• 2005.7.1演習報告

報告に先だって

obata (2005-07-01 06:30:07 (金))

  • 原論研究家にはおもしろい問題なのだろうと思いますが、私のような素町人には、ちょっと、取っつきにくいので、問題の背景を少し丁寧に解説してください。「奢侈論争」など学説史的な論点に即して説明してもらえると、議論に入っていきやすいかもしれません。

  • 次の二つの系列の議論が重なっているようですが、まず、それぞれ分けて考えてみて、
    そのあと、関連をつけてもらう方が理解しやすいか、と思います。
    • 『資本論』の「交換過程論」をめぐる問題群A 表現論と交換論
    • 交換の動力をめぐる問題群B(いま送られてきたレジュメの大半ですが)欲求と欲望、必要と余剰、など。

欲求・欲望の内生説

obata (2005-07-01 20:21:20 (金))

今日の議論では、obataの見解を問題にしてくれたのですが、二点コメントしておきます。

まず、第一点目。

沖報告では、この区別が外生的なかたちでとらえられているようですが、商品経済的な関係で人間の欲求・欲望の構造が変異する側面を理論的に説こうとしたのがobataのアイデアでした。この欲求変異の内生説が「欲望の分節化」の本旨です。

拡大された価値形態が、ANDで結ばれるのか、ORで結ばれるのか、という問題も、欲求の変異論に関わるものです。AND論者は、直接的な欲求から徐々に欲望が拡大してゆき、系列の末端にゆくにつれて、剰余の性格を強め、奢侈品にいたる、という連続拡大説です。これだと、欲求と欲望の商品経済に固有の分節、そのねじれ、欲望の一人歩き、といった問題が明らかにならない。欲求・欲望の変異過程を理論化するには、AND的な欲求からOR的な欲望、特定の使用価値にこだわらない欲望が、分化・派生する仕組みを理論化しなくてはならないと考えたわけです。

価値表現論と交換過程論の分離

obata (2005-07-01 20:34:38 (金))

第二点目。

交換過程を独立に説くことは、物々交換を説くことにつながる、物々交換の困難から、貨幣の生成の必然性を説き、商品交換以外に物々交換の可能性がある、とみないのが、宇野の立場でしょう。この点はobataも基本的に同じです。

交換を求める過程で、結果的に、商品の価値は表出する、はじめから価値なるものが先行的に与えられており、ただそれに適した形態を論じる、という「狭い意味での価値表現論」、これに対して、交換過程論を貨幣結晶の生成過程として、分けて説くのでは、個別主体の観点から、意図せざる結果として実現する、価値表現の特徴が明らかにならない、というのが、交換過程論を価値形態論に統合して展開した理由です。

はじめに価値概念が独立にあり、それを基準にして、各価値形態の意義と限界を指摘しながら、最後に貨幣形態が価値表現として適合的だ、というように説く狭い意味での価値表現論では、価値概念と価値形態とが分離され、本質とその現象という前後関係になってしまう。obataは、価値概念そのものを価値形態の展開を通じて、多元に再構成しようとしたわけです。形態論は同時に概念の生成論です。これは、第一点目にあげた、欲求の変異論、欲望の分節化論、と表裏の関係にあります。変化、変容という問題を理論的にとらえる、これが展開の核心です。「価値形態」とせず、あえて「交換を求める諸形態」という、多少ぎこちない表題を付したのもこの主旨だったのです。

  • この市場の変異化作用は、女性と奢侈の関係をめぐって、市場はジェンダーフリーか、といった問題を議論した、5月の斉藤報告とつながっていると思うのですが、斉藤君、どうでしょうか。また、次回の演習のときにでも意見を聞かせてください。 -- obata 2005-07-02 10:56:49 (土)

奢侈論争について

oki (2005-07-03 20:41:00 (日))

報告中に言及した奢侈論争ですが、脚注でもあげた森村氏の学部講義のリーディングリストがビブリオとして優れています。参照してみてください。

http://www.mercury.ne.jp/morimurasemi/semi/biblio-shasi.html

フランスでの奢侈論争のきっかけは、ジョン・ローの実験にもあるようで、ムロンという人は、ローの秘書だったみたいです。

交換過程論と分化・発生論

obata (2005-07-08 07:07:34 (金))

先週の議論していたときから、頭の中でもやもやしていた問題です。

obata/交換過程論と分化・発生論

分化・発生論的に価値形態論を捉える立場は一般にみられるところですが、このなかに、交換過程論は陰を落としている。過程論という側面です。価値形態論は、単なる表現論ではなく、過程論だ、と考えるわけです。このことが無自覚に重ねられると、貨幣形態に到り、貨幣論の進む以前から、簡単な価値形態や拡大された価値形態でも、部分的にその形態で交換がおこなわれている、ただそれには限界があるのでより進んだ形態に発展する、このような交換過程を価値形態論は展開しているのだ、というみるわけです。

交換過程論が、同時に商品所有者を想定している、という点も、この過程論的な分化・発生論の展開に拍車をかけます。商品所有者の立場にたって、そこから実際にこの主体がどう思考し、行動するかを、実際に追ってみる、という、いわゆる思考実験的アプローチ'です。

しかし、obataはこのような過程論的な分化・発生論、思考実験的アプローチには反対です。これは、けっきょく、ある特定の結論に虚偽の現実味を与える、レトリックだと思います。利己的な商品所有者だったらこうするはずだ、というこうするという論拠が、きわめて主観的なのです。その推論をしている主体、つまり論文の筆者がもし自分だったらこうするという直観に過ぎないものが、その一人称を離れて、論文のなかの三人称の商品所有者一般に昇華され移入され、いつのまにか格上げされ客観化されている、と思うのです。思考実験という場合には、よぼど注意しないと、このような合理化を無意識にしてしまう可能性があるのです。微妙で見えにくい論証回避の方法です。

ではどうするべきか。こうするはずと考える論拠を自覚的に対象に据え、そうさせると思われる諸要因、諸契機を一つひとつ明示的に分析することだと思うのです。物々交換しているうちに、だんだん貨幣を用いるようになる、というような、いい加減な過程論は、歴史的な反映論的な過程論以下の寓話でしょう。それはおとぎ話や神話が、現実をそれらしく説明するのと、基本的に同じ説得論法です。いわゆる自然状態を想定し、万人の万人に対する闘争の結果、それを避けるために、自然権を契約によって国家に委託したのだ、といった自然法思想も、それが批判した王権神授説なみに、やはり説話になっている、そんな古くさい、物語ふうの理論からは、マルクスの方法はとっくに脱却していると思います。

価値形態論を「交換を求める諸形態」といったのは、一方で狭い意味での価値表現論を離れることにありましたが、同時に他方で、虚偽の交換過程論からも離れるねらいがありました。少なくとも後者のねらいは潜在的にはあったのです。貨幣を支える諸要因、諸契機を、各形態に振り分け整理してみるという展開にしたつもりなのですが、実際にはobataは、試行錯誤的に貨幣形態にいたる過程を記述しているのだ、というように受けとられたようでした。

このような思考実験的アプローチの欠陥について自覚を深めたのは、株式会社論における、資本結合論をみたときでした。ここで、対等な結合がまずあって、そのあと、それが分化して、支配に興味のない資本家が発生する、というようなお伽噺が誠しなやかに論じられるのをみたときに、これは変だ、と思ったのです。これは現実にあるものを、合理化する説明法でしかない、反映論ではないのか、と感じたのです。分化・発生論は、一枚岩というより、さらに方法的に明確にしなくてはならない未完成な方法でしょう。


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Last-modified: 2021-02-20 (土) 17:32:13