2007-03-18 (日) 00:07:39

価値尺度・価値表現(測定)・価値実現

このような屈折した経緯のなかで、スチュアート評をしなくてはならない。ステュアートの計算貨幣をには2つの傾向がある。

この点をステュアートは突いているのだが、マルクスはこれを(意図的に?)看過し、価値形態論を展開した。この論理をステュアートから拾っておけば、価値内在説を、AにもBにもともに内在する労働時間にまで還元せずに、明確にできたはずである。しかし、マルクスの価値形態論は A is x(労働), B is x(労働), so A is B という価値実体論に依存した等置論に読めるものになっている。

宇野はこれに異論を唱えた。A = B なら B = A だと簡単に逆転を認めてしまうから、価値形態論の意味、価格による価値表現と、貨幣のよる購買による価値実現=価値尺度との区別がつかないのだ、表現しただけでは価値を「尺度した」ことにはならない、というマルクス批判につながる。しかし、この宇野の議論は、価値内在説をも否定して、価値形態論は価値の内在性を捨象した、価格論に傾斜する傾向を誘った。

要するに、ステュアートの計算貨幣=価値内在説の萌芽、を明確に読みとることで、マルクスと宇野がともに陥った隘路を抜けでることができる。マルクスの価値内在説が(計算)貨幣をこえて、「第三の共通物」にまで還元してしまい、逆に宇野が流通論では貨幣こそ価値そのもののすがたで、売れていない商品の価値(商品に内在する価値)など在って無きがごときものという形態的価値=貨幣という議論に傾斜したことの間を突破できる。

これがステュアート評の現代的な意味であるというのが今日のはなしをきいたかぎりでの私の感想です。


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