宇野三段階論の歴史的限界

マルクス経済学の時代性

マルクス経済学は繰り返し時代遅れになったといわれてきた。『資本論』の刊行自体が、すでに古典派経済学がその権威を失いつつあった時代に、それを徹底するかたちで遅れて登場した観がある。しかし、それもはドイツではなお新しいイギリスの経済学、あるいは歴史学派の流れに対しては理論的な経済学ではあったろう。ところが、ここでもオーストリア学派の理論的な経済学が台頭するなかで、マルクスの労働価値説は批判の標的となる。しかし、こうした批判は『資本論』の一面にむけられたものだった。『資本論』は古典派の価値論批判を基礎にしながら、それをこえて現実の資本主義の動的な運動局面の解明に挑んだところに本領がある。すなわち、資本蓄積論や信用論である。マルクスが自ら刊行した第1巻についていえば、その後半部分が鍵であり、そして草稿状態で残した第2巻、第3巻が、その後のマルクス経済学の発展の理論的前線となった所以である。*1

それだけではない。むしろ、遅れて出発してドイツの現実のとの関係から、マルクスの経済学は現実にあわないというベルンシュタインらの修正主義の主張が登場し、いわゆるカウツキーらの正統派との論争が展開される。こうした状況のもとで、20世紀前半のマルクス経済学を再構築したのは、マルクスともエンゲルスとも直接面識のないオーストリア・マルクス主義者であった*2。かれらを中心に、株式会社を通じて台頭した、巨大企業や資本結合に焦点を合わせた新しい経済理論が、『資本論』のうえに構成されたのである。これは時代遅れの完全競争に理論のベースをおく経済論に対して、斬新な経済学の方向性を打ちだした。株式資本の形成や独占的な市場構造、さらに景気循環の変容や失業の累積など、制度的な要因の重視した、自作農・小生産者などによる異なる生産様式の関係、植民地支配や対外投資の意味などの分析、いずれもマルクス経済学が他に先行していたのである。

こうしたマルクス経済学は、20世紀前半に本格的に資本主義として発展しつつあった日本の現実の分析にはきわめて適合的であった。それは、当時の近代経済学よりも、はるかに現実的な理論として導入され、アカデミズムの領域でも支配的になった。と同時に、それは第1次世界大戦とソビエト革命をへて、マルクス・レーニン主義の社会主義が世界的に大きな影響力を発揮するようになった時代もあった。しかし、固有のマルクス経済理論は、あくまでも資本主義経済の分析を核とするとするものである。この時代にマルクス主義は、植民地・半植民地化した世界に浸透したといってよいが、オーストリア・マルクス主義者に端を発する『資本論』を中心とした新たな経済理論の研究の発展に、日本はたしかに格好の土壌を提供した。こうして、マルクス経済学は戦前の日本において、現実の資本主義分析との緊張のうちに独自の理論的な深化を遂げたといってよい。

マルクス主義経済学が、厳然たる権威たりえた戦後間もない時期に果敢にその批判的革新を試みたのが宇野弘蔵のマルクス経済学であった。宇野自身は、ドイツの修正主義論争や日本資本主義論争に繰り返し論及し、そのなかで自己の方法論の意義を確かめている。その意味では、先行する時代の問題の解決が直接の対象であった。しかし、それは戦後の日本資本主義の現実分析にとって、おそらく意図せざる結果という面を伴い、現状の理解に威力を発揮した。そのポイントは、資本主義経済の発展にとって非市場的な要因がはたす有効性を理論的に明確にしたところにある。宇野は帝国主義段階の資本主義の基本を、商品経済化の流れが逆転した*3傾向に認めた。ここから商品経済に取って代わる国家財政や官僚規制、営利企業や労働組合、農業団体や福祉行政など*4などが果たす役割を重視した。こうした宇野の資本主義像を後ろ盾にして、多くの実証分析が試みられたのであり、そこから戦後高度成長期の日本資本主義の現実に迫ることが可能となったのである。宇野の帝国主義段階論は、基本的に爛熟、没落期の資本主義であり、不況圧力と帝国主義戦争を帰結せざるをえないものとされていた。しかし、宇野の流れを汲む研究では、戦後に日本に関して、非市場的な要因が恐慌を回避し、資本蓄積を増進する効果をもつことを事実上解明する側面が強かった。国家独占資本主義をへて福祉国家論的資本主義へといたる主張に展開していったのである。

しかし宇野のマルクス経済学も、今日、同じように過去のものと見なされている。宇野が批判した正統派は今日みる影もない。そのなかで、宇野の流れを汲むマルクス経済学が、70年代以降に生き残ったマルクス経済学として、新たな潮流が自己の新奇性を際だたせるための絶好の対象物として利用されている。とりわけ、純粋資本主義を想定する原理論は、その完成度の高きがゆえに硬直、現実不適応、停滞の元凶と目される。たしかに、宇野の原理論をもって基本的に完成したという主張は、原理論以外の領域に関心を寄せる人々からしばしば指摘される。しかし、原理論に関心を寄せ研究してきた観点からその現代的な意義を考えると、むしろ、原理論のうちにこそ解決すべき重要な問題が増大しているようにみえる。原理論は理論として当然に抽象的なものではあるが、抽象的であるということは現実と無関係であるという意味で非現実的であるということではない。現実の資本主義が歴史的に多様であればこそ、それを統括する抽象的な枠組ぬきには少しも現実を理解することはできない。個々別々の現象の具体的分析に徹する姿勢こそ、非現実的なのである。こうした観点から、原理論を捉えかえしてみるとき、原理論の個々の領域における論理展開に欠陥があるというに止まらず、むしろ問題は現実との関連を捉える方法論的な枠組に及ばざるをえない。ここで方法論というのは、原理論をどのように現実に関連づけるのか、という適用方法という意味と同時に、原理論をどのような論理で構成するかという展開方法という二重の意味を含む。もとより、両者は密接に関連しているが、この点は後に述べる。

宇野の方法論を完成したものと捉え、原理論や段階論は内的に掘りさげる必要はあるが、その基本像は動かないという先入観にたつかぎり、いずれそれは時代遅れのものとなる。どのような理論も、過去をふまえて現状に向き合うなかで形成される。そして、その現状は大きく変貌を遂げる可能性を含み、現状が変貌すれば、かつての現状は過去となり、新たな理論的な枠組が求められる。それまでのマルクス経済学が時代遅れに見えるのは、時代が大きく変貌を遂げたためといってよい。時代遅れということは、それまでのマルクス経済学を全面的に切り捨てて、新たなアプローチを模索するべきだということではない。それでは過去を清算したことによる新奇さはあろうが、新たな独自性は期待しがたい。今日、問われているのは、このような資本主義の地殻変動をふまえて、過去のマルクス経済学のアプローチの限界を批判し、新たに再構築する作業である。現状が変化しただけなのだから、その現実を分析すればよいというのではない。求められているのは理論の側の再構築なのである。マルクス経済学が時代遅れといわれながら繰り返しその意義を確保してきた根底には、このような批判的な自己更新による。20世紀末に次第に顕著となってきたグローバリズムの流れは、宇野に代表される戦後のマルクス経済学の理論に根本的な再構築を迫る内容をもつ。そこで、ここではまず、宇野弘蔵の経済学方法論の核心と考えるところを概括し、それがなぜ、グローバリズムのなかで見なおされなくてはならないのか、その根拠を示すことにする。

段階論的要請からの原理論の純化

宇野弘蔵の経済学方法論は、戦後の日本のマルクス経済学の方向に大きな影響を及ぼした。それは、原理論を基礎に資本主義の歴史的発展を解明する段階論を構成し、これに基づいて資本主義の現状分析を試みるという三段階論として広く知られている。しかし、これは後から分かりやすくまとめた一般的解説であり、この方法の必要性を理解するうえで、必ずしも適切とはえいない。この方法の原点、したがってまた核心をなすのは、段階論、とくに帝国主義論にあったといってよい。それは、たとえば、次のような原理論の純化という考え方に端的に示される。

「マルクスの場合は、なお資本主義がその末期的現象を呈するということが明らかにされえなかったので、資本主義の発展は益々純粋の資本主義に接近するものと考えられ、それによって原理論の規定が与えられたのであって、資本主義が新たなる第三の段階を迎え、資本主義的純化の傾向を阻害されることになることによって、原理論を段階論から純化する*5ということもできなかったのである。修正派に対する正統派の争いは、ヒルファディングの『金融資本論』、さらにまたレンニの『帝国主義論』によって、その正しい解決の方向を与えられたのであるが、しかしこの帝国主義論の段階論的規定は、当然に『資本論』自身の原理論的純化を要請することになるのであって、ヒルファディングやレニンのようなマルクス主義の実践的運動かによって容易になされることではなかったのである。しかしこの分離の不充分なることは、現在もなおマルクス主義の理論にとっては勿論のこと、実践運動にとっても決して影響のないものとはいえない。」(宇野弘蔵『経済学方法論』56頁)

現実の資本主義が純粋化しなくなったから、原理論を理論的に純化しなくてはならない、というのである。これは一種の逆説である。資本主義に先行する時代であれば、あえて段階論という領域を考えるには及ばなかった。マルクスの時代でも、やはり段階論と原理論とは区別してほうがよいのかもしれないが、しかしそれはできなかったのだし、少なくとも帝国主義段階における区別に比べれば必然性は弱い。逆にいえば、帝国主義段階の分析が目的だから、この区別は不可欠となる、というのである。

こう考えると、段階論を設けるという宇野の方法の核心は、単に資本主義の歴史を段階区分するということにあるのではなく、不純化とはなにか、その要因はどのように捉えたらよいのか、という点にあるということになる。そのために、原理論の理論としての純化も必要となるのである。原理論を純化するというのは、不純な要因を取りだすということの裏返しなのである。不純な要因は非市場的な要因ともいわれるが、非市場的な要因は多様な資本主義をただ相互に比較することで、その類型を規定する要因として浮かびあがるのではない。資本主義の純化という変化のうちに捉えられるべきだという視点である。ただし、この変化は、現実の歴史的な変化ではなく、そこにも投影されるような論理的な変化にある。それが、帝国主義段階でこそ、求められる理論的な純化である。

典型論と類型論

「資本主義は、最初から世界史的な発展をなすのであるが、この世界史的発展は、いずれかの国を指導的な先進国として展開されてきたのである。(中略)十九世紀におけるドイツ並びにイギリスにおける金融資本の形成による帝国主義の段階というように、いずれもその時代を代表し、後進諸国にその指導的影響を及ぼす先進国の資本主義としてあらわれたのである。」(宇野弘蔵『経済学方法論』45頁、なお51頁、54頁)

山口重克氏の「類型論」は、現実に資本主義の多様性を同時代的に、国・地域の特性として、相対的に独立したもの、並列的に対等な関係にあるものとして捉えようとする。したがって、帝国主義段階という時代的な枠も緩和され、むしろ、同じ時代でもドイツ型に対してイギリス型があるというだけではなく、積極・消極というコントラストを強調し、その時代ごとに異なる「指導的な先進国」の存在に注目する、いわゆる「典型論」とは異なる展開となっている。私自身は、この「典型論」がそのまま支持したいというわけではない。ただ、山口氏の方法が、「類型論」という方向に傾斜し、事実上、「アングロ・サクソン型」に対する「ライン型」とか、日本型とか、どこまでも国・地域ごとの個性を、比較によって示すことになっている点を指摘しておきたいのである。

このような比較論にとって、はたして、原理論はどのように関連するのか。『類型論の諸問題』第2部第2章「資本主義経済の比較文化論的類型論」をみるかぎり、C.ハムデン-ターナー、A.トロンペナールス『七つの資本主義』によりながら、営利企業のアンケート調査による比較整理をしているようにみえるのであり、このような内容の類型化にとって、原理論は直接有効であるのかどうか、少なくともそうした適用目的で原理論が構成されているとは思えないのである。

段階論の難点

グローバリズムは第4段階か

重商主義段階、自由主義段階、帝国主義段階という発展段階論に、第四段階としてグローバリズムを追加するというのはいかにも安易である。三段階というのは、資本主義の歴史的発展を、形成、確立、没落という関係で概念的に把握する意味をもっていた。それは単に、歴史的発展段階を歴史的に区分するというだけではない。もし、そうした時代区分であれば、事実に即して何段階にもなりえよう。しかし、それが資本主義がある時代に発生し、ある方向に発展し純化していったが、それがある時期に鈍化し、逆転したというように整理するかたちになっている以上、簡単に第四段階を追加するわけにはゆかない。段階論そのものの構成が当然問われるのである。


以下補足

#include_interwiki(glbwfs,第4回ノート)


補足終わり

商品流通の自立性

重商主義段階に対する疑問。イタリア諸都市にはじまり、オランダに至る商業革命。これに先行するイスラム交易圏。

「共同体と共同体の間に発生した商品交換」という市場観のドグマ化。この商品交換は、物々交換・単純な商品流通(資本なき流通)。商品流通は資本を活動主体として一つの世界を構成する。共同体と共同体の間に発生する部分的・派生的な存在ではない。経済の実体を社会的再生産にあると捉え、市場ないし商品流通はこれを覆う特殊歴史的な形態であるというべきではない。社会的再生産に対して、資本を中心とする発達した商品流通ないし市場は相対的な自立性を有する。

資本主義としてみた場合、イギリスにみられた産業資本による生産編成は、資本主義の一つのタイプであり、これの徹底した純粋像を唯一の資本主義像と見なすことはできない。歴史的には、商業世界はさまざまなかたちで広く形成されてきた。重商主義段階という概念を狭く捉えるならば、従来のイギリス資本主義の形成過程にみられた一つの歴史的なパターンとして規定することはもちろん可能である。しかし、商品流通は古くからあり、しかも共同体と共同体の間に発生するというようなプリミティブな部分交換だけではなく、広汎な地域をむすぶ余剰物交換の場として、商品流通は発展してきた。グローバリズムを捉えるうえで、こうした社会的再生差から遊離しながら、商業活動や金融活動に傾斜するかたちで発展する国家・地域が存在する可能性を示すことになる。この点を理解するためには、従来の原理論における流通論を再構築する必要につながる。これは原論の構成に遡ってみると、産業資本との関係で、商業信用や銀行信用が発生するという捉え方に疑問を呈することになる。

波状的発展段階論

資本主義の歴史をイギリス自由主義段階を中心にした発生・確立・没落という単一の興亡と捉えるのではなく、複数の興亡の波として捉える必要がある。

イスラム圏の商業活動に関しては、遡って調べてみる必要があるが、ともかくこの影響をうけて地中海貿易は勃興した。イタリア諸都市からはじまって、オランダに至る一連の商業的発展の興隆。

植民地型資本主義としてのスペイン・ポルトガルの位置。

これらの先進地域に対して、後発型のイギリス資本主義。重商主義は、ある意味では、後発国・後発地域の一般的特徴。どこでもそれに特有な重商主義がある。

イギリス資本主義に遅れて資本主義化したドイツの帝国主義は、やはり重商主義としての性格をもつ。

これに対してアメリカ資本主義の位置づけ。早期に独立。

ロシア革命・ソビエト連邦の続く第三世界の社会主義。

20世紀資本主義の位置づけ。古典的帝国主義から戦後の福祉国家に至る。

この根本的な転換点として、グローバリズム・新自由主義の台頭。

原理論の展開方法

多様性分析の基本概念

相 phase

対概念のもつ意味

必然性と可能性

論理的必然性と歴史的必然性。

原理論における必然性というのは、論理的必然性である。その核にあるのは、意図せざる結果というかたちで説明できる領域である。しかし、この領域でも、<必ずしもXが成り立つならば、Aとなるとはかぎらない>という推論も可能である。Xならば、Aであるか、Bであるか、いずれかとなる、というかたちで、二つの状況が派生する関係を説明するという論理もありうる。しかし、それが意図せざる結果として発生するかぎり、原論的な推論を用いることができる。

しかし、このような状況の分化は、意図的な作用の関与によっても左右される。ここでは、意図的作用は、成作であったり制度であったり慣習であったり、こうしたものを包括する広義の概念と捉えておく。この広義の意図的作用を含む説明は、原理論と区別しておいたほうがよい。仮に段階論とよぶとすれば、この領域ではないかと考える。原理論の展開方法の観点から、それとは異なる方法を用いているから、領域をわけるという発想が必要なのではないかということである。「歴史的必然性」というのは、問題が多い概念であるが、論理的必然性をこえた必然性があると考えれば、まったく規定できないわけではない。

可能性と偶然性

仮定法(反実仮想)

if X then A, else if Y then B, else if Z then C ....
原理論のいくつかの領域では、A,B,Cという異なる状況が発生する理由を理論的に説明する方法がとられているのではないか。あるいは、このように読み替えたらよいのではないか(原論の内容を変えるのではなくて、解釈の視角を変える)。変容論的なアプローチで原理論を捉えるという場合、従来の純粋資本主義を念頭においた原理論と異なる内容の原理論を構築する必要はない。多くの場合、読み方を変えるだけでよいように思われる。

二つの蓄積様式

蓄積の二様式論自体は理論的に難点を抱えており、そのまま使えるわけではない。ただ、『資本論』の通説的な解釈をひとまず正しいと仮定して、ここでは、理論展開の方法と意義について例解してみる。

一つの考え方は、両者を実在的な過程として捉え、それぞれが交替すると考えるわけである。

「構成不変と蓄積」と「構成高度化の蓄積」といった対概念は、それぞれとして捉えることができる。理論展開として、どちらかに必然的になるというのではない。いずれも可能な蓄積要旨であり、どちらが支配的になるか、条件によって分かれる、というように従来の原理論の展開を読み替えることで、多様性、多型性、多態性を理論的に扱う展開方法となる。

金属貨幣と信用貨幣

通説
商品貨幣金属貨幣流通論で説明できる貨幣
信用貨幣兌換銀行券競争論で説明できる貨幣
フィアット・マネー不換銀行券原理論で説明できない貨幣


私説
商品貨幣物財貨幣金(属)貨幣流通論で説明できる貨幣
信用貨幣兌換銀行券
不換銀行券
フィアット・マネー原理論で説明できない貨幣

開口部の論理

多関節体としての資本主義像

個体と種

「リンネル20ヤール=1着の上衣」というのは、

  • このリンネル20ヤールの価値表現なのか
  • リンネル20ヤールの価値表現なのか
    という問題。あるいは、
  • 「個別的価値」なのか
  • 「種の属性としての価値」なのか
    という問題。

価値の内属性、内在性をどう考えるか。


*1 伊藤誠編『経済学史』の「マルクス学派」にはこの趣旨の「解説」あり。教科書としては不適切だと、半ば確信犯的に展開されている節あり。
*2 このあたりは、未調査。カウツキーはエンゲルスにしたがって、マルクスの難読文字の読解に熟達したはず。ベルンシュタインもイギリスに渡ってエンゲルスのもとに活動していた。これに対して、オーストリア・マルクス主義者として、オットー・バウアー、マックス・アドラー、とくにヒルファディングやローザ・ルクセンブルグあたりは、エンゲルスとも面識はないだろうと思う。手紙の交換もないだろう。レーニンも直接エンゲルスを知らないだろう。このあたり、詳しいかたはちょっと教えてください。
*3 不純化をこういってよいか
*4 並べ方がまずい
*5 この純化するということに意味は、分離するということであろう

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Last-modified: 2021-02-20 (土) 17:32:13