世田谷市民大学2024第6講


はじめに

前回は、現代資本主義に大きな影響を及ぼしている情報通信技術について、歴史的に通観してみました。目まぐるしく変化するカタカナばかりの現象を追い求めるだけではなく、情報処理とはそもそも何をどうすることなのか、通信技術は生産中心でみてきた経済にどう関わってきたのか、原理的な視点から、一度は鳥瞰してみるのも無駄なことではないといったお話をいたしました。

最終講にあたる今回は「環境」をテーマに取りあげてみたいと思います。この問題は避けて通れない段階にはいったことに、現代資本主義の一つの大きな特徴があるといえそうです。植民地における天然資源開発や20世紀後半の公害問題のような地域的・局所的な問題にとどまらない、地球規模の環境破壊が進むようになったといってよいでしょう。伝統的な南北格差に、先進資本主義諸国と新興資本主義諸国の対立が重なり、環境問題は国際関係をより複雑なものにしています。こうした個別レベルの諸問題に立ちいる余裕はありませんが、ここではなぜ問題がかくも複雑になるのか、環境問題を考える基礎的な枠組みについて考えてみたいと思います。

こうした基礎を固めようとするとき、「情報通信技術」という言葉と同様に、「環境」も入り組んださまざまな現象を包み込んでいることがまず問題になります。しかも、社会的価値観=イデオロギーと強く結びきやすく、学問的な議論がむずかしくなるところがあります。「情報通信技術」の場合は、少なくとも個人のレベルでは“私はスマホはもたない主義だ”と回避できる、いわば好き嫌いのレベルのイデオロギーだったものが、すべての人々を取り囲む「環境」の場合には、善か悪かの本格的なイデオロギーになりがちです。

さらに「環境」をめぐる議論が混乱するのは、この言葉が内包する諸要素の間の複雑な関係です。ここでは脱原発と脱炭素のように、AをたてればBにはプラスだがCにはマイナスだといった相反が何重にも重なり、「環境」なるものの全体について語ることを困難にします。Bに関心があるか、Cに関心があるかで、Aの評価が逆転してしまう可能性があるわけです。

とはいえ、問題が複雑なことをいくら繰り返してもはじまらないので、ここではこの難しさを自覚した上で、逆に思いきって単純化したらどうなるのか、という立場で現代資本主義と環境の問題にアプローチしてゆきたいと思います。“そうはいっても、こういう問題もあるじゃないか”という疑問には“それはそれとしてまた考えるとして、そうした個々の問題によって変わらない全体の枠組のほうをまず明らかにしておこうと思うのです”と— いささか乱暴な門前払いになりますが— 答えておきます。

環境とは

自然

前回の講義では、技術と熟練、技術と科学といった、ある意味で境界線が引きにくい用語が存在するとき、対概念をたてることで、真か偽か、白か黒か、とにかくハッキリさせることで、論理的な推論を可能にすることができるのだという話をしましたが、環境についても同じような言葉づかい、約束事をしっかりしておくことが必要です。ただ、結果はだれもが知っているアタリまえのことになるので、なにか新しい知識がほしい人には煩わしいだけでしょう。そういうときは、我慢して読んでもアタマに入らないので時間の無駄…であれば読み飛ばしてもかまいません。

経済学で「環境」という言葉が使われるようになったのは、かなり最近のことです。おそらくこの用語は、生物学由来の学問の諸分野に広がっていったのではないかと思います。ただ経済学でも古くから、「自然」という用語で「環境」に関わる諸問題は論じられてきました。もっとも社会科学の分野における「自然」という用語は、これまた多義的で実に扱いづらい代物です。

そこでここでも、例によって対概念を考えてみましょう。「自然」の対をなすのは何でしょうか。多分辞書をひくと、反意語としてでてくるのは「人工」でしょう。経済学でも「自然価格」とか「自然利子率」という用語がでてきますが、要するに人為的な干渉なしにある期間を通じて安定しているという意味で、日々変動する「市場価格」や「市場利子率」と対にして使われます。ただこれは、「人工」でないという意味で「自然」の概念を保っていますが、これは環境につながるものではありません。

もう一つ、経済学で「自然」という用語が登場するのは「労働」との対です。たしかに「人工」のものは「労働」で「つくられた」もの man-made です。こちらが「環境」につながる「自然」です。古い時代の経済学にかぎらず、今日の経済学でも、この第二の意味での「自然」の概念は変わりありません。ひと言でいえば、当然といえば当然ですが、人為によって変わらないものというのが基本定義です。リカードの『経済学および課税の原理』のなかに次のような一節が登場します。

地代は、大地の生産物のうち、土壌の本源的で不滅な力 original and indestructible powers of the soil の使用にたいして地主に支払われる部分である。 しかしながら、それはしばしば資本の利子や利潤と混同されている、そして通俗語では、この用語は、農業者によって地主に支払われるものには、何にでも適用されている。 (Ricardo[1817]:67)

ここに「土壌の本源的で不滅な力」というのがでてきます。「本源的」というのは「人工」でないという意味で、そうしたものは使っても壊れることはないというのです。それは「土」のもつ力だというのです。耕作すると地力は落ちてゆく気もしますが、でもそれは適切に肥料を与えれば回復すると考えられているのでしょう。降水量や気温などの条件はたしかに特定の場所に固有なものなので、不滅だといってよいかもしれません。そして、同じように耕作しても、土地によって収穫量が違うので、優等な土地では地代を払っても採算があうというのです。いちばん劣等な土地では地代が限りなくゼロに近づき、この地代ゼロの土地の収穫量(例えば 1/h )に対してそれを上まわる収穫量(1.2/h )をもたらす土地には超過分( 0.2/h )が地代として払われるというリカードの差額地代論はよく知られたものです。経済学では、「環境」の問題は土地に代表される「自然」として捉えられ、主として「地代」とりわけ「農業」地代の問題を中心に論じられてきました。

定常状態

この場合、優等な土地から利用されてゆきますから、人口が増えて耕作地が拡大されるにつれ、劣等な土地が利用されるようになってゆきます。その結果、劣等な土地の収穫量が基準になりますから、劣等な土地がどんどん耕作されるようになると、優等は土地の地代がどんどんふえてゆくことになります。このような拡大につれて、そのなかでいちばん劣等な土地の収穫量が、1/h → 0.8/h → 0.6/h となると、1.2/h の収穫をもたらす優等地の地代は0.2/h → 0.4/h → 0.6/h と増えてゆきます。はじめ地代が支払われなかった収穫量1/hの土地にも、0/h → 0.2/h → 0.4/h の地代が支払われることになります。

労働者の生活水準がこれより下がりようがない水準にあり、そうしたなかで地代がどんどん増大してゆくと、けっきょく利潤部分が減少してゆくことになります。こうして蓄積が増え雇傭が増えてゆくなかで、利潤は減少してゆき、最後に利潤がなくなるところまでゆくと、蓄積がとまり、経済は同じ規模で繰り返されるようになるはずです。こうした状態を定常状態 stationary state というそうです。なぜこの話をしたかというと、人間の経済は環境の問題を考えるとき、ゆくゆくは、あるいはもっと近い時期に、あるいは今すぐに、といろいろ幅はありそうですが、いずれはこの状態に落ち着かざるを得ない、あるいはそうすべきだろうと考えられるからです。

定常状態に関する研究はあまりなされていないのですが、たとえばこのとき、どんどん膨れ上がってゆく地代はどのように使われるのか、地主は経済学では地代の受け皿のような消極的な役割をするだけなのですが、この膨れ上がってゆく地代は生産に使われることはないのか、もしそうするとどういう結果になるのか、といった問題は、もし、今述べたようにいずれは定常状態にゆきつくとすれば、まじめに考えてみる価値がありそうです。

自然力

リカードも自然の「本源的で不滅な力」自体はどの産業でもフリーに(つまりタダで自由に)利用されているといいます。ただ、「土壌」に代表される自然に関しては、優等な条件ほど、量にかぎりがあり、その結果、地代が生じるというのです。農産物や鉱産物のような一次産品にかぎり、生産量が拡大されるにつれて生産性が低下し格差が広がるために差額地代が増大せざるを得ないとされているのです。

『資本論』になると「土壌」から解放された「自然力」の利用が、つぎのように一般的なものとしてろんじられるようになります。

労働手段は、機械として、人力に置き換えるに自然の諸力をもってし、経験的熟練に置き換えるに自然科学の意識的応用をもってする、一つの物質的実存様式をとるようになる。(Marx[1867]:407)

こういう文章はちょっと難しく感じるかもしれませんが、慣れれば何でもありません。せっかくですから、どう読むのか、説明すると、「物質的実存様式」というのは手で触れる機械のことをいっているだけなので“「実存」って五感でわかるものあり方をいうときに使うんだ”とちょっとアタマにメモしておいて、別のところでこの見慣れる言葉に出くわしたときに思いだすことにします。で「労働手段は、… 一つの物質的実存様式をとるようになる。」という外枠を捨ててしまえば、要するに、機械では、蒸気機関や電動モータが人力にとって変わり、「自然科学の意識的応用」というのは前回お話しした「技術」のことですから、熟練が技術にとって変わる、というアタリまえのことをいっているだけということになります。

ただ「どう読むか」で重要なのはこの先です。この解釈を“マルクスも言っているように…” と肯定的にそのまま使う人がけっこういるのですが“あんたは引用魔か、コピーマシンか” といいたくなります。大事なのは“機械:人力→自然力、熟練→技術” という図式でほんとうによいのだろうか、と自分のアタマで考えてみることです。マルクスがいったからといって正しいという保証はないのですから。この作業を解釈と区別して批判(批評)といいます。重要なのは、正しい解釈に基づく的確な批判です。解釈として正しいということと、その内容が正しいということは別です。正しい解釈が間違った内容になっていることもあれば、誤った解釈が正しい内容になっていることも —こうなってしまうものは古典として読む価値がないでしょうが — ありうるのです。現代資本主義とはだいぶかけ離れた話題になってしまいましたが、『資本論』ばかり何十年も読み続け、いろいろな人たちと議論するなかで私が痛感したことなのでひと言。

さて問題をもとに戻すと、“機械:人力→自然力、熟練→技術” という図式の問題点です。結論からいうと、人力と熟練が切り離されてしまっている点にあります。労働力 Arbeitskraft は「人力」Menschenkraft ではありません。『資本論』ははじめ、労働力を人間に特徴的な目的意識的活動として規定し、「人力」を意識的に自己コントロールする能力として捉えながら、後になると事実上「人力」と同じものとみなすようになります。目的意識的活動と広く捉えれば、当然、力をコントロールする「熟練」は労働力の重要なファクタになります。「労働力=身体能力+熟練」というように一体で理解する必要があるのです。したがって労働過程が三つの契機で構成されるのです。この点は第4講の「労働の三契機」でお話しました。

このように労働力という言葉を三つの契機に広げて使うとすると、「人力」に対応させられている「自然力」のほうにも問題がでてきます。この「自然力」は物理的な力あるいはそのもととなるエネルギー源という意味に限定されてしまっています。しかし意識的に応用される「自然科学」は文字通りさまざまな自然現象を対象としているのであり、技術は自然の諸作用を利用するものです。もちろん蒸気機関のような物理的な力もその一部になりますが、それだけではなく歯車やネジ、バネや振り子などの機械を構成する物理的仕掛けはすべて「自然の諸力」と考えるべきです。「自然の諸力」Naturkräfte は物理的な「力」ではなく、広い意味の「作用」をすべて含むことになります。それだけではありません。およそ力とはいえない化学反応も「自然の諸力」によるものですし、植物の光合成だって「自然の諸力」の賜です。コンピュータのハードウェアも「自然の諸力」によるものです。

「機械」は「人工物」ですが、同時に「自然の諸力」の結晶でもあります。「労働力=身体能力+熟練」と考えると、「機械」のような「労働手段」のほうも、「自然の諸力+自然科学の意識的応用」となっているのであり、両者は切り離せないものとなるのです。要するに、「自然」対「人工」という対概念は実は使いものにならないのではないか、という結論になります。『資本論』の先の一節は、よく読んでみると、「自然」対「人工」という二分法の限界が明らかになってきます。『資本論』にこうした限界があると書いてあるのではありませんが、自分のアタマで考えなおしてみると、限界があることに気づくように書いてあるのです。何をいっているのかわかりません…って、要するに、疑って読むと新しいことに気づくような文章だ、ということなのです。鵜呑みにしたらダマされるだけ… というのはいいすぎかもしれませんが。

環境

「人工」物である機械がその反対物である「自然」力の結晶であるといった矛盾に陥ってしまうのはなぜでしょうか。ひと言でいえば、原因は「本源的で不滅な」という自然の規定です。人間のはたらきかけで「つくられる」 「人工」man-made の世界の外側に、人間のはたらきかけによって影響をうけない、純然たる「自然」の世界が広がっている、という自然観が問題だったのです。二つの世界はしっかりした壁で区切られており、壁のこちら側で人間がどんなものをつくろうと、壁の向こう側には「本源的で不滅な」自然が存在するというリカード以来の経済学の枠組みであり、『資本論』も先の引用をみるかぎりでは、この二分法をこえられなかったのです。

労働の概念を三つの契機を含むものに拡大してみると、棉花や綿糸のような労働対象も鍬や紡錘のような手段も、すでに労働によってかたちを変えられたものであり、これから変えられるもの、つまり「つくられる」ものです。その意味では、加工されたものたものです。しかし、その加工は、自然法則にしたがってはじめて可能になるという意味では、自然によってそうさせられたもの、「つくらされた」ものでもあります。どんなに頑張ってみても、念力でスプーンを曲げることはできません。曲げるには合理的な方法で力を加える必要があるのです。人間からみれば、目的意識的につくっているようにみえますが、客観的にみれば、自然法則にしたがった行動を強いられているわけです。労働主体と労働対象の関係は、一方が一方を規定するというのではなく、行ったり来たりの関係です。「自然」対「人工」という二分法は、この作用反作用の関係を厚い壁で切り離してしまうから、矛盾を引きおこすのです。

このように考えると、経済学がずっと使ってきた「自然」という言葉にかえて「環境」という言葉を使う意義がハッキリわかります。労働によってつくりかえられると同時に、労働のあり方を規定している「場」が「環境」なのです。「自然」という言葉に籠められた本源性とか不滅性とかいった性質は「環境」にはありません。逆につねに労働によって影響をうけているのであり、同時に労働のすがたを規定している、こうした状態を「環境」とよぶのです。機械も環境だというと、通常の言葉づかいからはズレるかもしれません。それは「環境」という言葉が「自然」という言葉とほとんど同義に使われているからです。これは、「自然」という言葉が、変わらぬ不滅なものを指したり、「自然の成り行き」とか「自然に治った」とか、理にかなった変化を意味したり、実に多様なニュアンスをもって日常的に使われているからです。現代資本主義の一つの基本問題として「環境」の問題があるという場合、このような多義的な「自然」という言葉から「環境」という言葉を区別して、多少日常的な感覚からはズレますが、厳密に「労働がおこなわれる場」というように定義して使ってゆく必要があるのです。『資本論』ばかり50年も読み続けいろいろな人と議論するなかでわかったことは、“論理的に考える”というのは、けっきょく“言葉を厳密に定義し文法規則に則って矛盾なく語る”ことに尽きるという基本でした。

環境とイデオロギー

イデオロギー

はじめに述べたように、現代資本主義について考えようとするとき、「環境」は避けて通れないテーマですが、経済学の観点から学問的に議論しようとすると難しいことになります。一つにはいま述べた言葉の問題があるのですが、もう一つこれと関連して、つねにイデオロギーの問題が絡んでくるためです。イデオロギーというと、それ自体がまた難しいことになるのですが、ここでは「社会的な通念」「社会的な価値観」という意味でイデオロギーという言葉を用いることにします。テリー・イーグルトンが『イデオロギーとは何か』で述べているような意味です。正しいといっても、理論的論理的に正しいというのと、実践的にこうするのが正しいというのは別です。この後のほうの意味での正しさは価値観といってもよいと思います。

好き嫌いからはじまって“これが正義だ、それは悪だといった”だ道徳倫理にいたるまで、さまざまなレベルがありますが、こうした価値観、価値判断なしには、人間は何も行動できないでしょう。あらためて“なぜそうしたの?”ときかれると説明に窮するのですが、そんな説明ぬきに日々行動しているわけで、そこにはそれなりに一貫した価値観が存在するといってよいでしょう。理屈っぽい人も、なぜその理屈にそんなにこだわるのか、という理由は、理屈では説明できない特定の価値観に基づいているのです。

このなんとなくそうだと思う理由は、個々人の内部で完結しているのではなく、自分が共感できる人たちがそういっているからとか、いやなあいつがそういうから自分はそうはいわないのだ、とか、長年にわたる日常的な経験から形成されたものです。整合的に組み立てられた理論だけで生きている人間をみたことはありません。その意味で、価値観のほうは「社会的」につくりだされ、人々の間でなんとなく共有されているものです。だれか特定の人がいっているというのではありません。それがどんなに著名な人がいったとしても、ある人が“そういっている”ではまだイデオロギーにはならないのです。一般に“そういわれてる”というように受動態で匿名化された社会的価値観がイデオロギーの本質です。

これがトリックで、自分のイデオロギー性というのはなかなかみえないことになります。逆に、自分と違う価値観をもつ人々にでくわすと、“あいつはイデオロギッシュだ”と非難したくなるのです。自分はイデオロギーから自由であり、相手が奇妙なイデオロギーに囚われているようにみえるのです。自分のイデオロギーに気づかず、相手のイデオロギーには敏感であるというイデオロギーの本質をイーグルトンは体臭にたとえていましたが、私はけっこうこれで納得しました… ダマされたのかもしれませんが。

環境

マルクス経済学は、資本主義のしくみを理論的に分析するだけではなく、それがみえないイデオロギーに支配されていることも説明しようとしてきました。私自身は理論に徹するのに精一杯で、あとのほうに手をだす気はありませんが、“後のほうにこそマルクス経済学の最大の意義があるのであり、それをやらない宇野原論はマルクス経済とはいえない”くらいに思っている人もいるわけです。マルクスがエンゲルスとともに若いころ「ドイツイデオロギー」という草稿など多用したイデオロギーという言葉は『資本論』にはほとんどでてきませんが(第1部の終わりに説明ぬきに一箇所登場します)、「物象化」とか「物神性」という言葉で、資本主義のみえないイデオロギーが論じられています。しかし、これには「環境」という問題は含まれていません。こういうと、そんなことはない、と最近のマルクス主義エコロジーの支持者から猛反発を喰らうわけですが、これについては、このあとふれておきます。

もっと重要なのは、資本主義が独自の「見えないイデオロギー」(「白い白馬」と同じ撞着語法になりますが)に支配されているように、環境もそれ自体つよいイデオロギー性をもっている点です。環境は自然科学の諸分野に横断的な共通の対象を構成しています。そのかぎりでは特定の価値観に影響されることのない、客観的な科学的対象です。たしかに、生態系や気候変動などを説明するためには、個別の専門分野に細分化される傾向があったこれまでの研究方法を見なおし、包括的・全体的なアプローチが新たな求められているのもたしかです。しかし、それでも環境が客観的な科学的研究の対象であることは変わりありません。

ところが、経済学をはじめ、社会科学の分野における「環境問題」は、社会的な価値判断と切っても切れないテーマとなります。それは社会科学である以上当然のことと思われるかもしれませんが、かなりレベルが違う気がします。もともとマルクス経済学は、資本主義を前提にしたまま、こういう政策で問題が解決できるという提案をすることはしてきませんでした。だから、役に立たない、といわれてきたのですが、“なぜ解決すべき問題が生じているのか”を客観的に分析することに関心があるものにとって、その場限りの政策提言に興味がないのは、この立場からすれば当然です。この先はちょっと水掛け論になるので立ちいりませんが、ともかく“どうすべきか”に先だって“なぜそうなったのか”を考えることはできるはずです。ところが、かつて宇野弘蔵が主張したこのような「社会科学」の立場で「環境問題」について語ろうとすると、これまでにない困難を感じるのです。

エコマルキシズム

21世紀に入って、エコマルキシズムとかエコロジー・マルクス経済学といった立場の研究が多くでるようになりました。私が読んだのはジョン・ベラミー・フォスターの『マルクスのエコロジー』(2004)という本ですが、『資本論』について検討した第5章をみると、そこでとりあげられているのは次の二箇所のみでした。

一つは第1部の「機械と大工業」の章で「大工業と農業」を論じた次の一節です。

資本主義的生産様式は、それが大中心地に堆積させる都市人口がますます優勢になるに従って、一方では、社会の歴史的原動力を蓄積するが、他方では、人間と土地とのあいだの物質代謝を、すなわち、人間により食料および衣料の形態で消費された土地成分の土地への回帰を、したがって持続的な土地豊度の永久的自然条件を攪乱する stören。(Marx[1867]:528)

もう一つは第3部の「地代」の篇の末尾の章にでてくる次の一節です。

(資本主義的生産様式に伴う) 大土地所有は、社会的な、生命の自然諸法則に規定された物質代謝の連関のなかに、取り返しのつかない亀裂 Rißを生じさせる諸条件を生み出すのであり、その結果、地力が浪費され、この浪費は商業を通して自国の国境を越えて遠くまで広められるのである (リービヒ)。(Marx[1994]:821)

これらの箇所が『資本論』のエコロジーに関わる言及であることは間違いありませんが、『資本論』全体のなかで中心的な役割を果たすものなのか、あるいは関連する事項としてふれただけなのか、検討することなしに、マルクスをエコロジー経済学の先駆にしてしまうのは、環境問題がもつイデオロギーの力ではないかと思えたのです。たしかに、成年男子産業労働者の階級闘争ばかりにウェートをおく旧来のマルクス主義への反発はよくわかるのですが、だからといって、『資本論』の数ヶ所に依拠し、あるいは晩年の引用ノートをひっくり返してみて、マルクスにエコロジストの一面を見いだすというのは、少なくとも経済学として『資本論』を批判的に読んできたものには同調しがたいものがあるのです。

人間と自然との間の物質代謝

ところで、上記の二箇所とは別に、エコマルキシズム以前から、マルクス経済学で「自然」を論じる人々が繰り返し参照してきた第1部の「労働過程」のよく知られた一節があります。

労働は、まず第一に、人間と自然とのあいだの一過程、すなわち人間が自然との物質代謝を彼自身の行為によって媒介し、規制し、管理する一過程である。(Marx[1867]:192)

これを引用して、“労働とは人間と自然との物質代謝の過程である”という人が多いのですが、物質代謝自体は生命体一般にいえることであり、これは何ら人間に固有な労働を規定したものではありません。『資本論』をちゃんと読むなら、この後で、人間はこの物質代謝を目的意識的におこなう点で他の動物とは異なるといっている部分を引用し、労働とは合目的的活動であると規定すべきなのです。合目的的活動については第4講で多少踏みこんで話してみましたし、今回も第1節で「自然」ではなく「環境」という『資本論』にはでてこない言葉を使う必要がある理由としてこの合目的性を指摘しておきました。

この講義では、これ以上立ちいって話す時間がなくて、何とも中途半端なかたちになってしまい残念なのですが、要するにどういうことがいいたいのか、ひと言でまとめておきます。 結論は「人間と自然との物質代謝」では「自然」対「人工」という無効な二分法を克服できないのであり、これにかえて、合目的的活動としての「労働」とそれを支える場としての「環境」という枠組みを設定しなくてはならない。『資本論』の「物質代謝」という用語を踏襲しているかぎり、「自然」対「人工」という二分法を超えることはできないのであり、そこから脱却するには『資本論』のコア部分から批判的に組み立てなおすほかないのだというのが — 内容に立ちいらずに断言してもしょうがないのですが — 私の立場です。多くの人が環境問題に関心をもち、そして市場志向的な経済学ではダメなのではないか、この点でマルクス経済学には新しい可能性があるのではないか、と考えるのはよいことだと思います。ただそれは、『資本論』から関連がありそうな箇所を探しだすのではなく、その根本に立ちいって批判し再構成する以外ないのだ、ということをもう一度強調しておきたいともいます。

現代資本主義と環境

トリミング

環境破壊の問題は現代資本主義に固有の問題ではありません。ある意味では、そのはじまりから資本主義は環境破壊的な性格をもっていました。しかし、この講義で「現代」と規定した時代における環境破壊は、公害問題のような地域的部分的なものだけではなく、地球温暖化のように地球規模のグローバルな性格を強めるようになりました。第三世界における資本主義の勃興はこうした変化の重要な要因だったといってよいでしょう。現代資本主義論としては、この点に焦点をあてて具体的に論じる必要があるのですが、今回も環境問題の一般論に終始してしまいました。ここでは残った時間で、非常に単純化した結論のみになりますが、私の積極的な考えを述べてみたいと思います。ポイントのみの摘記になります。

最初のポイントは、生産という行為は一種のトリミングになっているという点です。労働の基本概念を目的意識的行動と規定したのですが、目的をまず定めて、それに必要な手段を用意し、これを操作するというとき、この手段と目的の間に存在する合理的な組合せは、実はもっと複雑で制御できない環境への影響、環境からの影響に目をつぶることではじめて可能になるということです。米を生産するというとき、種籾がどれだけ、肥料がどれだけ、何時間の手間がかかり、… と手段を考えてゆきますが、このとき吸収する二酸化炭素や排出する酸素はカウントしないでしょう。

1 + 1kg + 10 → 5

のようなかたちで、再現性のある部分だけを切り取り、つまりトリミングすることで、人間が目的意識的に制御できる(かのように見る)ことが、ある意味で「技術」の正体なのです。

コントロールできない領域

「技術」が実は、さまざまなモノの複雑なやりとり(反応過程)の一部を切り取り、操作できるように単純化することに支えられているということは、その周辺にコントロールできない不可測・不可知な領域が広がっているということを意味します。人間が目的意識的に活動できるというのは、目的-手段の関係でトリミングした内部の世界しかみていないからなのです。問題は目的合理的になればなるほど、コントロールできない外側の世界は視野からこぼれ落ちてゆくところにあります。人のイデオロギーには敏感だが、自分にイデオロギーはなかなか自覚できないという話をしましたが、ちょっとそれと似たところがあります。何かを見ようと見つめれば見つめるほど、まわりは見えなくなるものなのかもしれません。

労働を取り巻く環境というのは、この意味では見えにくい、不可知・不可測であるが、とにかく存在(実存)する世界です。これまで

2 +  → 1

という技術だと考えてきたのに対し、地球温暖化の原因として二酸化炭素の排出が問題になり、

2 +  → 1 + CO20.1

というように技術が見なおされることはあるでしょう。これを埋めるためにはたとえば、

CO20.1 + 0.1 → 2

という技術で生産がなされればよさそうに見えます。いままで視野の外におかれてきた環境の一部が可知・可測な領域に移されるわけです。一見したところ、二酸化炭素の排出は抑えられたように思えるかもしれませんが、実はトリミングの範囲を拡大しただけで、二酸化炭素を吸収したことの環境に対する複雑な副作用まで視野に入っているわけではありません。産出された樹木の処理がもたらす影響も同様に考えられてはいないのです。二酸化炭素の削減と温暖化という関係だけが切り取られて合理的にコントロールできるかのように信じているとすれば、それはやはり一種のイデオロギーというほかないでしょう。

人間が「環境の保全」のつもりで、コントロールする領域を拡大することは、コントロールできない環境への影響を結果的に広げてしまう可能性が排除できません。環境は人間が「完全に」コントロールできる世界ではないのです。科学が発展してゆけば、やがては外部にいっさい影響を及ぼさない、廃棄物ゼロの閉じたカプセルのような世界をつくりだすことができるわけではないのです。またそこまでして、コントロール可能な生産の規模を拡大しないといけないと考えるのは、やはり一種のイデオロギーです。成長しないと死滅してまうかのような強迫観念は、それに囚われている人にはけっして見えないイデオロギーなのです。

人口問題

環境問題は人口問題と裏腹の関係にあります。拡大成長を当然視する資本主義のイデオロギーは、人口問題にも影を落とします。人口は等比級数的に増加するのに対して、生活物資は等差級数的にしか増加しないというマルサスに人口論のように、かつては人口増加が問題でしたが、旧先進資本主義諸国では逆に人口減少が懸念されています。今日の日本における「少子化」「老齢化」「人手不足」などは、おそらく第二次世界大戦が出生率に与えたショックとそ余波に起因する、その意味では短期の現象とみるべきでしょう。毎年の出生というフローが人口というストックに与える影響は、出生と出産の間にタイムラグがあるため、けっこう複雑な動態をつくりだすことは人口学 demography の教えるとおりです。一方の口から水が入り他方の口から水が出るタンクのような単純なフロー・ストックの関係とは異なるのです。

その点で、今日いわれる人口減少の懸念が、どこまで長期の動態なのかはわかりません。が、かりに、100年、200年という長期において人口が減少し続けるとしたら、それは長期的に是正するべき現象であるとは思えません。これは理論の問題ではなく、あくまでイデオロギーの問題ですが、私は受け容れるべき現象だと思います。私もいちおう人類の片割れに蔵しているようなので、人類という立場でものをみることしかできないのですが、もし仮に、他の動植物の視点からみれば、これは当然そうあってしかるべき現象でしょう。哺乳類の世界でヒトはあまりにも突出した個体数を占めているのです。いずれは何らかのかたちで、少なくとも増加しない状態にはいること、できればはやく減少に転じることが望まれるでしょう。ただ、人間(のイデオロギー)としては、その減少の過程が、餓死や捕食、災害死など、悲惨なすがたをとらないでほしいと、望むだけです。そしてまた、生活水準が向上すると、出生率が低下するという関係があるとすれば、この望ましい事態に合致するのです。

これはあくまで超長期の話です。短期の今の日本の現実についていっているのではありません。若者の貧困が結婚と集散を困難にしている事実があるとすれば、若者の貧困に対する対策は必要です。ただそれは、出生率を高め人口を維持するために必要な「手段」ではありません。貧困そのもの、若者の就業の不安定性、などの解決が「目的」なのであり、その結果、人口が増えなくてもやらなくてはならない対策です。これまでみてきたように、現代資本主義のもとでは、新自由主義の名のもとで、2000年代以降、高度成長期から培われてきた雇用のしくみが次々に壊されていったのですが、それが生みだした所得格差、資産格差は、市場によって自動的に調整されるようなものではありません。かつての福祉国家イデオロギーが中心に据えてきた積極的な所得再配分が必要なのかもしれません。こうした対策の一環として、老人に対する福祉の偏重を見なおし、若者に対する支援を厚くしゆくべきだという立場もあるでしょう。ただこれを「少子化対策」とよんでしまうことのイデオロギー性に気づく必要があると思います。

資本主義に縮小再生産は可能か

はじめに環境問題はイデオロギーと不可分なところがあると断りましたが、そのうえで私は超長期的には、人口が徐々に減少することを是認します。問題は、人口が減少する世界と、資本主義という経済システムが整合的かどうか、という問題になります。現場でもう少し説明しますが、結論的にいうと、“理論的にまったく不可能ではないが、実際にはかなりむずかしい”というのが私のさしあたりの回答です。問題は

  1. 資本主義がどのような原理に支えられているかという一般論を前提に

  2. もし人口が減少し続けると仮定したら

  3. 資本主義は存続することができるか

です。1.と2.の条件から3.の結論が導きだせるからどうか、「できる。なぜなら…だから。」「できる。なぜなら…だから。」という推論をやってみてください。2.や3.が望ましいとか望ましくないとかいう問題でありません。仮に2.だとすると3.はどうなるか、という客観的に考えてみてください。「現代資本主義論」と題しながら、「論」すなわち「理論」に偏ったこの講座の期末試験の問題としますので、どうなるのか、理屈っぽい講義を我慢してきいていだいたので、ここはぜひ理論的に答えてみてください。

…ということで、以下、略解です。大きく二つに分けて考えてみます。

  1. 生産力が上昇してゆくと、資本額のなかで賃金が占める比率は相対的に低落してゆくと考えると、賃金量は

    $資本額 \times \frac{賃金額}{資本額}$

    となります。資本額が増大してもそれ以上に後の比率が下落すれば賃金総額は減少します。もし賃金額が雇傭量に比例する(時給が変わらない)とすれば雇傭量も減少してゆきます。資本蓄積が急速に進み生産力が上昇しながら雇傭が収縮するという「窮乏化法則」が支配する『資本論』が想定してた資本主義ではこうなるのではないかと思います。人口が減らないとすれば、これは大量の失業者を生み、資本が生産力を高めようと競争する側面は維持されますが、社会的生産を組織するため大量の労働者を雇うという資本主義のもう一つの側面は壊れてしまいます。ただ、このときもし人口がどんどん減少してゆくなら、大量の失業者がでるという困難は緩和回避されるかもしれません。

    この点は、もっと極端なケースを考えてみると、次のような問題になります。もし、生産力が高まるなかでどんどん機械化が進み、かりに完全オートメーションが全産業で実現されたと仮定してます。あくまで仮定の話です。このとき、資本主義は経済システムとして維持できるのか。雇用労働ゼロの極限ですから、「多数の資本が大量の賃金労働者を雇って利潤追求競争を通じて結果的に社会的生産が調整維持される社会」という資本主義の定義からすでに外れてしまいますが、経済システムとして成りたたないかというと、簡単にありえないとはいえません。労働者の消費がないのだから、生産しても売れないのではないかと心配する人がいるかもしれませんが、資本家が自分たちの個人的消費にあてるか、あるいはさらなる蓄積にまわすかするわけで、理論上は需要不足の懸念はありません。あくまで極端な仮定の話ですが、完全オートーションのもとでは、資本主義の生産システムが原理的に成りたたないとはいえないように私には思えます。利潤の根拠は剰余価値であり、剰余価値は労働力商品の価値とそれが新たに形成する価値との差によるという『資本論』の定義からすれば、雇傭ゼロの世界では利潤もゼロとなりそうですが、そうはなりません。すごく原論的な問題になるので詳しくは小幡の教科書などみてください。

    いずれにせよ、『資本論』が想定していたような生産力が急速に上昇し雇傭が縮小する資本主義では、人口が減少しないことが問題を深刻化させるのであり、逆に人口が自然に減少するのであれば、資本主義の存続にプラスにはたらくことになりそうです。

  2. 問題は、生産力がこのようなかたちで上昇せず、人口の減少に応じて、社会的生産の規模を縮小してゆかなければならない状況に資本主義は耐えられるのか、です。つまり、縮小再生産型資本主義はありうるのか、という問題です。資本主義は基本的に拡大再生産の世界だと一般に信じられています。生産手段生産部門と消費資財生産部門の二部門で構成される『資本論』の再生産表式論も、「単純再生産」で基本原理を解説した後、「拡大再生産」の一般論を展開するかたちになっています。「縮小再生産」の図式はでてきません。「縮小再生産」が原理的に成りたたないからでしょうか。私は原理的には成りたつと考えています。

    なぜ成りたつと考えるかというと、それは(1)「利潤が発生する」ということと(2)「生産規模が拡大する」ということは別だからです。資本主義であるかぎり、「利潤が発生する」ことは絶対要件です。もしどの産業でも利潤があがらないなら、資本は生産に投じられないと考えてよいでしょう。しかし「利潤が発生する」とからなず「生産規模が拡大する」とはいえません。「利潤が蓄積される」と「生産規模が拡大する」ことになりますが、「利潤が蓄積されない」なら「生産規模が拡大しない」ことになります。単純再生産になります。さらに利潤以上に消費すれば再生産の規模は縮小します。縮小再生産は、別に生産力がどんどん低下して、利潤が減少するから生じるとはかぎりません。もちろん、リカードたちは、生産の拡大とともに優等地が減少し差額地代が増大して利潤がゼロになるところの単純再生産に陥ると考えたのですが、『資本論』のように生産力は上昇し続け利潤が増大するとしても、それ以上に消費が増えれば縮小再生産にはいることもあるわけです。『資本論』は資本家の蓄積衝動を当然のこととしています。個人企業で考えると難しそうですが、たとえば株式会社を考えてみて、利益は十分上がっているが、それ以上に配当にまわせば、高利潤をあげながら会社の規模は小さくなってゆくはずです。

    こうして、生産規模が縮小しながら、資本主義が持続するというのは、「現実に」ありうるかとえば、可能性はきわめて低いと思うのですが、他方、理論的には不可能な事態ではない、というのが私の回答になります。

    本文で述べましたが、現代資本主義のおける「少子化」「人口減」は短期(といっても第二次大戦の余波の及ぶ機関)の要因によるところが多いと思うのですが、100年200年の長期で考えれば、ヒトの個体数は減少せざるを得ない(させざるを得ない)でしょう。こうした長期を考えれば、かりに資本主義が人口減少を必ずしも背反しなくも、別の理由で資本主義が別の経済社会のシステムに変わる可能性が高いでしょう。

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