宇野三段階論の歴史的限界

段階論的要請からの原理論の純化

マルクス経済学は繰り返し時代遅れになったといわれてきた。マルクス主義が厳然たる権威を誇っていた戦後間もない時期に果敢にその批判的革新を試みた宇野弘蔵のマルクス経済学もまた、今日、同じように見なされている。宇野が批判した正統派はみる影もない。70年代以降、生き残ったマルクス経済学として、宇野の流れを汲むマルクス経済学の陳腐化を難ずる格好の対象になっている。とりわけ、純粋資本主義を想定するという原理論が、その完成度の高きがゆえに硬直、現実不適応、停滞の元凶と目される。たしかに、宇野の原理論をもって基本的に完成したという主張は、原理論以外の領域に関心を寄せる人々からきくことが多いように思われる。しかし、原理論に関心を寄せ研究してきたものとしてみると、逆に、原理論が有する現実的意義を考えると、むしろ、その原理論のうちに解決すべき重要な問題がますます増大しているようにみえる。原理論は理論として抽象的なものではあるが、抽象的であるということは現実と無関係であるという意味で非現実的である、ということではない。現実の資本主義が歴史期に変容し多様であればこそ、それを統括する抽象的な枠組ぬきには少しも現実を理解することはできない。個々別々の現象を具体的分析に徹する姿勢こそ、非現実的なのである。こうした観点から、原理論を捉えかえしてみるとき、原理論の個々の領域における論理展開に瑕疵があるというだけではなく、問題は現実との関連を捉える方法論的な枠組に及ばざるをえない。ここで方法論というのは、原理論をどのように現実に関連づけるのか、という適用方法という意味と同時に、原理論をどのような論理で構成するかという展開方法という二重の意味を含む。もとより、両者は密接に関連しているが、この点は後に述べる。

宇野弘蔵の経済学方法論は、戦後の日本のマルクス経済学の方向に大きな影響を及ぼした。それは、原理論を基礎に資本主義の歴史的発展を解明する段階論を構成し、これに基づいて資本主義の現状分析を試みるという三段階論として広く知られている。しかし、これは後から分かりやすくまとめた一般的解説であり、この方法の必要性を理解するうえで、必ずしも適切とはえいない。この方法の原点、したがってまた核心をなすのは、段階論、とくに帝国主義論にあったといってよい。それは、たとえば、次のような原理論の純化という考え方に端的に示される。

「マルクスの場合は、なお資本主義がその末期的現象を呈するということが明らかにされえなかったので、資本主義の発展は益々純粋の資本主義に接近するものと考えられ、それによって原理論の規定が与えられたのであって、資本主義が新たなる第三の段階を迎え、資本主義的純化の傾向を阻害されることになることによって、原理論を段階論から純化する*1ということもできなかったのである。修正派に対する正統派の争いは、ヒルファディングの『金融資本論』、さらにまたレンニの『帝国主義論』によって、その正しい解決の方向を与えられたのであるが、しかしこの帝国主義論の段階論的規定は、当然に『資本論』自身の原理論的純化を要請することになるのであって、ヒルファディングやレニンのようなマルクス主義の実践的運動かによって容易になされることではなかったのである。しかしこの分離の不充分なることは、現在もなおマルクス主義の理論にとっては勿論のこと、実践運動にとっても決して影響のないものとはいえない。」(宇野弘蔵『経済学方法論』56頁)

典型論と類型論

「資本主義は、最初から世界史的な発展をなすのであるが、この世界史的発展は、いずれかの国を指導的な先進国として展開されてきたのである。(中略)十九世紀におけるドイツ並びにイギリスにおける金融資本の形成による帝国主義の段階というように、いずれもその時代を代表し、後進諸国にその指導的影響を及ぼす先進国の資本主義としてあらわれたのである。」(宇野弘蔵『経済学方法論』45頁、なお51頁、54頁)

段階論の難点

原理論の展開方法


*1 この純化するということに意味は、分離するということであろう

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