通常、唯物史観というと国家は上部構造に属すると考えられてきた。同じように、家族形態や家族制度も、上部構造の問題だと考えられそうであるが、斉藤報告のおもしろい点は、『家族・私有財産・国家の起源』の「序文」をみると、「二種類の経済」ということで、家族の問題は直接下部構造のファクターとなると論じられているところに注目した点である。物財の再生産と同時に、人間の「再生産」も下部構造の重要なファクターであると考えられるというのである。人間に関して「生産」とか「再生産」とかという規定を適用することが妥当かどうかはおく。表現の問題はともかく、人口問題が下部構造の重要なファクターであるということであり、これはたしかに考えなくてはならない。生産力が上昇すると、人口もこれとの関連で増加するわけではない。生産力に対して、生産関係(ほぼ生産手段の所有関係を意味する)が矛盾するというだけではなく、むしろ、生産力と独立に変化する人口との間に矛盾を引きおこすことが多いようにも見受けられる。下部構造かどうかという「解釈」はおくとして、生産力と人口とを、歴史的な生産様式の変化を説明するファクターと捉える二元論的アプローチは成立するのではないかと思う。
上部構造 | 家族制度 | マルクス主義フェミニズム 生産力一元論 |
下部構造 | 生産力 → 生産関係 |
上部構造 | 家族イデオロギー | マルクス主義フェミニズム 資本主義と家父長制的二元論 |
下部構造 | 生産力 → 生産関係 | |
繁殖力(人口) → 家族形態 |
これは、イデオロギーの問題である。歴史の流れは、普遍的な女性の自立であったとか、あるいは、あるべきである、というのは、特定の価値判断である。このような主張は正しいかもしれないし、そうではないかもしれない。絶対的な意味では決定できない。どうして、このような考え方が登場し、社会的な通念と現在なったのか、この点は後から振り返ってみると、そうなる必然性を見いだすことができる。しかし、将来に対して必然的な決定が支配しているわけではない。過去を振り返ってみると必然的だが、将来に対しては可能性の束が与えられている、と考えるべきである。
リベラリズムとの関連で捉えると、両者はよく似たスタンスにたっている。18世紀末以降の近代化の流れ、啓蒙主義、ないしリベラリズム、市民的自由の領域の拡張という歴史的流れをみると、フェミニズムは、この権利拡張運動のなかから発生し成長してきた。リベラル・フェミニズムという一面でである。ソーシャリズムも同じくリベラル・ソーシャリズム(ソーシャル・リベラリズム=社会民主主義)という一面をもつ。しかし、このようなりベラズムの連続性に対して、諸問題を根本から変革する、諸運動を根本的に一気に解決する、という主張が萌芽する。改良に対する革命である。ソーシャリズムの流れのなかで、マルクス主義はこれを主張した。ラディカル・フェミニズムもやはり、これと同じスタンスをとり、マルクス主義の歴史理論に還元できない、私的で根底的な男性の女性支配を一般的・本源的に捉え、その解決を迫る。20世紀末にマルクス主義が後退するなかで、なお根本的な革命性を求めるイデオロギーとしてラディカル・フェミニズムに走向することもゆえなしとしない。
連続性 | 革命性 |
リベラル・フェミニズム | ラディカル・フェミニズム |
ソーシャリズム | マルクス・レーニン主義 |
マルクス主義・フェミニズムは、同じスタンスにたつ両者を抱き合わせたのだが、スタンスが同じだということは必ずしも整合性を保証するものではない。なぜなら、両者とも唯一本源的な課題が存在するという立場であり、階級関係が根本的(ラディカル)か、男女の差異が根源か、という対立を必ずうまざるをえないからである。
この点は斉藤君の修論面接の際に考えたことである。