第3章 「Das Geld または商品流通」と第3節「Geld」の関係 †第1節は「観念的」、第2節は「代理物」でよいのに対して、第3節では生身の金が必要となる、というかたちで、第3節をひとまとまりにとる意義を強調するか。宇野弘蔵の流れでは、第1節「価値尺度」から生身の金による購買が強調されるので、3節の対比はこの点では意味がないことになる。 世界貨幣について †純粋資本主義においては、世界貨幣は論じられない、論じるべきではない、という青山報告に対して。 「世界」の二つの意味 †
純粋という場合、
産業予備軍でも、世界貨幣でも、絶対地代でも、ある意味では世界性があるということになる。 抽象化の程度が低い、歴史的事実を導入する、という意味で、不純な資本主義像=世界資本主義という俗説的な理解と、抽象化・理論化をどんなに進めても、一元論(「商品経済の論だけで説明できる」というドグマ)をとらないかぎり、隠れた世界資本主義だという批判。 世界貨幣による流通必要量の調整(岩田) †資本の運動によるダイナミックな調整を考えるべきであるかもしれない、がむずかしい。 貨幣恐慌について †青山報告では、これがなぜ、支払手段の問題になるのか、疑問、としてるが、支払=決済は生身の金でないとできない、という意味では、蓄蔵貨幣や世界貨幣と同列の性質をもつ、といってよい。 信用貨幣が求められるのでも、貨幣飢饉は貨幣飢饉、なり †相殺と決済の区別について。マルクスは相殺を一般的に認めているが、ファイナリティの問題は残る。 債権一般にファイナリティがあるわけではない。債権一般が、信用貨幣になりうる科のようにとれる、去年の小幡は誤り、と自己批判した。 「一般的な使用価値」という概念はなりたつか †青山報告にはあるこの用語をめぐって、若干、議論した。 |