原理論と段階論という区別を小幡は全面的に無視して、要するに、いっしょにしてしまう立場だ、というようにいう人があります。たしかに、私は、発展段階論の課題が、資本主義の歴史を歴史的な三つの発展段階にわけて記述することにあり、こうした歴史記述と、理論的な推論で構成される原理論とを区別する、という立場には反対です。これは純粋資本主義としての原理論は変容を含まないという立場です。この場合、資本主義の変容はすべて原理論の外の問題ということになります。私は、変容ならそれはすべてが原理論の外部で説明される(べきだ)という主張に異論を唱えているのです。だったらおまえは、変容のすべてを原理論のなかで説明するというのか、そんな理論があるなら見てみたい、というのは、ちょっと乱暴です。私はすべてを否定しているので、変容といってもその概念を分析して、どの契機、モメントが理論のそとに、歴史的事実の問題として説かれなくてはならなのか、この点を明確にしてゆくべきだ、と考えているのです。そのかぎりでは、たしかに変容のしくみを分析する方法を原理論自体にも求める立場だといって誤りではありません。純粋資本主義の立場が、それは「原理論の問題だ」としてフタをしてきた問題(たとえば不換銀行券の可能性とか、熟練の解体・商品化など)も原理論の観点から理論化するべきだ、という考えて試論を提示してきました。

ただ、このことは、若いときに原理論の教科書を読んでスラッとわかった(気になっている)頭のよい人、わかりにくい問題はわかりやすく翻訳して、その言い直したものでわかりたがる(=若くして解説者、祖述家の資質のある)人、そして老いて純粋資本主義で頭がガチガチになった人、から見ると、非商品経済的な要因を何でもかんでも持ち込んで原理論をゴチャゴチャにする、没理論、というように映るようです。しかし、これは商品経済外的といったとたんに、もう、あとは野となれ山となれ、すべて同じゴミためか宝の山か、一様な外的条件というようにみえてしまう、思考慣習によるのです。必要なのは、この「外的条件」を分析することです。分けることです。

分けるということこれもまた、すぐに羅列しはじめるのは、センスが悪いのです。理論的な軸がはっきりしないから、あれもあるし、これもあるし、またこっちも気がついたからいれておこう、と細かいところに目が届くのはけっこうなのですが、微細と列挙は同じではありません。微妙な違いが見分けられれば、どこが大きな分岐線かもわかるはずです。両者を混同して羅列するのは、杜撰な思考というほかありません。原理論であるということになると、あれほど繊細な区別にこだわった人が、原理論の外部だといったとたんに、さあ、なんでもありだ、と安易な姿勢に流れるのです。

分けるというのはもちろん、いくらでも細かく分けることはできますが、基本はある特徴に焦点をあて、そうであるか、そうでないか、とビシッと二分することです。もちろんこうした二分法をとると、必ず境界部分がでてきます。そんな単純に白か黒かいえるか、というわけです。「でも事実は・・・・・」といったとき、こりゃあ理論的センスが悪いなと感じるのは、中間的な事実を持ちだす人です。「いや、そんな白黒理論では、この赤という事実が見えないじゃん」というのでしたら、「赤と緑の関係で両断する手もありかも」と考え直しもしようというもの、現実が白でも黒でもないのは承知で、しかし、ある基準、観点、焦点を明確にすると、どちらかになる、そういう基本的な分岐線を見いだすことが理論の課題だといっているのに、次から次と、灰色の事実をならべたてられても、同道巡り。もし現実に近づきたいのであれば、この二分法の下位の階層にさらに二分法を配置してゆくべきです。何でもかんでも同じ階層で並べるから、羅列になるわけです。

話がそれてしまったのですが、ここで申し上げたかったのは、外的条件をひとくくりにするのではなく、そこに分岐をいれるべきだという点です。外的条件といっても、原理的な論理展開から見ると基本的な前提から導出される論理的派生条件、内的条件に密接に関連し、論理展開の方向を規定するような外的条件と、そういう規定性を明確にできない条件に分かれるでしょう。これは、外的条件のほうだけ切り離して分類してもわかりません。原理論の論理展開との関連でみると、はじめて浮かびあがってくる分岐線だからです。このような外的条件を分解して取りだすには原理論が必要になるし、こうした外的条件の作用を明示にしながら原理論も展開されてゆく必要があるわけです。こうしたことは、以前、山口重克氏のブラックボックスという考え方を批判しながら明らかにした点です。

今回の報告(2007-5-11)では、これに関連して、こうした外的条件として、広い意味での主体の行動、意図の関与ということを考える必要がある、ということにふれました。ただ、この意図には「意図せざる結果」として、結果的に意図が意図としては機能しない、という、経済学が昔から繰り返してきたレトリックを指示しました。私自身は、いきなり外的条件のうちに、共同体とか、互助主義とか、といったものをいれてしまうのは、反対です。これは純粋資本主義の裏返しで、何でもいれすぎです。私は純粋資本主義の方法は狭すぎるということをいいますが、理論が理論としての有効性をもつことには、重視しています。意図は排除する必要はないのです。むしろこれをいれるところに理論の展開動力も明確になるので、機械的に外部から観察して記述したような均衡論的な原理論を私は二流の似而非客観主義だと考えています。歴史的事実を無視するのは、主観主義だというようなのは、没理論であり、理論展開が理論展開としてもつ客観性、どういう条件があればどういう帰結が生じるのか、という合理的推論のもつ「論理的客観性」と、事後的な「歴史的必然性」との区別もできない単細胞的理論感覚のためとしか考えられません。

報告のときに「意図といってもそれが、商品経済的な意図か、そうでない意図か、どうやって区別するのかむずかしくはないか」と質問してくれた正上くんには感謝します。その場での私の答えは、意図を予め区別するなんて、そんな没理論なこと、いってるんじゃありません、予め区別して、そのうち商品経済的な意図を原理論に持ちこむなんて意味ないじゃん、意図は全部いれてよいのです、ただ、そのうちにのある種の意図は、意図せざる結果を生む、というかたちで、事実上、無化する、ということがある、そういうかたちで無化する意図の存在を理論的に説明する、意図の区分は理論の内部で可能となるのです、意図を区分して理論化するのではなく、理論かを通じて意図を区分する、ということだ、というような発言をしたと思います。まー、そのときはなかなかいいじゃんと思ったのですが、後から反省すると不十分な回答ですね。原理論との関係で、意図一般を二分しようという趣旨だったのですが、ここまでで、いちおう50点、後は0点です。

不十分なところというのは、実は、原理論のなかに互助的な関係なども意図的な行動としてもちこむかのように説明したことです。意図的行動一般をすべて原理論の内部に持ちこむととれれる前言に反して、そのときに付け加えて発言したとおり、私は原理論の内部にこのような共同体的行動原理ははじめから導入しません。そうした商品経済外的な行動原理までもちこんで、行動原理を理論的にチェックして二分しようとわけではありません。商品経済的な行動原理は、意図せざる結果を生むものとして、外的条件の意味をチェックする側の因子です。チェックの対象ではなく、チェックする試薬のほうです。外的なものをチェックするのだ、という問題関心に引きずられて、迂闊にも推論を誤ってしまい、行動原理のほうまでチェックの対象であるかのように錯覚したのでした。

ここからが分岐です。そこまで、商品経済的な行動原理、最近の言い方でいえば、経済人の想定を認めるのなら、山口さんと同じで、そうした一元的な行動原理で行動したら、結果は一つになる、純粋な商品経済的な行動原理だけで説明できるだけの世界を説くのだから、一つの純粋資本主義を理論的に構成することで、原理論は閉じたモデルを描く、だから、内部に変容の原理はない、ということで終わり、ではないか、ということになる、というのが常識的かもしれません。たしかに、この諸品経済的な行動原理で説明していって、単一の結果をもたらすのような作用がはたらく多くの経路があり、これをたどることで原理論は理論としての一貫性を帯びるのですが、しかし、その経路の節々に一つにきまらないような領域が顔をのぞかせる。商品経済的な原理で決定できないが、なにか外部から条件をもちこんでかたちをきめる必要がある、ということです。商品経済的な原理を否定するものではなく、不足している部分を保管する充填剤であり、その意味で、それは可能性としていくつか候補がある、ということです。商品経済的な一元的な行動原理で説明するのだから、結果も一様になるのだ、という命題は疑ってみる必要があるわけです。一元的な推論因子だったら推論の帰結も一義的だ、ということにはかならずしもならない、という命題です。というのは、初発の内的条件プラス一元的な推論因子だけで、論理系が完結せず、外的条件が節々で挿入されているからです。

私は原理論のは外的条件が作用するのは開口部がいくつかある、ということをいってきました。これは理論的な推論の結果わかる、その意味で、その存在は理論のなかにあるといってよい開口部です。これにどのような性質を付与する外的条件が作用すべきか、これも理論的に要請されてきます。貨幣は金属貨幣になるにせよ、信用貨幣になるにせよ、すべての商品が同じ単位で価値表示するという計算貨幣としての要請は、原理的に説明されますが、それにどのような外的条件で応えるのか、これは一義的にはきまらない、というようなかたちの問題に逢着するのです。開口部の存在は、原理論のなかから<位置>と<機能>の要請は特定できるが、その要請に応える方法は内的条件だけから導出できるわけではない。その実現形態は一義的にきまらない、という二面性をもつというのが私の考えです。こうして開口部に引き込まれる外的条件は、外的条件といっても何でもはいるというわけではありません。すでに述べたように、外的条件と思われるものを分類すれば、複数に分類されるでしょうが、開口部にはまる外的条件はそのうちの部分集合です。この意味で、外的条件は原理論との関連で二分されるわけです。この部分集合を私は「非市場的だが経済的な要因」とよびます。マルクスの唯物史観における二分法と、経済原論における流通と生産という二分法のズレを詰めるなかで辿りついた概念です。純粋資本主義論の市場・非市場の二分法が、経済的・非経済的という二分法と同値化される誤謬を正す意味をもちます。


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Last-modified: 2021-02-20 (土) 17:32:13