コメント:江原慶『マルクス価値論を編みなおす』

「SGCIME 2024夏合宿」報告:2024年8月28日 10:30-12:00 の報告です。

全体の感想

基本的な課題設定(7頁の2点)や方法(変容論的アプローチ)自体については、私には納得のゆくものであり、とくにコメントすることはありません。

ただ同じ問題設定をしても、その解き方はいくつかありうるので、説明方法が違うからといって、アレコレいうつもりはありません。今日の不換銀行券のような信用貨幣を理論的には説明できない異物とするのではなく、なんとか原論の射程におさめようという、従来と大きく異なる問題に取り組むわけで、先行研究に手がかりをもとめることもむずかしく、さしあたりはいろいろな説明方法で多角的に迫るほかないと思います。アレコレ試行錯誤しているうちに、自ずと標準的な説明も固まってくるのではないでしょうか。

本書は、さまざまな研究が参照されそれらを批判しながら、基本問題を解き明かすというスタイルになっており、かなり複雑な構成になっていますが、ここではポイントと思われる三点に絞ってコメントします。

商品の同種性

将来の商品

本書は、欲望の特質から将来の商品を導くという独自の立場から出発しています。このロジックに飛躍がないか、まず基礎の基礎をチェックしてみます。

①こうした人間の欲望の特質を踏まえると、商品所有者の間では、将来生じうる必要を予見し、それに向けて前もって商品を確保しておきたいという動機が生まれるはずである。②この場合、提供される商品は現物である必要はなく、モノが未来のある時点で引き渡されることが確約されるだけでよい。③「空想」の欲求は、いまはまだ存在していないという意味では架空の、将来の商品によって満たされる。(30頁)

  • 「将来」「未来」という時間的な契機、「空想」「架空」(vs 現物)という契機、「確保」「確約」による充足という契機、これらの関係を分析する必要がありそうです。
  • 「空想」の欲求は、「確約されるだけ」で満たされるかどうか。将来の時点で、現物の商品を買い、実際に利用することで、はじめて「満たされる」のでしょう。
  • けっきょく「空想の欲望 → 将来の商品」という論理は、先物取引を論じるための伏線なのでしょう。いきなり先物取引をもちだすのは無理なので、こうした迂回路を設けたのでしょうが、必要かどうか疑問です。
  • なによりも問題なのは、欲望から考えはじめたために商品が買い手の視点から捉えられるようになっている点です。そのため、欲望が将来の商品をつくりだすかのように読めます。売る側からみたとき、「将来の商品」が本当につくりだせるかどうか、考えてみるとそう簡単にはゆかないはずです。
  • マルクス経済学の商品論は基本的に売り手の視点からするものです(私自身はこの主体の視点ばかり強調すること自体に問題があると考えるのですが、それはともかく)。商品(在庫、もちろん現物です)の属性である、つかみどころのない unfassbar な価値が、どうやって知覚できる世界に、計量可能なモノのかたちで「表現」される(「現象」する)のか、これが基本問題です。

同種概念の空洞化

「将来」の導入は同種性の意味を事実上反故にする結果になっています。

このとき、商品が現存するか否かは、人間の感覚によって識別される事柄である。そのため、例えば、現物のリンネル二〇ヤールと、三か月後に手に入るリンネル二〇ヤールとは、同じリンネル二〇ヤールとして一括りにできない。 同様にして、現物のリンネル二〇ヤールと将来のリンネル二〇ヤールとを足し合わせて、リンネル四〇ヤールここにありということもできない。モノの定量性は、共時的にしか発揮されないのである。(36頁)

  • 「将来のリンネル二〇ヤール」を足すという操作がどういうときに必要なのかはわかりませんが、少なくとも「いまリンネル四〇ヤールある」というとき、それは過去のいろいろな時点で仕入れたリンネルを合算しているはずです。異時点だから足せないとは考えていないはずです。
  • 同種というのは、あくまでモノに対する規定です。商品が同種だというのは、商品の状態をとっているモノがモノとして同種だ、という意味です。モノの同種性と商品の同種性は別だというわけではありません。
  • たしかに腐敗とか劣化とかいう現象を持ちだして、同種性を否定する人はいます。こういうモノもあることは否定しません。だれの目に品質が革って見えるなら、もちろん別種のモノになります。だがすべてのモノが一蹴ごとに変質するわけではありません。量的性格をもつモノは、一定期間を通じて基本的に変わらないと考えてよいのです。

もしここで、あくまで定量性を同種性と重ねる立場、つまり定量性をもつということは合算可能であるということだという立場をとるなら、現物の商品と将来の商品とは、合算できない以上、独立した別種の商品だということになる。したがって、異時点の商品はひとしなみに別種となる。

しかし、いま明らかにしなければならないのは、モノ一般の同種性ではなく、商品の同種性の要件である。あるモノが商品かどうかは、そもそも五感で識別できない。つまり、見た目や触り心地では、そのモノが商品かどうかは分からない。それゆえ、五感だけでは、商品の同種性は十分定義できない。(36-7頁)

  • 商品の同種性はモノの同種性と違うというのですが、繰り返しますが、リンネル商品が同種だというのは、商品という状態をとっているモノの同種性です。モノの同種性とべつに商品の同種性があるわけではありません。
  • 「現物の商品と将来の商品とは、合算できない」というのは、「現物の商品の価格と将来の商品の価格とは、合算できない」という意味でしょうか。しかし、少なくとも過去の関しては、異時点の商品価格は金額として合算してきたはずです。
  • 総じて、通時共時の二分法は、在庫が持続的に存続し貨幣が滞留している市場を捉えることには無理があります。同種性をもちだしたのは、期間を通じて変わらぬモノの存在を明示するためです。
  • ひるがえってみると、同じく期間概念を重視しながら、将来財は利子率で現財財に換算される、期間とともに財の価値は比例的に増大すると考えたのは、昔のオーストリア学派です。
  • 「同種性は共時的にのみいえる」という主張は、一瞬一瞬、財の価値は変化しており、すべて「利子率」で割り引かないと合算できないという結果になりかねません。

商品貸借

先物売買

「将来の商品」からSraffaの「商品利子率」に話が進むのですが、これを「商品の貸借」だというのは、そう解釈している人がいるがいるのはたしかですが、混乱のモノでしょう。「商品貸付という事態をどうしても考えたいなら、先物売買がそれに匹敵するかもしれないといっている」のは小幡[2009]だけで、これはSraffaが商品利子率について述べたこととは別の話です。Sraffa は利子率をすべて貨幣利子率に還元するオーストリア学派に対して、商品種ごとに異なる商品利子率が考えられその率はバラバラであろうと反論しているだけだと思います。繰り返しますが、「先物売買を商品貸付と解釈できる」という話と「商品貸付なら利子が付く」という話は別です。

ところが以下では、Sraffaに引きずられて、商品貸付とは関係ない例が論じられています。

このスラッファの商品貸借論を理解するために、次のような数値例を考えよう。綿花一〇〇梱の現物価格と三か月 先物価格が、それぞれ一ボンドと一・二ポンド、貨幣利子率が三か月で五%だとする。このとき一ボンドの貨幣を借りると、三か月後には一・〇五ボンド返済する必要がある。借りた一ポンドの貨幣を「現物の綿花の購入に使い、同じ量の綿花を同時に三か月先物で販売する」と、三か月後には一・二ポンドが手に入る。この一・二ポンドから、借りた一ボンドを利子とともに、つまり一・〇五ボンドを返済する。(40頁)

  • 上記の設例のように、現時点で、現物が1ポンド、先物が1.2ポンドと乖離しているとすると、現物を買って先物を売っておけば、必ず0.2ポンドの利得が得られます。これは利子ではなく、売買差額であり譲渡利潤すなわち利益です。1ポンドで安く買って、1.2ポンドで高く売れるのですから、だれでもそうするでしょう。
  • 現物を買うには現金が必要なので、これを借りて買うと考えれば、貨幣利子0.05ポンドは、コストとして粗利0.2ポンドから控除され、ネットで0.15ポンドの純利益が得られるということになります。
  • 因みに先物を「買う」というのは「買う予約」ですから、現金1.2ポンドはいりません。先物を「売る」というのも「売る予約」ですから、現物を今もっている必要ありません。将来その予約を実行するときに、現物価格が1.3ポンドになっていれば、売る予約をした方は、1.3ポンドで買って1.2ポンドで売ることになり、0.1ポンドの損になり、逆に買う予約をした方は1.2ポンドで買って1.3ポンドで売れるので、0.1ポンドの得をすることになります。逆に予約実行(清算)の時点での現物価格が1.1ポンドに下がっていれば、売る予約をした方が0.1ポンドの差益をえ、買う予約をした方が0.1ポンドの差損を被ることになります。現物の取引は省き差金決済をする場合には、最低限この差損をカバーできるような「証拠金」のようなものを事前に準備することが、先物取引に参加する資格として求められ、これが事前に必要な貨幣ということになります。まるっきり元手なしで先物取引ができるかというと実際にはそうはいかないわけです。ただ、ゼロではないのですが僅かな証拠金で、その何倍もの額の先物商品が売買できることにはなるわけで、現金で現物を安く買って現金で高く売るのに比べて、ずっと投機的な取引ができるというわけです。
  • いずれにせよ、もし、現時点で「現物価格と三か月 先物価格が、それぞれ一ボンドと一・二ポンド」なら、こんなおいしい話はないので、だれでも貨幣を借りてでも、現物を買い先物を売るでしょう。したがって、先物価格は下がります。先物が1.05まで下がったところで、現金を貸しても5%の利子, 現物買い先物売りでも5%の利益がでるので、先物価格はだいたいこの水準にきまる、というのが普通です。つまり裁定取引で、現物価格に近い(利子分だけ高い)先物価格が決まるというわけです。

Sraffaのオリジナルな説明は以下の通りです。

綿糸生産者が三か月間ある額の貨幣を借り、それを現物の綿花の購入に使い、同じ量の綿花を同時に三か月先物で販売するとき、彼は事実上その期間「綿花を借りている」のである。(Sraffa [1932] pp. 49, 50)

  • 「綿花を借りている」の棉花は、「モノ」としての棉花なのか、それとも「商品」としての棉花なのか?
  • これを「商品」を借りたのだと読む人がけっこういるのですが、どこにもそうは書いてありません。ただ「綿花を借りている」と書いてあるだけです。
  • 消費貸借では、同種同量のモノを返せば債務は履行されます。借りた棉花には三か月後に同種同量の棉花を返せばよい。1ポンドで現在棉花100梱を買い、1ポンドの三か月先物100梱を売れば、それは100梱の棉花をモノとして借りたのと同じだというのです。
  • もし、貨幣利子が三か月5%で、現在の現物価格と先物価格にこれが反映され、1ポンドと1.05ポンドであれば、それは棉花をモノとして借りたときの賃料、つまり利子だというのです。
  • 1ポンドと1.05ポンドといういのは、あくまでも裁定取引が完全になされた場合で、個々の先物商品に関しては、1.05ポンドからズレた、1.06ポンドとか1.04ポンドだったりするので、その意味で、「商品がモノとして借りた」ときの利子率が、商品ごとにバラつくというのが、この文の意味ではないでしょうか。
  • 要するに、これを棉花商品が「商品として貸借されている」と読む根拠が私にはわからないのです。「先物取引は商品貸借である」というには、同種同量のモノではなく「商品を返す」というのはどういう場合か、この問題に答えなくてはなりません。

「モノではなく、商品を貸借するということは、理論的に考えられるか。」という問題をだして答えようとした人がいます。その答は以下の通り。

4週間1トンの小麦を借りたとすれば、4週間後に同じ品質の小麦1トンを返せばよい。これはモノとしての小麦の貸借であり商品の貸借ではない。1万円 の貨幣を借りたとすれば、1万円の貨幣を返せばよい。返すのは元本であり、利子は賃料として支払うのである。これに対して、小麦という「商品を借りる」ということは、借りたのと同じ小麦商品を返す必要がある。商品を借りても、それは使用するわけにはゆかない。使用できるとすれば、すでに買われて単なるモノになったからで、もはや商品ではなくなっている。「商品を借りる」という以上、それは用益の売買にはならないし、賃料を伴うこともない。賃貸借ではないのである。

4週間、小麦という「商品を借りる」というのは、4週間後に返す、その「小麦商品」を、4週間後の価格を現時点で約定して借りるということになる.この商品 は現時点では架空の存在である。

例えば、4週間後の小麦商品1トンの価格が1万円であると想定して、現時点で借りるのである。借りた時点での小麦商品は1万円だが、4週間後にその価格が1万5千円に上昇していたとする。借りたのは1万円の商品だが、返さなければならない商品は1万5千円である。つまり、同じ商品を返すには5千円ほど足りない。この差額を貨幣で支払う必要がある。逆に、小麦価格が5千円に下がっていれば、1万円で借りた小麦をそのまま返すと5千円、過払いとなる。値下がり分5千円を逆に相手に支払わせてよいことになる。

これは売買関係に翻訳することができる。4週間後の小麦商品を現時点で1万円で売買したと考えても同じである。現時点で商品を「借りる」というかたちで、4週間後の商品を「売る」のであり、「貸す」というかたちでそれを「買う」のである。4週間後に1万5千円になっていれば、その額を支払って市場で小麦商品を買い、それを1万円で売らなければならない。5千円の損失であるが、この差額の5千円を直接支払って、相手に1万5千円で小麦商品を直接買ってもらっても同じことだ。逆に小麦商品の価格が5千円に下がっていれば、5千円で小麦商品を買ってそれを相手に1万円で売るかわりに、差額の5千円を直接もらって取引を清算しても同じである。現時点で価格を約定した将来の商品を先物という。商品の貸借は先物の売買なのである。

このような取引は、一種のギャンブル的性格を帯びる。先物価格が現在の価格に等しければ、将来価格が上がればその分がもうけとなるし、下がれば損になる。将来価格が上がると思えば、商品で貸しておこう、あるいは、先物を買っておこう、とするだろうし、下がると思えば、商品を借りておこう、先物を売っておこう、とするだろう。上がると思うものが、下がると思うものより多ければ、先物価格は現在の価格よりも上がり、逆なら下がる。現在1トン1万円の小麦商品だが、4週間後の先物価格がすでに1万2千円になっているなら、それが実際に1万5千円になったときは、売り手は5千円ではなく3千円支払えばすむ。要するに、将来の価格変動が先物価格以上になるか、以下になるか、予想して賭け金を積んでいるに等しい。

このような先物の売買はどのような商品に対しても成りたつわけではない。貴金属とか原油とか穀物のように、同質な商品が大量に存在し、しかも競り売りなどで その価格を一物一価できめるような、制度が整った商品取引市場の存在が前提となる。個別的な売買がさまざまな場所でおこなわれる通常の市場では、期日の約定価格が特定できない、その点で、貸借の対象となる商品は、同質大量の在庫として市場に滞留する商品に限られる。
小幡『経済原論』302-3頁。問題52の解答

  • これは現物の売買を伴う裁定取引とは関係ありません。純粋に先物取引だけを取りだして、それが商品貸借と解釈できるといっているのです。
  • 小麦商品1トンを4週間「モノとして借りる」なら、4週間後に、モノである小麦1トンを返せばよい。賃料ないし利子は、返済するのではない。別個に用益の対価として支払うのである。4週間後の小麦価格がいくらになっていようと、返すモノの量には関係がない。
  • これに対して、小麦商品1トンを4週間「商品として借りる」なら、小麦商品1トンをモノとして返してもそれは商品を返したことにはならない。
  • 先物売買の原則:「事前に予約した価格で売買する」
  • 小麦1トンが4週間後に1万5千円になったとき、先物の売り手は4週間後の現物を1万5千円で買ってそれを4週間前に約定した1万円で売らなくてはならない。つまり5000円の損をする。
  • 先物の買い手は、4週間前に予約した1万円で現物を買えて、それを4週間後の現物の価格1万5千円で売れるから、5000円の得をする。
  • 商品貸借の原則:「同価値を返せばよい」
  • 小麦1トンが4週間後に1万5千円になったとき、借りた架空の商品である小麦1トンを返すと、価値としてみると1万5千円を返したことになり、返しすぎ。1トン×1/1.5=2/3トン返せば、1万円分の商品は返したことになる。1トン返したから、1/3トン過払いになる。「1/3トン返せ、1.5万円×1/3トン=5000円支払え」ということになる。つまり、先物取引の買い手と同じことになる。
  • 「将来の商品の借り手=先物の買い手」
  • 小麦1トンが4週間後に1万5千円になったとき、貸し手は1トン貸したのに2/3トンの現物で返したことにされ、差額の1/3トンを現物で借り手に戻さなくてはならない。つまり、その金額5000円を借り手に支払わなくてならない。つまり、先物取引の売り手と同じことになる。
  • 「将来の商品の貸し手=先物の売り手」
  • 「先物取引が商品貸借と見なせる」理由が、学部生にもわかるように書いてあると思うのです。ところがなぜか、ここににSraffa の「綿花を借りている」という話を持ちこんで混乱させる人がいます。

清水〔二〇一五、一六〕(2) 三八-四一頁は、「不確定な商品利子を取得する方法」をとる「非姿態変換型」の価値増殖という独自の類型に関連して、商品貸借論に言及している。清水〔二〇二二〕も参照。そこではスラッファのほか、商品貸借を扱った先行研究として、小幡〔二〇〇九〕三〇二頁(問題152)も取り上げられている。しかし、そこでのスラッファおよび小幡の議論の扱い方には、ミスリーディングなところがある。本文で述べたように、スラッファの商品利子概念は、主体が利得として狙うものではない。また、小幡の商品貸借論では、「「商品を借りる」という以上、それは用益の売買にはならないし、賃料を伴うこともない」とされている(小幡〔二〇〇九〕三〇二頁)。賃料を伴わない以上、そこには利子もつかない。したがって、小幡のいう商品貸借においては、そもそも利子の発生すら考えられていないというべきである。(43頁)

  • 「商品を借りる」というのは、先物売買をあえて解釈した場合の話、そういいたければいえるという話です。中身はあくまで先物売買ですから、利子などつきません。賃料が別個に支払われるわけではありません。実際にモノが貸され用益が得られるから、その代価としてレントが支払われるというのが原則です。「将来の商品を借りる」といっても、それ自身はそれこそ仮想的なもので、実際に何かに使えるわけではないので、賃料を払うべき用益は何もないのです。
  • 「スラッファおよび小幡の議論の扱い方には、ミスリーディングなところがある」というのですが、相変わらずスラッファと小幡の議論が一緒くたにしている点で、二重に「ミスリーディング」です。
  • 繰り返しますが、先物取引での損益は、あくまで現在約定した先物価格と将来の清算時における現金価格の差額です。現在1.2ポンドの先物を買うのに現金はいりません。決済時に現物価格が先物価格1.2ポンド以上になっていれば、先物を売る側は1.2ポンド以上で高く買って、1.2ポンドで安くうらなければならないので、その差額だけ損をします。
  • 逆に、将来の現物価格が1.2ポンド以下になっていれば、安く売って高く売れるので、差額が利益になるのです。この差額というの利潤率のベースになりますが、貸借の賃料=用益の販売価格(差額ではありません)にも、利子にもならないのです。

商品利子

  • 第1章はこのあと、このような先物売買=商品貸借という理解を前提に、その濃淡による市場の特徴づけや、価値の規制力の差違が論じられています。
  • ここ(44頁)までの推論をごくごく簡単にまとめれば、①欲望論から架空商品=将来の商品と進み、②将来の商品はすなわち先物商品である、という展開になっています。
  • さらに、③先物取引は商品貸借であり、④商品貸借には固有の商品利子が生じる、という結論になっています。
  • このあと、第2章か第6章まで価値に関する考察が続き、さらに資本概念と銀行業資本についての検討をへて、第8章における独自の「商品貨幣」の規定につながってゆきます。
  • ただ、この先物商品=商品貸借説の理解自体に、前項で述べたような問題があると思います。
  • また、利子はあくまで賃料すなわち用益の「価格」であって、価格の差である「増加」にも投下資本に対する「増殖」にもなりません。利子を増殖と捉えるのは、どこかに期間=増殖というオーストリアン的な価値論が紛れ込んだのではないかと疑われます。
  • 基本的なズレは、もとをたどると、どうやら、共時通時という二分法、一瞬一瞬別種商品になるという同種性に対する理解にゆきつくのではないかと思われるのです。

商品論における価値増殖

「間接交換を求める形態」

「間接交換を求める形態」はそもそも一般均衡論の想定する市場の縮図であり、貨幣の実在する市場はこれと背馳するものです。小幡[2009]問題34.35を解けばわかります。

「間接交換を求める形態」といっているかどうかはともかく(私が読みかえしたかぎりではさすがにこんな杜撰な表現は見当たりませんでした…)、この例から「信用貨幣の萌芽」を説明しようとしている小幡(これは反実仮説!)は誤りを犯しています。

この例を修正して、信用貨幣を説明する途を探ってもおそらく無駄でしょう。

増殖の論証

第8章で「価値増殖は資本概念に先行する。」「価値増殖も貨幣のない世界ですでにその萌芽を見出せる。」(279頁)と述べ、その論証に進むのですが、この論証には理解しがたいところがあります。

論証は次のような「図8-1 価値増殖を動機づける価値表現の例」をもとにしている。

A: リンネル40ヤール 2着の上衣
B: 1着の上衣 10ポンドの茶
C: 10ポンドの茶、[1着の上衣] リンネル40ヤール

ここにさらに次のような条件を加えて考察が進む。

ただし、Cは、追加で拠出できる商品として、上衣一着を所有しているので、価値増殖活動に踏み出す以外に、手持ちの上衣一着を追加して交換に臨むというオプションをもつ。ここでは、このCの欲求が最も差し迫っており、AとBに先んじて、Cはリンネル四〇ヤールを手に入れる必要があるというケースを考えよう。

詳しい説明は本書を参照してほしいが、かなり特殊な条件の設定のもとでいろいろな詮索がなされているが、結論のみいえば、次のようになる。

  • BがCとの間で、債務S(上衣商品2着の債務証書)と債権S’(茶商品10ポンド & 上衣商品1着の債務証書)を形成。
  • 要するにBがCとの間で商品どうしの交換を約した一種の空手形を振り出すという話。
  • ①CはSで緊急のリンネル40ヤールを取得、②BとC間でS’の履行③AとBの間でSの履行で、めでたしめでたしだというのである。

例解への素朴な疑問

当然のことのながらすぐに次のような疑問がでてくる。

  1. Cはまず現物交換: Cが緊急回避するためなら、さきにBから上衣1着を交換で手に入れればよいはず。なぜ、わざわざBと怪しい空手形を振り出したりするか。たぶんAはSを簡単には信用しないでしょう。
  2. Cはさっさと現物でBと茶と上衣の交換を行って上衣を合計2着にしてAとの交換に臨むほうが得策です。素朴に考えて、どうしてこうしないのか、不思議です。
  3. 債権証書がでるとしても:Bが実際にCから茶商品10ポンド & 上衣商品1着を買い取って、その支払を上衣商品2着で後日行うという約束手形SpをCに振り出したのであれば、Aは、Cが裏書きした(しなくてもいいですが)Spに対して、リンネル40ヤールを売ることはあるでしょう。Bが実際に上衣2着をちゃんと資産としてもっているからです。SとS’の振替とは違います。S’(茶商品10ポンド & 上衣商品1着の債務証書)がでてくる余地はありません。
  4. 合成の無理:単純に考えても、S(2着の上衣)とS’(1ポンドの茶 & 1着の上衣)の両建てでは、1着の上衣が重複しています。Cからみれば、もう1着の上衣に対する債権があれば充分なので、S(1着の上衣)とS’(1ポンドの茶)が両建てで形成されれば、リンネル40ヤールの取得は可能なはずで、合成商品を請求するような債権を登場させたのは、なんとか銀行信用に拡張しようとしたためでしょう。
  5. Bの増殖の正体:Bが増殖した(ようにみえる)のは、はじめ、交換されないことになっていたCの在庫[1着の上衣]をBが横取りしたからです。Cが、自分でさきにBの「1着の上衣 → 10ポンドの茶」に応じて「10ポンドの茶 → 1着の上衣」という交換をして、手持ちの上衣を2着にしてAの「リンネル40ヤール → 2着の上衣」に応じれば、だれも増殖などできません。Cが、茶商品10ポンドだけではなく上衣1着までオマケに渡すというあきらかに不利な、S’(茶商品10ポンド & 上衣商品1着の債務証書)を受けとるとしたから、この在庫[1着の上衣]だけ、Bが得をしたというのが、増殖のようにみえるものの正体です。
  6. 「増殖」のチャンス:本来Cの在庫だったはずの[1着の上衣]が交換されるようになれば、Bに限らずAにだって「増殖した(ようにみえる)」ハズです。B,C間では「1着の上衣 (→ 10ポンドの茶 ) → リンネル40ヤール」であったものが、Aの思い通りに「リンネル40ヤール → 2着の上衣」になったわけですから、1着の上衣が2着にふえて実現された、ということもできるわけです。いずれにせよ、当初より損をしたのは、[1着の上衣]を交換にださなくてはならなくなったCで、これを増殖というかどうかはべつにして、BもAもこの恩恵に与って得をするという話です。

一般化

このように「図8-1 価値増殖を動機づける価値表現の例」は素朴な疑問が払拭できません。論証らしきものはこの例に強く依拠しており、本書では大事な箇所なのではないかと思います。こんな基本の基本のところで合点がゆかなくないというのは、もしかすると、私のほうが、なにかとんでもない思い違いをしているのではないか、重要な条件を見逃しているのではないか、と些か心配になります。

ただ、そのうえで付言すると、数値例で説明したあとに、最低限、もう少し一般的な、抽象化した命題の提示があってもよいのかと思います。そうしてもらえれば、思い違いや見逃しがはっきりするのではないかと思います。そこで私のほうで、かわって概括してみます。

  1. 増殖命題:交換する側の商品ベクトルを\(\bf{a}\) 交換される側のベクトルを\(\bf{b}\) としたとき、その要素のなかで \(a_i < b_i\) となるものがあり、これが\(a_i’= b_i\) になるように変更されれば、変更前に比べて\(i\)以外の商品では交換で得られる商品量が増加する。
  2. 合成命題:このためには、ある商品に対する債権Sと合成商品に対する債権S’の同時形成がいずれかの主体によってなされなくてはならない。

あくまで暫定的な命題です。ポイントは、増殖と合成です。仮にこうまとめておいてコメントします。

  • まず、2は不要というか、過剰な命題だと思います。
  • 銀行業では、一方に一種類の負債Sと他方にさまざまな債権S’が同時に形成されるわけですが、これを商品の価値形態論に投影したことが、他のもっと単純な解決法を無視して、命題2になったのではないかと思います。
  • これは商品量ではかった差額、つまり「増加」であっても、投下された資本が定義されないかぎり、資本に対する「増加」という意味での「増殖」とはならないだろうと思います。増殖率は、フローの差額とストックの比であり、両者を結びつける契機が必要になります。この点は、また後で「補足」のところで少しふれます。
  • いずれにせよ、2の両建説で導入されるS’には無理があると思います。
  • 1の「増加」のほうは、抽象化して突き詰めてゆくと、要するに「生産」がなされていることにゆきつきます。
  • 在庫であった[1着の上衣]が交換されるというのは、この部分が新たに追加生産されると考えても同じです。繰り返し図8-1の関係が成りたち、増加を繰り返せるとすれば、この在庫部分が繰り返し生産されることを意味します。つまり、
    A: 2着の上衣 リンネル40ヤール
    B: 10ポンドの茶 1着の上衣
    C: リンネル40ヤール 10ポンドの茶+1着の上衣

    という再生産構造が存在するということです。生産価格比と一般的利潤率ももちろん計算できますし、AとCが利潤率ゼロでよいなら、Bだけが正の利潤率を得ることも当然です。

  • 要するに、商品世界だけで増殖しているといっても、内実は投入 < 産出 という生産によって増殖しているわけです。流通論の領域だけで、あるいはもっと狭く商品論の領域だけで増殖を説明するというのはやはり無理だと思います。

まとめ

いろいろ布石をはった展開になっているので、簡単に片づけるわけにはいかない面もありますが、理論ですから思いきって単純化して、骨組みだけ取りだしていうと、本書は次のようになります。問題の核心は、信用貨幣を物品貨幣と同じく、商品論のレベルで、理論的に説くにはどうしたらよいか、です。

本書の推論は、だいたい以下のように進んでいる。

  • 信用貨幣は、商品を対象とする債権でなくてはならない。モノを対象とするのでは代理物となり、物品貨幣と違わない。
  • 商品を対象とする債権は、付利の債権であり、増殖関係を含まなければならない。無利子の債権は商品経済的な動機を逸脱するからである。
  • 貨幣のない商品世界の次元で、(価値)増殖も説明できる。
  • そこでは、合成商品に対する債務証書が登場し、これは銀行信用に通じる。つまり、信用貨幣の萌芽となっている。

これに対するコメントは次のようになる。

  • 同種商品に関して、共時的にのみなりたち、通時的には成りたたない、という切断をしてしまった。時間的に切断された商品を先物取引で関係づけ、そこに商品貸借を想定した。
  • 信用貨幣のもとになるのは、モノではなく商品に対する請求権だというところから、先物取引に関連づけられる。
  • ところが、この先物取引に対する誤解がある。増殖の意味が、先物価格と現物価格の差に求めた点である。あえて増殖というなら、現在の現物価格と清算時における現物価格の差額を考えるべきである。
  • 増殖を商品論レベルで説こうとして、銀行信用における両建型かつ合成型の債権の必然性を見いだそうとして、単純な間接交換で回避できる事態を看過してしまった。

本書の基本課題については、老耄を省みず、いろいろ取り組んでみたが、いまだ正解を得るにはほど遠い観がある。解法に関して、本書とはだいぶ異なるが、参考となる点も多々あるように思われるので、今後も繰り返し参照してみたいと思う。

補足:投下と支出

本書では小幡の著作論文に対する批評が多くでてくる。こうした批評に対して、誤解誤読誤解釈だとコトコマカに言い立てるのは、端からみれば些細などうでもよいこと、になるので、全体に関わらないものは当人間で議論することにする。

このレベルではいろいろと本一冊になりそうなほあるが、ここでは一例をあげておく。

20 「貨幣は支出される》ものであるのに対して、《資本は投下される》ものだという自明な原点」(小幡〔二〇一三一五〇頁〕が、小幡〔二〇〇九〕の「資本」章では明確になっていない。それにしたがえば「商品・・・・・・を売買するためには、情報を集めたり、売れるまで保管したり運搬したりする必要がある。このような売買のために支出される費用を流通費用とよぶ。このために、二〇万円がかかったとしよう。これらは流通費用として、投下資本一〇〇万円のなかから支出される」(小幡〔二〇〇九] 八三頁)といった件は、明らかにカテゴリーエラーを犯している。

カテゴリーエラーだというのは、おそらく「投下資本一〇〇万円のなかから支出される」という件でしょう。「資本のなかから支出される」を「資本が支出される」と同義と読んだのではないかと推測されます。しかし「から」と「を」は別の話。「空から雨が降る」ならけっきょく「空が降る」のだろう、といわれてもちょっと困ります。ここでの文脈は、取引に関する資材・労力が必要だが、それらは売買される商品に支出された費用(取得費用)と対応させることができず、費用という概念が適用できません。商品論や貨幣論のレベルでは、資材・労力は、それが商品として買われたとしても、売り手の資財・家産「から」支出されていたのに対して、資本のもとでは投下資本という明確に仕切られた額「から」支出されたものとして、転売される商品の「取得費用」と同じ「費用」範疇に括られ、投下資本額と関連づけられるという点がポイントです。「から」というのはこの「投下資本額と関連づけられる」という意味です。さきにもちょっとふれたように。この関連が明確でないことが「増加」をただちに「増殖」とする誤りを生んだのではないかと思うのです。

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