- 日 時:2019年 7月17日(第3水曜日)19時-21時
- 場 所:駒澤大学 3-802(三号館の奥のエレベータで8階に)
- テーマ:『資本論』第2巻 第1篇第3章
今回も論点を絞って要約してみます。
それにしても、搾取論を軸とする第1巻の資本概念に対して、第2巻における資本概念の拡張がもつ意義は大きいと思います。ここには古典派経済学はもとより、その後のさまざまな経済理論でも理論化されることのなかった問題が豊富に盛りこまれています。ただその分その処理にはまだ未開拓な部分があり、読み手の力量が試されるところでもあります。
今回は本章を対象に
- 社会的資本=再生産表式の萌芽
- 前貸し概念
について考えてみます。
全体を三つのブロックに分けて考えてみましょう。
- 三循環形式の比較論 S.91-93
- 総生産物の分離論 S.93-95
- 三循環形式の比較論(続き)S.96-100
- 商品資本の循環固有の特性 S.100-103
三循環形式の比較論
いちおう分けてみましたが、大枠は \(G\cdots\cdots G’\) 循環、\(P\cdots\cdots P\) 循環と、 \(W’\cdots\cdots W’\) 循環を比較する内容です。2の「総生産物の分離論」を挟んで、1と3で形式上の違いが綿々と論じられていますが、比較を通じて明らかになる \(W’\cdots\cdots W’\) 循環の特徴は次の点です。すなわちこの循環では、
- 出発点のW’に剰余生産物が含まれていること
- 出発点のW’に他の資本の生産手段が含まれていること
- 生産手段を媒介とする資本間の連鎖が前提となること
がポイントとなります。
総生産物の分離論
うえの1. から自然に、 \(W’\)は \(c+v+m\) で構成されることになります。この \(c,v,m \) が一度に販売されるのではなく、
- まず生産に必要な \(c\)と\(v\)が販売され、次に \(m\) が販売されてもよい、というと述べ、
- つぎに \(c,v,m\) 部分も、それぞれ \(c+v+m\) に分けられる
という説明が続きます。この二番目の分割が、表式論につながることになります。
『資本論』の数値例は見通しが悪いので、簡素化してみると次のようになります。
\(W’ = 6c+3v+m\) とします。この \(c,v,m\) が、さらに、それぞれ\(\frac{6}{10},\frac{3}{10},\frac{1}{10}\)に分けられるのです。
二部門構成の再生産表式でいえば、赤い数字が 第一部門の \(v_1 + m_1\) で、青い数字が第二部門の\(c_2\) に当たります。再生産表式を知っている後の読者からみれば、その萌芽だなと見当がつくのですが、逆に表式をゼロから発見するのはたいへんなことだったと思います。『資本論』はここで、 \(c+v\) と \(m\) の分割からはじめているのですが、表式の二部門分割に進むには 一行目の \(c\) を第一部門、二行目三行目の \(v,m\) を一括して第二部門として、その間の取引 \(v_1+m_1 = c_2\) という単純再生産の条件を導きだし、さらに拡大再生産になるためには \(v_1+m_1 > c_2\) である必要がある、と推論してゆく必要があるわけです。ただこの最後の条件は、この章の最後のところですでに次のように示唆さており、やはりすごい洞察力ですね。
生産性が不変であるにもかかわらず、拡大された規模での再生産が行なわれうるのは、(外国貿易を度外視すれば)剰余生産物中の資本化きれるべき部分のうちに、追加生産資本の素材的諸要素がすでに含まれている場合だけであること、したがって、ある年の生産が翌年の生産に前提となる限りでは、またはこうした操作が単純再生産過程と同時に一年内に行なわれうる限りでは、剰余生産物が、追加資本として機能することができるような形態でただちに生産されることが、それである。生産性の増大は、資本素材の価値を高めることなく、資本素材を増加しうるだけである。しかし、それは、そのことによって価値増殖のための追加材料をつくりあげる。S.103
いずれにせよ、最晩年の第八項で確立される再生産表式ですが、その萌芽が、\(W’\cdots\cdots W’\)循環の発見とともにかなり早くからみられることは注意しておいてよいと思います。
固有の特性
社会的資本と個別諸資本
個別資本をバラバラに並べても、その全体(総和)が社会的生産にならないことが明示されています。次の文は、このことを示しています。
社会的資本は個別諸資本(株式諸資本を、または、政府が生産的賃労働を鉱山、鉄道などに使用して産業資本家として機能する限りでは国家資本を、含む)の総和に等しいということ、また、社会的資本の総運動は個別諸資本の諸運動の代数的総和に等しいということは、決して次のことを排除しない。すなわち、〔資本の〕この運動は、個々の個別資本の運動としては、同じ運動が社会的資本の総運動の一部分という観点のもとで、すなわち社会的資本の他の諸部分の諸運動との連関において、考察される場合とは異なる諸現象を呈するということ、また、〔後者の観点のもとでは〕この運動は同時に、個々の個別資本の循環の考察からはその解決は得られず、個々の個別資本の循環の考察にきいしてその解決が前提きれなければならないところの諸問題を解決するということ、これである。S.101
要するに、生産手段の生産を通じた連鎖が内部に確保されていなければ、社会的資本にならないという話です。今日ふうにいえば「産業連関」です。
前貸し概念
資本の概念について、ここでもう一度検討してみたいと思います。資本の前貸し avances
循環\(W’\cdots\cdots W’\)が個々の個別資本の形態として現われるのは、たとえば、収穫ごとに計算が農業においてである。図式Ⅱでは播種が、図式Ⅲでは収穫が出発点となるーーまたは、重農主義者たちの言ように、前者では”前貸し” avances
が、後者では”回収”reprises が出発点となる。資本価値の運動は、Ⅲでは最初から生産物の一般的総量の運動の部分としてのみ現われるが、一方、Ⅰ とⅡではWの運動は、個々の資本の運動のなかの一契機をなすにすぎない。S.102
資本の投下は、貨幣の支出・回収明確に区別すべきです。資本は、価値が内在するもの(貨幣+商品)を投下することからはじまります。資本として投下されると即座に貨幣が支出されるわけではありません。また資本は、かならず貨幣のかたちで投下されるというわけではありません。商品でも価値があるものとして投下されます。この場合には、貨幣の支出に先だってまず販売がなされる必要があります。支出ではなく回収のほうからはじまるわけです。資本というストックの投下と、貨幣の支出回収というフローの違いを明確にするのに、貨幣の支出と区別するタームとして、「資本は前貸しされる」という表現が使えるのではないかと思います。
ただ訳語の問題について、少しふれておきます。フランス語の avances は先行するものという原意から、前払い金の意味に発展したようです。ドイツ語の Vorschüssen はおそらくフランス語(ラテン系言語)からの翻訳でしょう。重農学派であれば、小麦でも avances は可能なわけで、必ずしも貨幣による前払いとは限りません。
日本語訳では avances =「前貸し」が定着しています。「前貸し」は日本語にもともとあった言葉で、おそらく江戸期明治期には商人の間で流布していたものではないかと思います。大正末から昭和初期にかけて『資本論』が翻訳され読まれてゆく過程で、この用語を avances にあてたのではないでしょうか。直訳であれば、こんなこなれた「前貸し」ではなく、漢語ふうのもっと硬い訳語になったはずです。
問題は、この日本語訳の「貸し」の部分です。avances には貸借の意味はありません。日本語訳にひっぱられると、資本は、前貸しされるもの → 貸されるもの、という含意が付随するようになります。そして貸借から、自然に利子が連想されることになります。こうして、「貸付資本」Leihkapital(「借入資本」 geliehene Kapital)、「利子つき資本」「利子生み資本」「それ自身に利子を生むものとしての資本」(これら三つはみな同じZinstragende Kapital に対する訳語です。Zinstragende Kapitalはもとを質せば moneied capital のドイツ語訳)が、前貸し概念に結びついたのではないかと思います(『資本論』自体にも、avancesを貨幣資本家に結びつけるテキストがあるかもしれませんが)。しかし私は、貨幣貸付 Leihen と資本投下 Kapitalanlegeは、概念的に明確に区別すべきだという立場です。
だいぶ先になりますが、そして、資本の投下ではなく、資本の前貸しと貨幣の支出の区別をいっているだけですが、次の一節が正しいと思うの引用しておきます。これでもまだちょっと、資本の前貸しと貨幣の支出との弁別が足りないかもしれませんが。
すでに、第一部、第四章(貨幣の資本への転化)で、次に第一部、第一二章(単純再生産)で見たように、資本価値は一般に前貸しされるのであって、支出されるのではない。というのは、この価値は、この循環のさまざまな局面を通ったあとに、ふたたびその出発点に、しかも剰余価値によって豊かにされて、復帰するからである。このことによって、資本価値は前貸しされたものとして特徴づけられる。S.309
『資本論』の場合、資本の投下という用語は、固定資本や土地など回収に長期間を有する事象や、あるいは特定の産業部門を対象に用いられています。金額を定めてこれだけを増殖活動にあてるという意味での投資=投下という意味ではありません。
ケネーの経済表
最後によく引用される次のパラグラフがでてきます。
\(W’\cdots\cdots W’\)はケネーの”経済表”の基礎になっており、彼が \(G\cdots\cdots G’\)(重商主義が孤立させて固持した形態)と対立させてこの形態を選び、\(P\cdots\cdots P\)を選ばなかったことは、偉大な真の見識を示すものである。
『資本論』は三つの循環形式を比較し、そのどれをとるかで、それぞれ固有の問題が解明できるのだ、というように読めます。ここから読者のなかには、この三形式の区別をやかましくいう人がでてくるのですが、私は三つの形式はあくまでも問題を見いだすための一つの発見方法、アプローチであり、これしかないという絶対的なものではないと思います。ポイントはうえに箇条書きにした三点あるいはプラスアルファです。剰余生産物を含めること+他部門との連鎖を想定することが、経済表の基礎です。一度このことがわかれば、発見のためのハシゴ=三循環形式は外してもかまわない、極言すればこう考えています。『資本論』がやったとおりにしないとこのことは絶対わからないのだ、というのはやはりドグマです。これは『資本論』を軽視することではありません。『資本論』が発見方法まで示してくれているのですから、それはそういうものとして学び、それで何がわかったのか、これは自分の言葉でまとめてみる、そういう読み方を私はしてきました。