価値表現論と交換過程論

obata (2005-07-01 20:34:38 (金))

第二点目。

交換過程を独立に説くことは、物々交換を説くことにつながる。物々交換の困難から、貨幣の生成をいい、商品交換以外には物々交換の可能性がある、とはみないのが、基本的に宇野の立場です。この点はobataも同じです。

交換を求める過程で、結果的に、意図せざる結果として、商品の価値は表出する。はじめから価値がわかっていてそれに適した形態を論じる、という狭い意味での価値表現論、これに対して、交換過程論を貨幣結晶の生成過程として、分けて説くとのでは、個別主体の観点から価値表現の特徴が明らかにならない、というのが、このような展開をとる理由です。はじめに価値概念が独立にあり、それを基準にして、形態の意義と限界を指摘して、最後に貨幣形態が価値表現として適合的だ、というような展開では、価値概念と価値形態とが前後関係になる。obataは、価値概念の生成を形態の展開を通じて、多層的に整理しようとしたわけです。概念の生成論です。これは欲求の変質論というのと表裏の関係にあります。変化、変容という問題を理論的にとらえる、これが婦負らです。価値形態論とせず、あえて「交換を求める諸形態」といったのもこの意味です。

欲求・欲望の内生説

obata (2005-07-01 20:21:20 (金))

今日の議論では、せっかくobataの見解を問題にしてくれたのですが、大きくいってすれ違いが二点あります。まず、第一点目。

沖論文では、この区別が外生的なかたちでとらえられているようですが、商品経済的な関係で人間の欲求・欲望の構造が変異する側面を理論的に説こうとしたのがobataのアイデアでした。これが「欲望の分節化」の意味でした。

拡大された価値形態が、ANDで結ばれるのか、ORで結ばれるのか、という問題も、欲求の変質論です。AND論者は、直接的な欲求から徐々に欲望が拡大してゆき、系列の末端にゆくにつれて、徐々に剰余の性格を強め、奢侈品にいたる、という連続拡大説です。これだと、欲求と欲望の商品経済に固有の分節、そのねじれ、欲望の一人歩き、といった問題が明らかにならない。欲求・欲望の変質過程を理論化するには、AND的な欲求からOR的な欲望、特定の使用価値にこだわらない欲望が派生する仕組みを理論化しなくてはならないと考えたわけです。

報告に先だって

obata (2005-07-01 06:30:07 (金))


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