品交換によって媒介さていなくても、きわめてさまざまな経済的社会構成体に存在するのであるが、マニュファクチュア的分業は、資本主義的生産様式のまったく独自な創造物である。

この最後の文章をみるかぎり、マニュファクチュア(的分業)は、資本主義的生産様式への「なりかけ」の存在ではなく、その一つの典型であると考えてよいことになります。機械制大工業が本来のすがたで、マニュファクチュア型は過渡的ないし付随的なすがただというわけではないといっていると理解してよいのでしょう。

第5節「マニュファクチュアの資本主義的性格」

この節では、全体として、マニュファクチュア的分業の限界、過渡的性格が指摘されている。

部分労働者と全体的労働者

細目化された熟練が、労働者の自立性を破壊し、全体的労働者として機能するために、資本に隷属せざるを得なくなるという。熟練=自立ではなく、熟練=隷属となるようなタイプの熟練が、等級化されたマニュファクチュア型熟練の本質だというのです。

アダム・スミスによる分業のマイナスの効果、人間能力の狭小化も S.383で紹介しています。

だいたい、註の74までがこの内容です。

相対的剰余価値の生産としてのマニュファクチュア的分業

S385-389. 註の83まで。
分業に生産力増進という歴史貫通的な効果と、資本主義にとって意味をもつ剰余価値増進という効果の対比が主題かと思います。

マニュファクチュア的分業は、一方では、社会の経済的形成過程における歴史的進歩および必然的発展契機として現れるとすれば、他方では、文明化され洗練された搾取の一手段として現れる。S.387

このような二面対比論は、『資本論』によくみられるのですが、どう評価したらよいのでしょうか、考えてみたいと思います。

このあと、プラトンの分業にいつてもふれています。分業=使用価値的バラエティの豊富化なのか、廉価な同種大量の追求なのか、といった問題になるのかと思います。

機械的大工業への移行

「マニュファクチュア的労働者=等級化された熟練労働者+不熟練労働」という構成になっていると指摘し(S.389)、等級化された労働者の「不服従」を説いています。このかぎりでまだ徒弟法が残っているというのです。そして「アークライトが秩序をつくりだした」というユアの言を引いています。

マニュファクチュアの部分性も指摘されています。宇野弘蔵が注目した側面です。

こうしたマニュファクチュアを機械的大工業=資本主義的生産様式への過渡と位置づける立場は次のようにも指摘されています。

この(物質的生産過程の精神的諸力能の)分離過程は、資本家が個々の労働者に対立して社会的労働体の統一と意思を代表する単純協業によってはじまる。この分離過程は、労働者を不具化して部分労働者にするマニュファクチュアにおいて発展する。この分離過程は、科学を自律的な生産力能として労働から分離し資本に奉仕させる大工業において完成する。S.382末。

しかし、私はこのような協業 –> 分業 — > 機械的大工業 という単線的な捉え方はいまの時点からふり返るとやはり不充分だと思います。マルクスの時代から一五〇年ほど経過した、諸科学の発展を考え、自然と人間の基本的な関わりを念頭においた、労働と生産をめぐるもっと包括的で原理的な分析が必要だと思います。

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