『資本論』の資本概念は、「貨幣の資本への転化」というかたちで与えられる。 ここでは、
貨幣が資本に転化するverwandelnとはどういうことか。
1861-63草稿(23冊ノート)では直裁に記されている。
Wie wird Geld zu Capital? oder wie wird der Geldbesitzer(i.e. Waarenbesitzer) zum Capitalisten? (MEGA II-3.1, S.5)
『資本論』にしたがうと、商品 --> 貨幣 というかたちで展開が進み、当然、この最後の 貨幣が資本になる、転化するというかたちになっている。
予備的問題:この貨幣は、いかなる貨幣か?「貨幣としての貨幣」か、価値尺度や流通手段も含む 広い意味の貨幣一般か?(これについては、「貨幣増加と価値増殖」4頁、5頁参照)
貨幣が資本規定の中心になる理由はどこにあるのか。
Q:貨幣の資本への転化と同様に、商品の資本への転化ということは考えられないのか。
A:考えてよい。商品による資本<投下>もありうる、と考える。価値をもつものならば出資可能。現物出資。これについては、<投下>のところで論じる。
『資本論』の展開は、貨幣増加から説きおこしながら、途中で価値増殖というかたちに転換する。
Q:どのようにして、価値増殖という概念が導入されたのか?
A:テキストの読み込み。(「貨幣増加と価値増殖」8頁参照)
Q;なぜ、価値増殖という概念が必要となったのか?
A:自己増殖 sich verwerten という概念は、貨幣増加では説明できず、価値増殖が必要となる。
Q:「過程を進みつつある価値」という概念を認めるか?
A:この概念の内実は、価値=主体的増殖説である。その意味でこの概念は誤りである。貨幣増加説に戻るのも誤りである。増殖概念には、価値量という観点が欠かせないが、それは商品の価値でも、貨幣の価値でもない、資本として「過程を進みつつある価値」、第3の価値があるわけでない。
Q:商品の価値と貨幣の価値しかない、とすれば、価値増殖はどちらの価値で生じるのか。
A:貨幣の価値は変わらないと考えれば、商品の価値においてである、ということになる。しかし、貨幣の価値も変わるかもしれない。
ここでおもしろいのは、貨幣増殖が価値増殖にならない例をマルクスが自ら示している点である。すなわち、第二の矛盾の部分である。13頁を参照されたい。その含意は、次の「貨幣の価値」として考えてみる。
ここでのポイントは、「世界資本主義」=ボタンの掛け違え説である。
Q:どういう意味で、何を何と取り違えたのか。
O:一般に貨幣の価値について、どういうような説があるのだろうか。マルクスと貨幣数量説との関係は、どう考えたらよいのか、など。
Q:指数のパラドックスに関して、どう考えるか。
Q:投下と前貸とは同じことである、と解釈してよいのか。
Q:姿態変換は価値増殖という概念にとって不可欠な要件か?
A:否。 転売は増殖のための一つの手段であって、増殖の必須条件ではない。
Q:利潤率はつねに含み益・含み損を含んでいる、といってよいのか。
Q:資本は抽象的には、株式資本である、といってよいのか。
A:個人経営的な資本家像は、理論的には導き出せない。株式資本は不純な要因によってそうなっている、というのであれば、それと同じ意味で、個人資本家も、不純な要因によってそうなっている、とみるできある。