2012年度/冬学期
議論した内容 †
- 価値表現では、単純な価値形態ではできず、一般的価値形態ではじめて可能となる、という主張は論証されているか?
- 集合とメンバー
- 排除によって、はじめて商品世界の価値が表現できる、とは?
- 78頁の『資本論』からの引用に対する解釈?
- 「有用性に還元されない商品体の過剰」を素材性とよぶ、ということの意味。83頁
いろいろむずかしい「表現」が多かったので、この章は次回、もう一度、検討する。
今回は、第1節のみでおわった。次回は、第2,3節と、柴崎くんのコメントについて
検討するので、コメントのコメントをここに書いてみてください。
オバタ
柴崎氏のコメントに対するコメント
- 第1の点について
- 第3パラグラフの設例であるが,金が一般的等価物であるときには,茶所有者が茶1kg=金10kgから=金5kgに価値表現を変えた場合,小麦所有者は価値の絶対量の増減は知る由がなくとも,一般的等価物の価値が相対的に下がったとみると思う.
これを以て金の価値が「知悉できない」とされる理由が分からない.
- 第2の点について
- 「価値尺度論においては形式的使用価値が宙に浮く」という表現の謂いが飲み込めない.
購買が行われないと「価値が実現されたとは言えず,価値が尺度されたとも言えない」という意味だとすると,価値が「実現」するとか「尺度され」るということがどういうことか,もう少し説明がほしい.
なぜ商品は購買されると価値が実現されると言えるのか,価値の実現と価値の尺度は同じ意味か,etc.
ehara