世田谷市民大学2024第2講

現代とは:変わりゆく資本主義

はじめに

前回は、資本主義はどのようにはじまったのか、という問題について考えてみました。『資本論』は資本主義の起源を「資本の本源的蓄積」として論じていました。蓄積というと貨幣を貯める話かと思いきや、基本は「鳥のように自由なプロレタリアートの創出」だという話でした。いくら貨幣をためてもそれだけでは資本主義にはならない、富を生みだす労働力の商品化こそ資本主義の起源となるのだというわけです。この過程が典型的に進んだのはイングランドであり、しかもそれにはずいぶん長い時間がかかったというのです。ただこの一国長期説にはいろいろ問題があるということで、農業資本主義やグローバルヒストリーなどにもふれてみました。いずれにせよ「起源」は終わった「過去」ではない、「現代」を照らしだしているのだ、これが第1講の主旨でした。

今回はこの起源が現代にどのようにつながっているのか、この間の歴史について考えてみたいと思います。資本主義は、起源から現代まで一直線で結ばれているわけではなく、途中に屈折点をもっている、ひと言で資本主義といっても、その資本主義は変わるのだという話です。変わるといっても連続的に少しずつ変わるのではなく、一つの状態から別の状態にいわば構造転換する、変容するわけです。前回、1970-80年代以降を「現代」と定め、この時代の資本主義を「現代資本主義」とよぶといったのですが、この変容という観点から「現代」のはじまりを考えようというわけです。

資本主義の発展段階

収斂説

前回は『資本論』の資本主義論について立ちいって話してみました。そこには「資本主義が変わる」という発想はありませんでした。いやあるという人もいると思いますが、それは一方向に進んでゆく連続的な変化で、途中で別方向に転換するわけではありません。『資本論』は亡命先のロンドンで執筆され、当時のイギリスを主たる対象にしていますが、ドイツ語で書かれています。『資本論』は第1部刊行当時のイギリスの経済情報がふんだんに盛り込まれています。大英図書館の余得というべきか、『資本論』が大部なのは一つにはこのせいで、もう一つは膨大な量の文献が博覧強記の著者により参照されているせいです。これらはドイツ語圏の読者には、先進国イギリスでしかえられない貴重な最新情報だったはずで、他に類をみぬ著作になるはずでした。

とはいえ、イギリスという他国の状況を知ることにどんな意味があるのか?次の有名な「序言」の一句がその答えになります。「産業のより発達した国は、発展の遅れた国に対して、ほかならぬその国自身の未来の姿をしめしている。」(Werke 23, S.14)ドイツも資本主義になると、やがて今日のイギリスのように、一方で生産力が急速に増大しながら他方で産業予備軍が累積し階級闘争が激化するというのです。これはドイツにかぎりません。どの国であれ、産業の遅れた国は進んだ国と同じ軌道を突き進みやがて一つの究極の姿にゆきつくという見方が基本にあるのです。

「現代」の起源

収斂説にたつかぎり、あえて「現代」という意味はありません。ずっと同じ傾向が貫いているわけですから違いは程度の問題です。資本主義になぜあえて「現代」をつける必要がでてくるのか。それは、これまでとはっきり違う別の傾向が現れたからでしょう。現代資本主義という新たな発展段階に達したというわけです。『資本論』という書物が西ヨーロッパ世界で読まれた時代は、資本主義の歴史的な構造転換の時代でもあったのです。このことは、『資本論』の「読まれ方」をみてみるとわかります。

『資本論』は今でこそ全三巻からなると思われていますが、そろって一度に刊行されたわけではありません。第1部の初版の刊行は1967年、改訂版の第二版が1873年、そのフランス語訳は1874年から分冊でました。つまり独仏では、前回お話したように、それ自身で完結性をもつ第1部が先に刊行され、そうしたものとして読まれたわけです。これに対して、英語訳がでるのは1887年で初版から数えて20年後です。英語圏の読者は、明治維新の頃にでた本を大日本帝国憲法が発布された頃に読むことになります。そして第2部、第3部となると、1883年に著者マルクスが没した後、残された草稿をエンゲルスが編集するかたちで1885年と1894年に刊行されたのです。第1部と第2,3部の落差はちょっと眺めただけでもわかります。前者にみられた膨大な文献参照や長い註記は後者では影を潜めます。こうした事情もあり、リアルタイムで『資本論』を読んだ西ヨーロッパの人々の間に、「労働価値説に基づく搾取論+剰余価値の蓄積の帰結としての窮乏化論=『資本論』」という固定観念が形成されていったのは、ある意味、やむを得ないことでした。

しかも第1部初版から第3部で完結するまでかれこれ27年が経過しています。四半世紀もたてば「現代経済の基礎知識」だって色あせてしまうでしょう。2024年という今から27年前といえば1997年、山一証券が倒産した年です。夢よもう一度という思いも虚しく消えて、もうバブル以前には戻れぬことにだれもが気づいたあの年です。福祉国家型社会も日本的経営も、アッという間に新自由主義の津波に押し流されていったのでした。『資本論』の場合も同様で、現実は『資本論』に描かれた姿から大きく様変わりしていったのです。だから『資本論』第1部がでたころには — 「現代」と冠することこそなったものの –すでに『資本論』を拡張する試みがはじまっていました。

事実、イギリスでは、第1部刊行直後の1873年恐慌を契機に、『資本論』に描かれた10年周期の循環的拡張に変わり「大不況」Great Depression とよばれる長期不況が20年あまり続くことになります。1873年といえば、奇しくもちょうどその100年後、1973年にオイルショックが起こることになります。『資本論』第2部の草稿のなかにはこの時期に書かれた部分がいくらか含まれているのですが、こうした変調というものはそれが終わった後にはじめてわかるもので、そこに大不況の分析を見いだすことはできません。いずれにせよ、この時期に産業革命にはじまるイギリス綿工業を基礎とする自由主義的な経済政策も大きく変わっていったのでした。

『資本論』ではフランス経済にほとんど論及していませんが、少なくともナポレオン三世の第二帝政の時代になると、オスマンのパリ改造など公共事業や、株式を利用した全国的な鉄道網の急拡大など、伝統的な絹工業などを中心とする資本主義とは明らかに異なる、ある種バブル的色彩を帯びた発展を遂げるようになります。『マルクス・エンゲルス全集』などをみると、サン=シモンの影響をうけたペレール兄弟によるレディ・モビリエの銀行破綻など、合衆国の新聞への寄稿などのかたちでいろいろ論じられているのですが、『資本論』には反映されていません。Émile Zola(1840-1902) の L’argent(1891) という小説が『金(かね)』という邦題で訳されおり、これを読んでいたら、ちょうどこの時代が舞台で、なんとパリ証券取引所を小窓から毎日眺めその破綻後の世界を夢見るマルクス主義者のシジスモンという人物まで登場してちょっと驚きました。彼の主張も数ページにわたり紹介されているのですが(訳書52-4頁 546-8頁)、その内容は『資本論』第1部に基づく未来社会像になっています。この小説が出版されたのは1891年ですから、まだ第3部はでていません。だから第3部でクローズアップされる「利子生み資本」論などは当然知らないわけで、彼が目撃している証券取引所と彼の資本主義論とにはギャップがあります。

こうしたフランスのバブル経済は、ナポレオン三世が仕掛けていった普仏戦争(1870-71)にフランスが敗北し、マルクスが『フランスの内乱』Bürgerkrieg in Frankreich(1871)でエールを送ったパリコミューンの運動がおこるなかで、頓挫するわけです。この戦争に勝利したプロイセンがドイツの統一を進め(帝政ドイツ)、ベルリン会議(1884-85)における「アフリカ分割」などを通じ植民地拡大を図るとともに、後にヒルファーディングが『金融資本論』Das Finazkapial (1910)に描いた巨大銀行と癒着した重化学工業の発展がはじまるわけです。

このあたりの英仏独の絡み合いは『資本論』を読んできた私には面白いのですが、「現代資本主義論」といいながら昔の話ばかりじゃないかと苦情がでそうなのでやめます。申しあげたかったのは「資本主義は変わる」「それ自身変わる」ということです。だからどんな「資本主義論」もつねに「現代・資本主義論」とセットになる、理論と現実というセットになる、という点だけ理解していただければひとまずここはOKです。

「日本は資本主義なのか」

問題は、日本における『資本論』の「読まれ方」です。また昔の話かと思われるかもしれませんが、いま現代資本主義論を語るうえで欠かせぬ観点がでてくるので、この点にかぎり、簡単に解説してみます。「発展段階」という観点です。もちろん発展段階自体は唯物史観以来ずっとある捉え方ですが、資本主義が一つの発展段階であるだけではなく、その資本主義の内部にもさらに「発展段階」があるという考え方です。これは収斂説からはでてきません。

さて、日本で『資本論』がどのように受容されていったのかですが、これもこういうことを専門に調べている方がおり、下手に何かをいうとたちまち「そりゃ違う!」と叱られるのですがここでは細かい話はさておき、ザックリいって関東大震災のちょっと前のころに訳本がではじめ(高畠素之訳 1920年)、昭和初期には廉価本のかたちで普及した(同 改造社版 1927年)といわれています。『資本論』初版がでてからほぼ半世紀後ということになります。

明治維新からかれこれ50年が経過し、とりわけ第一次大戦後の好景気に沸くなかでロシア革命を目撃した大正末期から昭和初期に『資本論』を読めば、日本の現実をそこにどう位置づけたらよいのか、大きな謎が発生します。一方には、低賃金を利用した製糸業や綿工業のみならず、欧米の先端技術を導入した製鉄業や造船業も具えながら、他方で農村に零細自作農や小作農が大量に存在し高額な地代に苦しんでいる、いわば二重構造になっているわけです。比較する場所によって、似ているといえば似ているが、違うといえば違う、ということになります。『資本論』にかぎらず一般に、欧米の社会を対象とした書物を読んで、日本の現実(その時代の「現代」)と比較するとき繰り返される問題です。「違う」は、時間的な前後関係である「遅れている」に置き換えられたり、逆に独自性が強調され「優れている」にひっくり返されたりすることになります。

「日本は資本主義になったのか」、『資本論』を基準にしたとき、まだ資本主義とはいいがたいという講座派と、曲がりなりとも資本主義だという労農派の間で展開された「日本資本主義論争」は、私が学生の頃でも語り草で、日高普他著『日本のマルクス経済学:その歴史と理論』上・下(1967,1968年)でその概要を学びました。この後に述べる宇野弘蔵の方法論を支持する人々の共著ということもあり講座派に厳しすぎる印象もありますが、当時の『資本論』の読まれ方を知ることができました。その内容に立ちいる余裕はありませんが、ここで注目してみたいのは、半世紀まえに西欧で刊行された『資本論』を50年後に極東の島国で読むという読書経験の予期せぬ効果です。

ポイントは二つあります。一つは『資本論』のなかでも理論的な側面が強調され一般化されたことです。『資本論』のウリは19世紀の発展するイギリス資本主義の現実が豊富な資料で生き生きと描かれている点でした。ただそれを地理的にも歴史的にも大きくへだった日本の現実に当て嵌めようとしても無理なのはすぐわかります。直接比較すれば、ここは似ているがそこは違うといった水掛け論が関の山、日本は資本主義だといったどっちつかずの結論しかでてきません。そうした部分的な現象の比較ではなく、そもそも資本主義とはどのような骨格をしているのか、その全体像を読みとり、なにが資本主義たるか否かを判別するメルクマールになるのか、はっきりさせなくてはなりません。要するに一つ目のポイントは、きわめて理論指向の読まれ方がなされるようになったという点です。

『資本論』は大部の本でして、はじめから終わりまで読み通すのはたいへんです。私も大学生のとき通読しようとして挫折しました。実は浪人のとき –1969年でした– 宇野弘蔵という人の『経済原論』という大学の教科書を先に読んでしまいました。旧版と新版があるのですが新版のほうです。全部で200頁ちょっとしかなく、しかも全体が三篇三章三節に整理されているので目次はすぐに記憶できました。それで大学に入ってから『資本論』を直に読もうとしたのですが、たとえば「労働日をめぐる闘争」とか「機械と大工業」とか、当時のイギリスの現状を詳細に論じた部分だけで第1部の少なくとも三分の一くらいを占めている感じで、こういうのが面白いんだ、という友人もいましたが、正直私はついて行けませんでした。理論的な部分を取りだせば、宇野『原論』ならわずか200頁あまりで全三巻がカバーできるのではないか、理論にとってはどこまで抽象化できるかこそが重要なのだと、密かに思ったのでした。これは極端な読み方ということになりますが、そこまでゆかなくても、日本における『資本論』の読まれ方がこうした傾向を有していたことはたしかです。先ほどどんな資本主義論も「理論と現実のセット」にならざるをえないと述べたのですが、日本では理論指向の読み方によって、「現実」と「理論」の分離がより徹底されたものになったわけです。

もう一つは、『資本論』がはじめから三部構成で読まれたことです。これにより、搾取論+窮乏化論という第1部の資本主義像とは異なる独自の資本主義像が浮上したのです。第1部のタイトルは「資本の生産過程」なのに対して、第2部は「資本の流通過程」、第3部は「資本主義的生産の総過程」です。

第2部では、資本は生産過程だけではなく、商品在庫や運転資金も投じられ、また生産費用とは異なる回収のされ方をする流通費用や回収に長期を要する固定資本の存在などが明らかにされます。\(G – W \cdots P \cdots W’-G’\)という表記は実は第1部にはでてきません。宇野『原論』ではこれを「産業資本的形式」とよび「商人資本的形式」\(G – W -G’\)と「資本的形式」\(G \cdots G’\)とあわせて「資本の三形式」とよんでいます。例のトリプルスリーで、第三篇第三章はこれに対応した三節構成になっています。先に宇野『原論』を読んでしまった私は『資本論』にも当然こう書いてあるものとてっきり思っていたらこれが大間違い、宇野は戦前に『資本論』第2部第一・二篇の解説をしていますが(『資本論体系 中』経済学全集第11卷 改造社 1931年)、そこで得た資本の図式を前方に繰り上げた宇野独自の細工でした。こういう芸当は全三部を一度に読める環境がないとできないことです。因みに同書の第三篇の解説は山田盛太郎の担当で、この「再生産表式」の概念を基礎に講座派を代表する『日本資本主義分析』(1934年)が執筆されることになります。

第3部のほうもついでにみておくと、基本テーマは剰余価値の分配です。第1部では剰余価値が次々に蓄積されることで生産力が急上昇するなかで、貧困が累積するという自己矛盾、内部崩壊が説かれていたとするなら、第では資本賃労働関係全体で形成された剰余価値が、個別資本の競争の意図せざる結果として投下資本に比例した平均利潤として分配され、さらに利子生み資本に対する利子、土地所有に対する地代というかたちで分配される過程が分析されてゆきます。こうして、労働者、資本家、地主という三大階級で構成される資本主義像が描きだされることになります。

ここでも剰余価値の蓄積に生産力の上昇は、原材料などに支出された労働量 c とそれを加工するのに必要な労働量\(v+m\)の比率\[\frac{m+v}{c}\]をどんどん低下させ、この比率を天井にもつ利潤率\[\frac{m}{c+v} > \frac{m+v}{c}\]も長期的には低落せざるをえないという「利潤率傾向的低落の法則」が説かれています。「窮乏化法則」と同様、資本主義のもとで加速する生産力の上昇が破綻につながるというパラドックスです。ただ利潤率に関しては、この長期的傾向とともに、好況期における剰余価値の蓄積につれ、労働力の吸収が進み、賃金の急上昇が剰余価値率$m/v$を減少させ、利潤率\[\frac{m}{c+v}=\frac{m/v}{c/v+1}\]を低下させる可能性も説かれています。つまり、長期の傾向的低下が、利潤率の循環的な上昇・下落をそのうちにもつことが示唆されているわけで、ここに周期的な景気循環を読みとることも不可能ではありません。

また細かい話になってしまいました。面倒だったら途中は忘れてください。要するに『資本論』全三部を通して読むと、資本が労働力から搾取した剰余価値を基礎に、競争的な市場を通じて社会的再生産を編成処理するという大きな構造が浮かび上がってくるというのが結論です。日本における理論に傾いた『資本論』の読まれ方は、市場と生産のダイナミズムを強調する独自の理論を生みだしていったという話でした。こうして、一般的な資本主義の理論に基づいて、資本主義がどう変わったのかというかたちで現代資本主義を論じるのが、日本おける現代資本主義論の特徴となったのです。

理論の使い方

日本のマルクス経済学はこのような理論を基礎に戦後日本の資本主義分析を進めてきました。一つの流れは「独占資本主義」型の現代資本主義論です。主流派といってもよいでしょう。『資本論』第1部の集中集積論を基礎に、第3部の生産価格論や信用論を利用して、資本主義は独占資本主義の段階のいたったとみる立場です。独占資本主義論というのは、すべての資本が独占資本になるというのではありません。もともと「不均等発展」という考え方は、レーニンの『帝国主義論』の第4章「資本輸出」の最初のパラグラフにもでてきますが、これは国家間に生じるだけではなく、国内においても一方における巨大独占と他方における多数の零細資本という分解にも当てはまります。独占資本主義論は高度成長期における二重構造を反映したものとみることもできるでしょう。ただこれは、ある意味で『資本論』の集中集積論を現実に直接適用する方法に基づくものでした。欧米での現代資本主義論もその多くはこの独占資本主義論です。そして戦後の冷戦体制のもとで国家財政が膨脹するなかで、この延長線上に国家独占資本主義論が展開されていったのです。

もう一つの流れは、発展段階論型のアプローチです。独占資本主義型も段階という認識はあるのですが、それは資本主義一般のもつ集中集積という傾向の延長に現れる、いわば程度の問題という面をもちます。発展段階論型は傾向といってもその方向が鈍化・逆転したと捉える立場です。これは日本のマルクス経済学に特徴的な流れといってよいと思います。もちろん、この立場も独占資本ないし金融資本が支配的な資本になったということは認めるのですが、こうした資本が支配的になる資本主義では、財政金融政策や為替管理、関税政策、失業対策や福祉政策などを通じて国家が果たす役割が増大することが強調されます。独占資本主義型がある意味で資本主義の理論を現実に直接適用する面が強いとすれば、段階論型は理論から現実が乖離する点を強調することになります。その意味で、二つの流れは理論の使い方をめぐる方法論的な違いだといってもよいでしょう。

発展段階論型の方法論の代表は、若いときに私がフライングで先に読んでしまった『経済原論』の著者である宇野弘蔵です。『資本論』全三巻を半世紀遅れで日本で読んだ効果がそこにはよく現れています。『資本論』の舞台は、市場の原理が強まり小さな政府が標榜された自由主義段階の英国資本主義であり、19世紀末に独仏や合衆国が遅れて資本主義的発展を開始するようになるとさまざまな非市場的な要素が残存しあるいは増強されるようになり、英国資本主義もこの影響をうけるようになる。資本主義は自由主義段階とは異なる性格をもつ帝国主義段階に移行したのだというのです。段階というのは連続的な延長ではなく不連続な逆転で画される概念です。三つにそろえるのが好きな宇野は、資本主義の生成期である重商主義段階を加えて、資本主義の生成・発展・没落という三段階にわけ、三番目の帝国主義段階においては先発資本主義とは異なるタイプの後発資本主義が登場するのであり、日本の資本主義はこの後者のタイプを基礎に分析する必要があると考えたのです。つまり『資本論』のような純粋資本主義の原理論を直接日本の現実に適用するのは無理なのであり、資本主義の対立するタイプを解明する段階論を媒介に現状分析に進む必要があると主張したのです。

独占資本主義論型にせよ、発展段階論型にせよ、もう少し丁寧に解説するべきかもしれません。ただ独占資本主義型はもとより、発展段階論型でも、現代の現代資本主義論に間に合わないというのが、この講義の基本的な立場なので、これ以上は割愛します。こうした紹介と批判は正しくやっておかないと、たとえば P.スウィージーの独占資本主義論や宇野の三段階論に馴染んできた方々から、誤解だと非難されるのはわかっているのですが。ポイントは従来の独占資本論型でも発展段階論型でもうまく説明できない現実に直面しているのだという点にあります。ここでは残った時間で、従来のやり方では捉えきれれない「現代」の意味を述べて、次回以降の各論に進みたいと思います。

グローバリズム

今日の「現代」

さて、以上みてきたように、現代資本主義というときの「現代」は、これまで幾度も更新されてきました。これは資本主義が本質的に変容を受け容れる性質をもっているからです。ただ、この変容=構造変化の一般理論というのは、構造そのものの分析に比べて格段に難しくなります。メカニズムとシステムの違いです。建物とか機械とかの構造計算はできますが、生物の変態とか環境の遷移とかとなると、そもそも数学的あるいは論理的にどう表現したらよいのか、一筋縄ではゆきません。こうした変容もなんとかして理論の射程に収められないものかとあれこれ努力してきたのですが(『経済原論:基礎と演習』2009年)、どうやら夢は枯れ野を…ということに終わりそうです。しかし、原論で論証できなくても、資本主義が変容するシステムであることはほぼ間違いないでしょう。繰り返されてきたいくどかの「現代」の、その最後に位置する「現代」とはなにか、頑張って考えてみたいと思います。

プレートの交替

結論から先にいえば、現代の「現代」を画するのは、新たな資本主義の台頭です。ちっとも新しくない「新しい資本主義」の話ではありません。1970年代の後半になるとNICsとかNIEsという言葉を耳にするようになりました。1980年代に相対的に好調であった日本経済の背後で急成長したアジア四小龍が代表でしょう。日本が1990年、年初のバブル崩壊以降低迷を続けるなかでこれらの国・地域は拡大を続けてゆきます。さらに1989年のベルリンの壁崩壊から1991年にいたるソ連邦の崩壊にいたる流れも、新たな資本主義の台頭に合流してゆき、21世紀にはいると大国型のBRICsが注目されるようになります。こうした流れは、しばしば合衆国を中心とする先進資本主義諸国による海外投資の結果にすぎないと見なされ、たとえば1997年7月のアジア通貨危機のような事態が生じるたびに、その脆弱性、従属性が強調され、けっして新たな資本主義の勃興とよべるものではないといわれてきました。

しかし、これまでみてきたような超長期の視点で資本主義の歴史を捉えてみると、この勃興否定説がきわめて近視眼的なものであるのに気づきます。『資本論』にしたがって15世紀末からの「資本の本源的蓄積」に起源を求めるにせよ、あるいは17-18世紀のイギリス羊毛工業の発達を中心とする「重商主義段階」を資本主義の生成期とするにせよ、資本主義はイギリスを起点とする単一起源説にたつことになります。そして19世紀にイギリス綿工業を基軸にした「自由主義段階」の資本主義が形づくられるのですが、19世紀末になると、この先発資本主義国イギリスに対して、ドイツを典型とする後発資本主義が台頭することになります。『資本論』の視野にはない極東の日本も、この「帝国主義段階」において、辛うじて資本主義化の波にのることができたのでいた。だが、こうした西ヨーロッパを中心とする一連の資本主義の生成・発展の波は、20世紀に入ると急速に終息します。資本主義化した諸国は、国内的においては、独占資本のもとに非資本主義的な部門を温存するとともに、対外的には植民地を拡大することで周辺地域における資本主義的発展を抑制・破壊するようになったのです。資本主義は、世界的規模でみれば、部分的・局所的な存在であることが明らかになったといってよいでしょう。

こうして、資本主義は部分的に発展を遂げながら全体としては没落期にはいったと捉え、これをもって、新たな「帝国主義段階」の資本主義と規定することも可能となったのです。資本主義列強は、植民地争奪戦から第一次世界大戦に突入し、そのもとで1917年のロシア革命により社会主義国も誕生することになります。こうした資本主義の部分性は、第二次世界大戦後の冷戦構造のもとでさらに顕著になります。中国をはじめ、およそ資本主義的発展を経由したとは考えられない地域で社会主義革命が起こり、社会主義を標榜する人民共和国が簇生すると同時に、植民地支配を打倒して独立した第三世界の諸国の多くはモノカルチャー型経済のもとでかえって資本主義諸国の経済への従属を強いられ、新たな南北問題が激化していったのです。

要するに、資本主義はある時代に一国でただ一度生成・発展し、その後、いくつかの諸国に拡大したが、それはある時点で停止した、ということになります。もちろん、現実の複雑な歴史現象をこんなに単純に割り切れるはずがありません。ただ超長期の観点から鳥瞰し、強いてひと言でいうならば、単一の起源をもつ資本主義は、中心と周辺という構造に収束したということができたのです。19世紀末の日本の資本主義化から20世紀末のソ連邦の崩壊までの100年あまりの長い期間を「帝国主義段階」という名称でよぶのが適切かどうかはわかりませんが、ただこの期間を通じて国内的にも世界的にも、資本主義の市場が覆う領域が拡大し続けたとはいいがたい状況にありました。1873年の大不況ではじまった100年は、その真ん中の1927年に大恐慌が発生し、その後の不況救済を政府の介入に求める動きが広がります。そしてこの大恐慌を挟む二つの世界大戦では、国家主導の軍事経済の色彩が強まり、また第二次世界大戦後の冷戦構造のもとでは、資本主義諸国は社会主義に対抗するために、多かれ少なかれ福祉国家的性格を帯びるようになったのです。二つの大戦間期にマルクス主義者は、すでに世界史的にみれば資本主義から社会主義への「過渡期」にはいったと唱えていましたが、戦後の福祉国家の時代になると、非マルクス主義者のなかにも、資本主義も社会主義も計画経済と市場経済の混合経済にゆきつくという体制収斂論を支持する学者が一時は多かったのです。この100年は、「植民地主義」という狭い意味での「帝国主義」で塗り尽くすことはできませんが、宇野の用語を用いれば、非商品経済的な諸要素がますます重要な役割を果たすようになったという意味で「不純化」が進んだ「帝国主義段階」であると一括りにできる時代だったのです。

このように捉えかえしてみると、先に述べた20世紀末にはじまる新たな資本主義の台頭がもつ意味もはっきりしてきます。それは宇野弘蔵が資本主義の没落期(爛熟期ともいいますが)と規定した「帝国主義段階」とうまくつながりません。地層でいったら不整合なのです。欧米と日本の先進資本主義諸国が100年あまりにわたって資本主義化を抑圧してきた壁を打ち破って、新興資本主義諸国が新たに台頭してきたのです。そうはいっても、「新たな台頭にみえるのは、先進資本主義国の資本が、こうした諸国に投資を拡大した結果にすぎない、だから、先進資本主義諸国がその領域を広げただけで、帝国主義段階の基本は何も変わっていない」という人がいます。

たしかに、こうした投資が呼び水になったことは否定できませんが、帝国主義段階と決定的に違うのは、こうした投資が第三世界の産業的発展を抑圧・破壊するものではなかった点です。たとえば台湾では1970-80年代に高雄の外港に大規模な経済特区を建設し外資の力を借りてかもしれませんが、重化学工業が発展しました。しかし、それと同時に電子部品などを扱う小規模な工場もこの時期に次々に誕生したのです。侯孝賢監督の「風櫃來的人」(1983)や「最好的時光」(2005)のpart 1 などをみていたら、このころの高雄のようすがわかってなかなか面白かったです。韓国はいったことがないのですが、やはり特区経済で重化学工業化をはかったようです。しかし、こうした開発が帝国主義的従属につながったとは今ではもう誰もいいません。香港やシンガポールはそもそもこうした特区開発はしなかったのではないかと思いますが、1970年代末でしたでしょうか、安いなと思って買ったTシャツのタグをみたら made in Hong Kong「舶来品か?!」と驚いたのを覚えています。かつて日本の輸出品であったこういう日用雑貨が外資導入でつられたとは思えません。100円ショップやユニクロが登場する遙か以前の話です。それはともかく、こうした小国における資本主義化を帝国主義的掠奪とみることはできない、これは長期的・世界的にみれば新しいタイプの資本主義システムの台頭と捉えるべきだ、これが —- 理論的な結論ではありませんが -— 私の「見方」です。

ネオリベラリズム

1990年代のバブル崩壊後、長期停滞が続く日本でも、世紀を跨ぐころからグローバリズムという言葉と同時平行的に、ネオリベラリズムという言葉を頻りに耳にするようになりました。David Harvey, A Brief History of Neoliberalism (2005)の訳書『新自由主義』がでたのは2007年でだいぶ後になりますが、これによるとネオリベラリズム自体は1970年代末から、サッチャーやレーガン政権のもとではじまっていた(鄧小平の改革開放路線まで含めていたと思います)が、それらはいずれも所期の成果をあげることができませんでした。高度成長期に培われた財政拡張と福祉政策がイギリスでは1970年代末に悪性インフレを生み、またアメリカでは双子の赤字(貿易赤字と財政赤字)を激化させており、こうした苦境を打開するものとして、反ケインズ主義的な経済政策への転換が進めらたのです。

80年代は、むしろ新自由主義的政策をとらなかった日本や西ドイツのほうがパフォーマンスがよかったのですが、90年代のクリントン政権のあたりで流れは逆転し、2000年のITバブル崩壊を挟みながら2008年の世界金融危機にいたるまで、ネオリベラリズム=グローバリズム=アメリカナイゼーションという図式が流布しました。日本においても2001年に発足した小泉政権が大々的に新資本主義を掲げ、市場にできることは市場にまかせよという掛け声のもと、日本型福祉国家の枠組みを規制緩和で壊してゆくことになります。なんでも世界標準=アメリカン・スタンダードでゆくべきだという風潮で、アメリカの大学のカリキュラムにないマルクス経済学など教える必要はないと強い圧力をかけられたのです。それはともかく、うえのような図式を信じる人は、新興資本主義諸国の交流も所詮、アメリカを中心とする先進資本主義諸国の拡大の余波にすぎないとみなしていました。しかし、長期的・世界的に捉えかえしてみると、新興資本主義諸国の台頭はかなり以前から徐々に剥いじまっており、こうした福祉国家型から新自由主義への転換など、先進資本主義諸国側も変化に影響をうけながら、主体的にそして着実に進展していったとみてよいと思います。

この台頭を強調する立場からいえば、これが先進資本主義諸国がネオリベラリズムに舵を切らざるをえなかった遠因になっていたようにも見えてきます。先進資本主義国では徐々にではあれ産業の空洞化、ディインダストリアライゼーションが進んでゆきました。産業構造が高度化したのだといえばそうなのであり、その意味でより高次の発展スタイルに移ったのだといえばいえるかもしれません。第三世界が発展して、それとの競争に敗れて、先進国の経済が縮小・衰退したというわけではありませんから。しかし、私が見なれてきた高度成長期の大都市周辺の大規模工場はマンションや大学キャンパスに跡地転用され、地方の地場産業は海外に工場移転するかたちで姿を消してゆきました。スコットランドのグラスゴーは重工業で栄え英国第二の都市の座を誇ってきたのですが、私が一年ほど暮らした1980年代末にはクライド川沿いに巨大なクレーンを残した大規模な造船所跡地が広がっており、これからは文化で売り出すのだといってそこでフラワーフェッシバルなどを開催して盛り上げようとしていましたが、やはりどうもみてもパッとしませんでした。これは日本や英国にかぎった話ではなく、多かれ少なかれ先進資本主義諸国に共通な現象だといってよいでしょう。ネオリベラリズムへの転換の根底には、先進国におけるこうした漸進的な産業構造の変質がはたらいているようにみえるのです。つまり、50年くらいの長期でみれば、ネオリベラリズムが第三世界の資本主義化を促したのではなく、逆にこうした地域における群発的な資本主義化によって先進資本主義諸国におけるネオリベラリズムは余儀なくされたのだ、ということになりそうです。もちろんこれは「見方」の問題で、一方的な因果関係が証明できるような学問的な知見ではありませんが。

グローバリズム

先にネオリベラリズムの話をしてしまいましたが、これと並行してグローバリズムという用語もほぼ時を同じくして頻りに使われるようになりました。

たしかに、1990年代になるとかつては「多国籍企業」とよばれていた世界的規模で活動する巨大企業のなかみが変わってきました。それまでは国際石油資本(メジャー)や植物油脂などの天然資源をベースにした巨大資本が中心でしたが、それが加工度の高い自動車やコンピュータ装置などにも広がり、さらに情報通信の分野に広がってゆくことになる。低賃金の労働力を求めて資本が進出したといえばそういえますが、逆からみれば、新興資本主義色の側にそれを誘発するような要因が形成されていたからだということもできます。かつての帝国主義連強の植民地化のように、政治的支配を基礎に農民から農地を取り上げプランテーションに変えたというのとはわけが違うのです。

さらに先進諸国のネオリベラリズムは大規模な労働力移動を引きおこすことになります。日本ではそれほど顕著ではなかったように思いますが、EUの統合はソヴィエト崩壊と相まって大規模な労働力移動が発生します。合衆国への新たな移民流入もこの時期に加速するようになります。さらに、第三世界における資本主義化の波は、均等な速度で一様に進んだのではなく、群発的・局所的に波及したのであり、そうした波に乗れなかった諸国・地域からは難民型の移民が押しだされることになったのです。

もう一つ、1990年代には世界規模の金融膨脹が進みます。高度成長期に形成された国内産業を相手にしてきた大手銀行が、1989年末のバブル崩壊以降、考えられないような統合を繰り返すことになりました。オイルショックのころ、東大経済学部の卒業生のおそらく六、七割はこの手の銀行や証券、保険会社に就職したのじゃないかと記憶しています。ところが山一、拓銀が破産したあとになると、どっちにしようか就職の際に迷った銀行がけっきょく統合されて、昔の友人と同じ銀行に所属する結果になっていたという事態も珍しくなかったのです。しかも、銀行の業務内容も大きく変わり、どんな仕事をしていたのか、大学時代の友人からもっと詳しく教えてもらえばよかったと思っていますが、ともかく多くの人が在外勤務を経験しておりました。こうした金融資産の累積と国際的な流動化も、もとをたどれば、先進資本主義諸国における産業と金融の結合がバブルとその崩壊を通じて劇的に変わったことによるものと考えられるのです。

20世紀末に顕在化した、こうした資本、労働、資金の国境を跨いだ移動は、グローバリゼーションあるいはグローバリズムと総称されるようになりました。この言葉は、リベラリズムをもとにしたネオリベラリズムに比べて、その由来ははっきりしませんが、この言葉はそれまでインターナショナルと冠せられていたものを次々に置き換えらるかたちでこの時期急速に流布していったようにみえます。使う人それぞれに独自の意味を付与できるこの言葉自身をいくら詮索してなにも明らかにはならなりません。ここでは、これまでみてきたように1970年代にはじまった国家・地域で群発的にはじまった新たな資本主義化が底流となり、世紀末に上記のようなかたちで顕在化したと捉え、これにグローバーリズムとよぶことにします。これは19世紀末の帝国主義
インペリアリズムが引きおこした植民地再分割のような世界的規模の構造変化と明らかに異なる、不連続な、しかし、それ以上の規模で世界的な構造変化であるといってよいでしょう。この講義で「現代」とよぶのは、このように定義したグローバリズムの時代です。

このグローバリズムは、単に20世紀のインペリアリズムと不連続なだけではありません。第1回の資本主義の起源でみた西欧を起源とした超長期の資本主義の生成・発展・成熟という一連の発展段階とも不連続にみえてきます。重商主義、自由主義、帝国主義という段階をのせた大きなプレートとは異なる、もう一つのプレートの台頭であるように思えるのです。帝国主義段階のあとに第四の段階としてグローバリズム段階があるというのでは不充分なのです。これもまた「見方」の問題で、論理的にこう考えざるえないという必然性があるわけではありません。複雑な現象を整理するフレームワークにすぎないといえばそれまでです。ただ、ここではこのような枠組みで「現代」を切り取った、このあと現代資本主義論を考えてみたいと思います。とすれば当然、新興資本主義国の内部にも目を向けざるをえないのですが、残念ながら私にはい媽祖の用意はありません。以下で考えるのは、私が目撃してきた日本の資本主義です。これだけでも検討すべき論点は多岐にわたるのですが、残りは4回なので、私の直観で貨幣、労働、技術、環境という4つのトピックに絞り、「現代」の「資本主義」の「理論」についてお話ししてみたいと思います。

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