純粋資本主義論の再考

2005年6月10日 演習報告

純粋資本主義というタイトル

obata (2005-06-11 06:33:55 (土))

タイトルがよくない、でしょう。
「純粋資本主義論の再考」というのが、内容を表していない。論文の骨格になる泉氏の基本的主張がまだ固まっていない、という気がします。青才さんが指摘されていた、

自立性と自律性

obata (2005-06-11 06:22:43 (土))

橋本さんからの質問ですが、宇野派の原論では、自立性ということで、それ自身ですべての要因が充足できる、という資本主義像が強く打ちだされてきます。再生産とか、経済原則とかいう場合に、とくに問題になる点です。

しかし、労働力に関しては、演習で再三、論じてきたようにかなり微妙な転化があります。労働者個人の維持はともかく、人口の維持や増大がないと、自足的でないかどうか。自立性というのは、拡大再生産でないといけないのか、単純再生産でもよいのか、あるいは縮小再生産でも自律的な運動はしているのだ、というかどうか。

これはもっと抽象的な次元では、剰余をめぐる弾力性、自由度の議論にもつながります。余裕のあるものの自立とはどういうことか、あらゆる社会に共通なものを最低限満たしているかぎり、というは、考えると曖昧な議論だと思います。

純化・純粋化について

obata (2005-06-11 06:08:06 (土))

泉草稿4ページの註について議論:
「対象を模写する方法をも対象に模写する」というのは、理論の展開方法になっていない、というが山口さんの最終判断。「歴史的な事実」(そもそも事実に反するというのが実証家の批判だが)をもって、理論的内容を根拠づけることはできない、という意味だと、小幡は理解。

純化論は、理論展開の前提条件づくりの<方法(A)>。たとえば、三大階級、とか、非独占状態とか、を想定する根拠。この条件のもとで展開される原理論の内容は、たとえば、商品経済的な行動原理で説明できるかどうか、といった独自の<方法(B)>で構成する。対象を構成する<方法(B)>を、対象に模写する<方法(A)>で根拠づけるわけにはゆかない、ということである。この点では、小幡も同意する。(局所的な「事実」で理論を批判したり、それを無理に盛りこんだり、あれやこれやの具体例に理論を拡散したり、というのはうんざり)。閑話休題。

問題はこの先にある。純化の<化>のほうの問題である。このような<方法>としての純化論の否定は、純粋状態を想定してそこで繰り返される関係だけを扱うのだ、ということは同義ではない。純化論の否定が、同時に変容論の否定を意味するとすれば、それは行き過ぎだ、というのが、演習のときに小幡が主張したポイントです。原論は、それ自身かたちを変える、資本主義の多様な相を解明するところに、歴史を理論的に解明する(のだと、という関心のもとに研究されてきた)マルクス経済学の特徴もある。『資本論』の場合、「傾向法則」というとらえ方が特徴的である。宇野の原論は、この傾向法則はおおむね否定。傾向法則のもつ資本主義的発展の定向性が、帝国主義段階の特徴を解明できない、というのがその理由だろう。これ以来、宇野派の原論には、変化を扱う理論一般を拒否する風潮が支配、ちょっとでも<変容>というと、それは「段階論」の問題だ、と鸚鵡返しに答える、理論的感覚の鈍磨。

しかし、原論のなかみをみてみると、実際には変容や多相性を扱う理論的な方法が豊富にある。これは、マルクス経済学としての関心が自ずと涵養した<方法>、たまもの(賜)。ただ、この賜に関しての自覚が欠落。実際にはつくっていながら、<方法>としての自覚が足りない。”わかっているけど、やめられない”の対偶で、”やっているのに、わかっていない”という現象。この方法を対象化して自覚的に洗いだしてみようとしたら、そんな変容を扱う、多様性を同時に示す原論があったらお目にかかりたいものだ、とある先生からいわれて、それって、先生がたがおやりになっていることでしょう、と、あっけにとられた覚えがあります。

ということで、その具体的な理論内容として、演習のときには、貨幣の多様性(金貨幣と不換銀行券)、協業・分業・機械制大工業とか、考えてみたわけです。これらは、傾向法則論とは論理構成の方法は異なります。が、こうした理論は、たとえば表式論とか生産価格論をやるときはだいぶ様子が違うと思うのです。展開方法そのものが違うのです。なんといえばいいのか、分化=発生論というのは一面です。もう少し、おおきな体系構成の方法があって、それが対自的・分析的に明示されていないわけです。

ちょっと論点からそれたかもしれませんが、ポイントは、

純化論 = (方法模写説=事実依存・没理論)+(方法論的変容論)

という二面があり、前者の負の側面を否定するにしても、後者の側面は自覚的にとりだして、批判的に発展させるべきだ、と申し上げたつもりです。

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