インターネットのWeb会議の形式で講演をやったところ、早速質問をいただきました。まえの記事のコメントのところに書き込んでいただいたものです。今回は、コメントにコメントを付けるかたちではなく、あたらしくこの記事をおこして、お答えします。いっしょに当日私が感じたことなども添えておきます。
はじめに、いただいた質問を再掲しておきます。
昨日の講義はありがとうございました。特に、金貨幣→不換紙幣への変化という内容になるのではなく、商品貨幣の分岐点を導出し、金貨幣(物品貨幣)・信用貨幣に分岐するという内容は面白い説明でした。個人的には、「16.転化・変容・多態化・発展」の内容に関してもっと詳しく説明させて頂きたいところでした。その為に、この内容に関して少々疑問が御座います。
「諸制度が累積し複雑な残存効果が無視できない第三のレイア」、そして「フィアットマネーも部分的に登場・・・補助貨幣」という内容がありました。これに基づくと、原論レベルにおいても商品の価値表現に基づいていない貨幣が登場する領域が存在しうると思われます。しかし、だからと言って「同じように「日本国」と印刷した一万円札を発行し、「日本銀行券」と印刷された一万円札を廃止できるか、といえばそうはいかない。すでに述べたように、値づけに使える貨幣ではないからで、商品が存在するかぎり、フィアット・マネーはなくても、第一と第二のレイアに、商品貨幣は必ず存在する」という帰結でしたし、ここで質問が御座います。
質問1.「第一と第二のレイアに、商品貨幣は必ず存在」するので、中央銀行券の廃止・国家紙幣の発行があったとしても、1)市場の中ではまた新たな商品貨幣が登場する。または中央銀行券の廃止・国家紙幣の発行とは関係せずに、2)「商品が存在するかぎり」市場には商品貨幣がいつも存在している、という理解で良いでしょうか?
質問2.本文では商品貨幣がなければ、貨幣の第一機能を成す商品の価値を表現することが出来ないという内容でした。では、中央銀行券を廃止し、国家紙幣だけを発行するのではなく、中央銀行券と国家紙幣の両方を同時に発行・流通するのは可能でしょうか?
質問のなかにできてくる「レイア」は、次の図のヨコの行です。
質問の冒頭で私の報告のポイントを「金貨幣→不換紙幣への変化という内容になるのではなく、商品貨幣の分岐点を導出し、金貨幣(物品貨幣)・信用貨幣に分岐する」と指摘いただきました。ドンピシャです。うれしいですね。
[su_spoiler title=”今回はどういうわけか…”]
今回はどういうわけか、むかし私が修行していたお店のご主人がみえていて、開口一番、例によって「変化というならまず『金貨幣→不換紙幣』の移行過程をきちんといわなきゃダメだ、事実に基づかない理論なんか●●経済学として失格だ…」(昔からあれやっちゃダメ、これやっちゃダメと口喧しいお店だったのを思いだしました)の繰り返しで討論が先に進まず、ちょっとイヤケがさしていたのですが、当日発言されなかったSOさんのような海外からきた若い人に、「金貨幣→不換紙幣への変化」と、「商品貨幣の金貨幣(物品貨幣)・信用貨幣への分岐」という二つの変化の違いがチャンとわかってもらえたようなので、力づけられました。一番目の変化を、ふつう歴史的な「発展」というのに対して、二番目の分岐のほうを「変容」とよんで区別するわけです。
「商品貨幣」→「金貨幣」や「商品貨幣」→「信用貨幣」という「変容」なら、—— 理論の「展開」型の推論とはちょっと違いますが(外的条件が入る「開口部」をつくる必要があるので)—— 論理的に説明できます。その意味で「展開」だけでなく「変容」の解明も原論の仕事になるわけです。ところが、SOさんのいう「金貨幣→不換紙幣への変化」、つまり歴史的「発展」となると、これは論理で説明すべき事象ではなくなります。なぜかというと、歴史的ないろいろな条件(原論からみれば「開口部」に作用する「外的条件」ということになります)によって方向づけられるからです。そして、まったく同一の外的条件というものがない以上、歴史的「発展」は不可逆的なものになります。これに対して「変容」のほうには、先に「金貨幣」、後から「不換紙幣」というような論理的順序はありません。その意味では可逆的なものです。この点は、同じく理論といっても、たとえば 商品→貨幣 → 資本 というようにやはり不可逆的に進む「展開」の場合とも異なってくるわけです。
ここまでは、以前から何度も言ってきたこと(何度聴いても「わかんない」「わかんない」と繰り返す、おしゃべりなお年寄りたち相手に)。SOさんが、「それはわかった。問題は、その先の『諸制度が累積し複雑な残存効果が無視できない第三のレイア』のほうだ」といってくれたので、ホッとしました。私は大学をやめるとき、自分の拙いものも含めて「これまでの経済原論」を解体し、もういちど若いときにもどって、新しい経済原論をゼロから組み立てなおそうと心に決めたのです。とはいえ、若い人にとっては七十の爺さんはやはり、けむたい存在、自分たちだけでやりたいという気持ちもよくわかるので、あえていっしょに組み立てなおそうとはいわなかったのですが、そうしたらいつのまにやら『これからの経済原論』なんて銘打った本が登場して若干面食らったわけです。似てるといえば似てるのですが、原論の世界では、似てると同じは大違い、私の「これからの経済原論」は、もう少し新しいレイア(理論層)が売りになります。
ということで今回もチョッと冒険して、いままであまりやったことのない「変容」プラスアルファの第三のレイア、つまり「多態化」の話をしようかな、と思って準備したのですが、当日は時間もなく省略しました。SOさんの「疑問」は、ブログ記事のこの箇所を読んで、省略した部分に対して質問してくれたわけで、よろこんで質問にお答えします。
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質問1. ですが、まず基本命題は「2)『商品が存在するかぎり』市場には商品貨幣がいつも存在している」です。したがって「第一と第二のレイアに、商品貨幣は必ず存在する」(基本命題)ので、中央銀行券の廃止・国家紙幣の発行があったとしても、「1)市場の中ではまた新たな商品貨幣が登場する。」もいちおう真です。
ただし「廃止」→「登場」という「過程」を、論理的推論のなかにもちこむのはNGです。価値形態論の「簡単な価値形態」→「拡大された価値形態」→「一般的価値形態」→「貨幣形態」を、物々交換から貨幣が発生する過程を抽象化した理論だと考えるのは、もっともプリミティブな誤りです。一般に、論理的推論に、何らかの歴史的発展を投影して(重ねて見ることを日本語では「投影する」なんていいますが)、その正否を判断することには注意が必要です。SOさんのいう「2)」の基本命題は、
- 完全に「他人のための使用価値」しかもたない商品を想定すれば、その反面としてその商品には価値が必ず存在する。
- 価値は必ず等価物を用いた表現ないし現象をもつ。
- 価値の表現様式ないし現象形態は必ず持続性をもつ一般的等価物すなわち貨幣を生む。
といったような推論で証明できます。それ以上であっても以下であってもいけません。
「中央銀行券の廃止・国家紙幣の発行があった」状態から、思考実験的に「ない状態」を考えてみることは自由ですが、そこでまず価値表現をしない商品が存在し、そこからだんだんに表現形態が展開してゆき、最終的に商品貨幣が「登場」する、という時間をともなう「過程」があるわけではありません。人が日向に立てば《必ず》《同時に》影ができるように、商品が存在すれば《必ず》《同時に》商品貨幣が存在します。「影がない人をまず考えて、次に影の生成過程を考える」というのは、影の「立ち現れ」を理解する妨げになるだけです。「価値には実体と形態がある」という用語法は、「価値表現をしない商品」(影がない人)の存在を想定したもので、「価値は必ず表現形態をもつ」という命題を理解する妨げになるのみ、百害あって一利なし、故に私は10年まえ、今となってはもう「これまでの経済原論」となってしまった原論を書いたとき、これをキッパリとリジェクトしました(『経済原論 基礎と演習』30ページ問題11)。
いずれにせよ、無時間の論理に「時間差を伴う過程」を持ちこむと、途中の過程に身近な事実を思い浮かべ、日常意識に引きつけて「なるほど、そうなんだ、それならわかりやすい」というダメな実証主義モドキに道を開くのです。身近な日常の事例を想起するのは、だれでもそうでOKなのですが、理論として語るとき、それを抽象化しないところがダメなのです。二点を通る直線は一つしかないという命題を、チョークで黒板に図を描いて説明したとします。しかし、この命題を厳密に理解するには、位置だけあって広がりがない、黒板には描けない点を想定しなければならないのですが、「もっとダメな……論」では、黒板に描かれた図を指して、これで理論が事実で「実証」されたといい、「ほんとは描けない世界を想定しないと厳密な論証はできないんで、抽象のほう、よろしくお願いします」というと「そんなの、空理空論だ、わかんない」というわけです。ちょっとあらぬ方向に話がそれちゃいましたが、アレコレ事例を挙げて「アレもあるじゃないか、コレもあるじゃないか」「アッシニア貨幣はどうなんだ、太政官札(こっちはいいませんでしたが)もあったじゃないか」としつこくからむ人が約一名いたので。それに比べれば、SOさんの「廃止」→「登場」の話はまったく軽傷で、なんの問題もありません。
というわけで、「質問1. 」に対する回答は、けっきょく、レイア1-レイア2の変容論の話になってしまうのですが、「中央銀行券を廃止し、国家紙幣だけを発行するのではなく、中央銀行券と国家紙幣の両方を同時に発行・流通するのは可能でしょうか?」という「質問2.」には、レイア3の多態化論で答える必要がありそうです。質問の主旨をひと言でいえば「商品貨幣が不換銀行券として実装されているとき、国家紙幣は存在できるのか」ということになると思います。これもひと言で答えれば「国家紙幣は、レイア2には存在できないが、レイア3なら存在できる」ということになります。「国家紙幣」というと眼前に実在しませんのでピンとこないかもしれませんが、10円玉や500円玉などをイメージしてください。「日本国」と刻印されたこれらの硬貨類も、私のいうフィアットマネーです。
もう少し解説を追加してみます。
- 価値表現(「値づけ」といってもOK)における等価物になるのは、物品貨幣か信用貨幣しかない。
- ただし、これは、「国家紙幣」(もう少し広く「フィアットマネー」)が演繹的な推論の領域には存在しない、というのと同義ではない。
- つまり、「国家紙幣」は、ある意味では存在しないが、別の意味では存在する、ことになる。このことを整理するために、レイア2-レイア3を設定。
- 商品貨幣の必然性→その実装という「変容」のレイア2では、「国家紙幣」(フィアットマネー)はありえない。
- しかし、実装態としての「金貨幣」(当日「物品貨幣」というべきでは、と質問した人がいました、「金貨幣」は黒板上の「点」のようなものとご了解ください)や「中央銀行券」が、さまざまなフィアットマネーに多態化するレイア3が存在する。
- レイア2では、「金貨幣」か「信用貨幣」か、いずれか一方しか実在しない。
- レイア3では、単一の商品貨幣の実装態が、それぞれ特徴をもった貨幣種に多態化する。
- つまり、商品貨幣の単一性は、貨幣種の複数性と両立する、という結論になります。
というわけで、「変容」と「多態化」をハッキリ区別して、貨幣を分析できるフレームを組み立ててゆこうというわけです。
レイア3のロジックは、これから本格的に開発してゆかなくてはなりません。まだまだ、開発途上です。ただ、レイア3から振りかえってみると、レイア1→レイア2における「変容」が、より強力な原論の演繹的なロジックにしたがっていることがわかります。つまり、レイア2における商品貨幣の実装態は、「金貨幣か信用貨幣か、いずれか一方しか実在しない」という単一性の命題になっているのです。このあたり、抽象的でわからなくなると思いますので、私がなにをイメージして話しているのか、SOさんにはナイショで伝えておきます。それは本位貨幣の問題です。こういうと「それなら金銀複本位制もあるじゃないか、と途端にベタな事実をもちだして、商品貨幣が単一実装になるかどうかなんてわなんない」と繰り返す人がでてきます。黒板上の点と理論上の点を区別しない(できない)人に、このナイショ話は危険なのですが、抽象的なロジックを知りたい人には、私の例解(イラストのイメージです)も多少のヒントになるでしょう。
今日はどうも雑念が吹っ切れず話が横道にそれます。本題に戻すと「商品貨幣には複数のタイプがあるが、実装されるのは一つに限られる」(レイア2における「実装の単一性」命題)は、「商品があれば必ず同時に商品価値を表現できる商品貨幣がある」(レイア1)から導かれるものです。つまり「一般的等価物の単一性」によるものです。これもナイショの話ですが、たとえば、「値づけをするときに、円とか、ドルとか、ビットとか、一度にいろんなの貨幣価格ではしないのはなぜか」、この理由を抽象的に考えているわけです。「一般的等価物の単一性」が「実装の単一性」命題の基底をなすのであり、したがって、前者の論証が崩れれば後者も崩れることになります。そして「一般的等価物の単一性」は、まだまだ解明されていない原論上の難問、もし「一般的等価物の単一性」が否定されるようなら、変容論もやり直しになります。
とはいえ、単一性を説く「変容」論を原論に組み入れることは比較的まだ容易なのですが、「多態化」のほうは「複数の貨幣種が実在する」という命題を証明する必要があるのでずっと難しくなります。ここでは、わかっているかぎりのことを説明してみます。
- 価格を表示するには、価値とリンクした商品貨幣によるとしても、それで売買契約が結ばれた後、どのように支払うのかには、同時履行型の手交貨幣以外にもいくつかの方法がある。
- この複数性は、従来の原論(レイア1)で論じられてきた「貨幣論」の貨幣機能論の複数性(「価値尺度「流通手段」「貨幣蓄蔵」などと併記されてきた機能)が、レイア越えしてレイア3に発現したと考えることができる。
- とくに「貨幣蓄蔵」といわれてきた、購買力の保持のはたらきは、単一の「商品貨幣」では担いきれない面があり、これが多態化の重要な契機となる。
- このレイアでは、制度的な枠組みが重要な役割を演じる。金本位制度、管理通貨制、あるいは金銀複本位制などの基礎も、このレイアで一般的に考えられる。
- さらに、制度だけではなく、このレイアでは技術論、テクノロジー論も重要な役割を果たす。冶金技術、印刷技術、さらに情報通信技術が多態化の契機として無視できない。
SOさんからの質問を大幅に逸脱する話になりましたが、経済原論はまだまだ理論として開発してゆかなくてはならない問題がたくさんあります。質問の内容が、新しい領域に多少とも向けられたものだったので、ちょっと勇み足のところが多かったかもしれませんが、可能なかぎり、答えてみました。
詳細なご返答ありがとうございました。疑問になっていた部分は全て解消されました。
・質問1のコメントに対する感想:
1)質問の中に「必ず存在する」と書かれていたにも関わらず、途中で「あったとして」(=If)を加えることによって、一つの命題に二重規定(①「価値は必ず等価物を用いた表現ないし現象をもつ」、②「価値表現をしない商品」)がされていたことを指摘でわかりました。
2)新たな商品貨幣が「登場」するまでの時間に関する問題は「(1)商品は「価値」という性質をもち、(2)それは「価値量」という量規定を与えられ、(3)この価値量の表現形態が「価値形態」である(『経済原論 基礎と演習』30ページ問題11)」という論理展開に据えたところ、商品があれば商品貨幣は《必ず》《同時に》存在することがわかりました。
3)上の問題は「中央銀行券の廃止・国家紙幣の発行」の際に、商品貨幣が《必ずしも》存在しない状況にて、具体的な売買関係の中で《順次に》商品貨幣が選ばれ、新たな商品貨幣が「登場」するという時間の「過程」を実際に描いた末の質問でした。それは、「価値形態論…を、物々交換から貨幣が発生する過程を抽象化した理論だと考えるのは、もっともプリミティブな誤り」であるという指摘通りに、以下の違いに気づくことが出来ました。
《必ず》 ≠《必ずしも》
《同時に》 ≠《順次に》
「存在する」≠「登場する」
・質問2のコメントに対する感想:
1)「商品貨幣が不換銀行券として実装されているとき、国家紙幣は存在できるのか」という質問2に関する疑問は勿論であり、「ナイショ1」に関わる「例解(イラストのイメージ)」の疑問(以下の①~③)まで同時に解消されました。
①レイア3における矢印の出発点(左側は多態化から出発、右側は〇点から出発)は何故異なるのか?
②右側のレイア3の「機能吸収」は一体何を指すのか?
③吸収された機能が(資産市場)につながるのは何故なのか?
2)以下の①~⑥が疑問に対する答えになりました。これによって、原論レベルにおいても「複数の貨幣種が実在する」という理解ができました。
①商品貨幣の価格による売買契約
②売買契約の締結――(分離)――支払い方法
③「貨幣論」の貨幣機能論の複数性の中でも「貨幣蓄蔵」という機能
④単一の「商品貨幣」による「購買力の保持」の限界
⑤レイア3における制度的・技術的などの枠組みの存在
⑥レイア1からレイア越えし、レイア3への発現による「複数の貨幣種」
=========[状況1]=========
レイア3:(多態化) 「複数の貨幣種」
↑
レイア2:(変 容) 「実装の単一性」
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レイア1:(展 開)「一般的等価物の単一性」
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=========[状況2]=========
レイア3:(多態化) 「複数の貨幣種」
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レイア2: 「レイア越え」
↑
レイア1:(展 開)「一般的等価物の単一性」
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・「ナイショ2」はその通りで、また新たな出発点が置かれたと思います。これは「ナイショ2=これからの経済原論の予告編」として受け付けます。楽しみです。
=======[ナイショ2]=========
レイア3:(多態化) 「複数の貨幣種」
↑
レイア2:(変 容) 「実装の単一性」 ・・・ 「前者の論証が崩れれば後者も崩れる」
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レイア1:(展 開)「一般的等価物の単一性」 ・・・ 「まだまだ解明されていない原論上の難問」
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