マルクス主義フェミニズムの一元論と二元論の論争から得られるマルクス経済学の課題

市場の変容ージェンダーバイアスからジェンダーフリーへー

izumi (2005-05-08 18:38:02 (日))

泉です。
市場はジェンダーフリーか否かという論点について少し考えてみました。

演習の中で,そもそも商品の起源は奢侈品にあるという趣旨の議論をゾンバルトが行なっており,そこに女性に対する男性の抑圧の萌芽が存在するということでした。つまり,市場はその発生の起源においてジェンダーフリーではない,という論点です。
歴史的事実がどうであったのかという点については私には分かりませんが,資本主義社会の市場がジェンダーフリーか否かという点については,次のようには考えられないでしょうか。

仮に,市場がその発生の起源においてジェンダーフリーでないとしても,奢侈品だけでなく他の生活物資も商品化する資本主義社会の市場においては,ジェンダーフリーになるという考え方です。
労働力が商品化する資本主義社会において,奢侈品に限らず生活物資一般が商品化するとすれば,女性・男性に限らずまずは個体維持のための商品交換が最優先されると思います。そうであれば,その起源においてジェンダーバイアスな市場は,資本主義社会の市場においてジェンダーフリーなものへと変容すると考えられるのではないかと思うのですが。

  • もう一ひねり、ほしい感じですが... -- obata 2005-05-08 22:15:09 (日)

市場とジェンダー

obata (2005-05-08 07:38:41 (日))

以上のようにみてくる(ここでの配列構成では、以下になりますが)と、この問題は市場が外部に対して浸透する性格をもつ点をどう捉えるか、に抽象化されるのではないか、ということになりそうです。市場の外部は一般に生産と考えられているのですが、消費の場も考えなくてはならないでしょう。

市場の貨幣的な価値観の浸透が、家族や地域社会のあり方をどう変容させるのか、そのイデオロギー的作用も含めて捉えることができるわけで、家事労働やその他、出産育児、教育医療等々の一連の場における変成作用が問題になるわけです。そこでは基本的に商品流通的に評価可能なものとそうでないものという、二分法、二項対立図式が支配する、だいたいジェンダー論というのは、即物的な意味での性差を問題にしているとよりは、むしろ二分法支配の一種の象徴として女・男を用いている面がある(というように思えるのですが、これはいわないほうがいいでしょうね)。

市場の外部は、もう一つ生産という場があるのですが、こちらにも市場の原理が浸透してゆきます。生産組織の場における不均質性、ここに広義のジェンダー論がやはり存在する。労働録商品化で、理論上は生産というばが形態的に一律に組織できるのかどうか、このあたりが争点でしょう。資本主義的生産様式=機械制大工業説には問題が残る点は以前に論じたところです。

いろいろ考えてみると、流通論からはじめる経済原論の構成は、どこか、物心二元論的な構成に陥る危険性をはらんでいる、ということになりそうです。デカルト以来でしょうか、ないものにも犯されることにない自我が存在し、これが身体を操る、この身体の拡張として、外界もまた自己=自我の自由に操作できる自我の所有物になる、というロック的な自己所有論への拡張、こうした近代的なイデオロギーの核に、市場ないし商品流通の絶対的な中立性、不可侵性が潜んでいると思うのです。マルクスはだいたいこれを越えようとしたわけで、マルクス主義フェミニズムというのも、この線をいっているのだろうと、期待を込めて傍観している次第です。

市場は中立的か

obata (2005-05-07 21:38:49 (土))

ジェンダーフリーかどうか、はひとまずおくとして、市場がその外部の生産、消費に対して、中立的か、という問題は、原論として明確にしなくてはならない課題です。

一般には市場自体は中立的だ、というように考えて、商品、貨幣、資本を捉えてきたといっていいと思います。外面性説です。

しかし、市場そのものには分解作用もある、外部を変容させる力も具わっている、という考え方もあります。資本となると、この側面が避けて通れなくなるのですが、商品や、貨幣はどうか、ということになると、中立説的なひとも多いでしょう。

貨幣論だと流通手段を中心に理論構成する論者はどうしても中立的になる。外部に消費欲望が存在し、その充足のために交換がなされる、というように見るわけです。したがって、逆に考えると、この流通手段的な貨幣観を消極化して、蓄蔵貨幣的な貨幣観を強調すると、市場が外部に対して受動的な存在、媒介の場、というようには現れなくなる。貨幣の存在は、欲望を変質させ、絶えざる買い換え、更新をよびおこすような市場に固有な欲望を変成させる、というようにみえてくるわけです。欲望の外部性、といったのは山口系一氏でしたでしょうか。蓄蔵貨幣に伴うフェティシズムとか、そうした種類の欲望の変成論、憑依論は、市場が消費に対して強く変質を迫る面を実質的に論じてきたのではないか、と思うのです。

演習のとき、市場はジェンダーフリーか、とたずねたら、おおかたは、そうだ、という感じでしたが、私は少なくとも市場はそれほど中立的な機構、生産と流通の媒介の場、というようには考えていません。資本のもとで鮮明になる、分解作用は、すでに商品規定のところから潜在している、という立場です。

市場はジェンダーフリーか

obata (2005-05-07 07:06:59 (土))

昨日、演習の議論のうちでいちばんおもしろかったのはこの問題でした。

斉藤君が紹介していたゾンバルトの説とか、服部さんの紹介してくれた足立さんの蓄蔵貨幣の強調とか、いずれも市場がそもそもジェンダーフリーではない、といおうとしてしているようですが、一般には、市場そのもの(商品、貨幣まではともかく、そして流通形態としての資本を強調するならば資本も含めて)は、とくに男女の区別が影響を及ぼすことはない、というように考えられがちです。この市場そのものが生産と結びつく、歴史的社会としての資本主義になると、それがジェンダーフリーとはいえない、ということになる、というのが一般的に考えられる線でしょう。市場そのものが、そもそも、ジェンダーバイアスをもつというのは、かなり極左です。

ただ、こうした宇野派にとくに顕著な、もう少し広い意味で、市場が一般的に多少に対して<中立>だという認識、常識化されてしまった一種の宇野派のイデオロギーですが、この辺は反省してみる必要があります。市場は外面的だ、商品はなんにでも付着する形態だ、という捉え方は果たして妥当かどうか。あるいは、この外面性の認識から、分析抜きに、だから市場は消費や生産を変形させることはないのだ、という結論を受け入れてしまうところに、どうも問題があるように思われるのです。

この問題は以前から、世界資本主義的な(といっても、私の個人的な世界資本主義で、ほとんどの世界資本主義論者は、極端な外面説、外来説、中立説です、世界=不純、と取る私の理解は異端ですが)批判、つまり市場自身に二重性、中心と周辺というのような差異を内包する面がある、とい立場が潜在的には存在してきました。市場自体にジェンダーの入り込む余地はない、という結論に到達する背景には、市場の外面性の強調が作用しているように思うのです。しかし、この市場像は抽象的なレベルでもう少し検討し直してみる必要があると感じた次第です。

寸評

obata (2005-05-06 12:30:22 (金))

  • 全体の構成
    構成はまとまっていると思います。後半は、やや同じ論点を同道巡りしている印象がのこりますが。
  • 家父長制とは何か
    資本制と家父長制というのですが、この家父長制の概念がよくわかりません。おそらく、心理学とか社会学とか、という分野で研究されてきた内容があるのでしょうが、それを経済学における資本制ないし資本主義という概念とどう関係づけるためにはどうしたらよいのか、社会学や心理学の研究内容をそのまま説明するのではなく、経済学に関係づけるにはどうしたらよいのか、という観点から、あらためてその内容を検討してはどうでしょうか。

    社会システム論のような方法もあると思います。

  • 一元論と二元論の論争 この点は、用語の問題をこえて実質的に何が争点なのか、まだよく理解できません。一元論が階級関係への還元主義であれば簡単なのですが、ヤングのはそうではないのでしょうね。ハートもヤングも還元主義には反対しているのでしょう。

    資本制と家父長制を強い関連にあるものととられるのか、あるいは相反的な関係にあるとみるのか、このあたりが対立点なのでしょう。

    ただ「一元論と二元論とはともに必要である。云々」(9頁)という本稿の結論的評価はどういうことか、今ひとつわかりません。
  • 資本制について この用語 (資本制と資本主義はここでは区別しないことにします) については、かなり混乱があるように思います。

    「非資本主義的要素である『家父長制』」(7頁)というような場合は、<非市場的な要素>というようにいうべきところでしょう。「「純粋な資本主義」がいかに家父長制と接合して「現実の資本主義」を構成しているか」という場合も、「<市場>がいかにして<家父長制>と接合して<現実の資本主義>を構成しているか」というようになるのではないかと思います。

    従来の宇野理論のなかでは、 市場と非市場という枠組みができていて、 この非市場のなかに、いろいろな要因をくくり込んできました。 このなかにone of them として、家父長制を位置づける、というのが一般でしょう。 しかし、これではまずいのでしょうね。なぜ、どこがまずいのか、説明してみてください。

    本稿を読んでいて、<非市場>という概念はちょっとく注意したほうがいいのかもしれないと思いました。 ここには<原理>と<領域>とが重なっているように思えてきました。

    交換(市場)生産組織国家家族...
    競争
    家父長制
    共同
    規制
    博愛
    ...

    ジェンダーが強く作用する領域、場とそうでない場というのがあるのではないか、と思うのです。たとえば、市場の売買でジェンダーが問題になるのかどうか。生産とか、生活の場では資本主義でもジェンダー問題が無視できないでしょう。このあたりの区別が一つ。もう一つは、家父長制の内容を分析し再構成することで、生産組織なり、労働力の維持機構なりのどのような要素として、いかなる側面に強く作用するのかを、分析してゆくことでしょう。

  • 直接関係ない論点

    いわゆる<純粋化傾向>という場合、それは市場自身に純粋化の動力も具わっているのか、あるいは市場には推進力が弱くて、強力な国家のような力でしか、市場の拡張・進化は進まないのか、このあたりどうでしょうか。

    グローバリズムを考えるとき、いわゆる<競争国家>のような要因が不可欠なようにも思えるのです。形式的包摂ー実質的包摂論などは、逆に資本自身に純化の力を認める議論のようにも思えるのです。市場の分解作用をどう評価するのか、この問題です。

レジュメ

obata (2005-05-04 06:52:54 (水))

この報告のレジュメはメーリングリストで配布されてますが、念のため、ここからもダウンロードできるようにしておきます。
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Last-modified: 2021-02-20 (土) 17:32:13