「余剰が形成されるならば,資本の運動が発生する」という命題には,以下の2点で疑問がある.
沖の論考では,「市場像」の対立は主としてそこでの商品が必要物か余剰か,あるいは単純流通か資本流通かという点を巡って描かれており,市場が「交換の場」であるというところには必ずしも疑義が呈されているわけではない. そこでは,市場に内在した形での資本の運動の導出のためには「交換の場」としての市場という理解から見直す必要性が逆説的に露呈されている.
議論されたこと ?スミスとマルクスの市場像の相違(マルクスによるスミス批判の解釈)
スミス:自己労働←|他人のための労働 ||奢侈(ロック)
マルクス: 他人のため
p10のスミスの引用文において、
「ごく小さい部分」・・・自分の労働で生産したもの
「欲求の大部分」・・・交換によって充足する
論文中では、スミスの引用文を、自己労働によって生産されていた部分が他人のための労働によって置き換えられていく、と解釈しているように読める。が、果たしてその解釈は妥当か。また、「ごく小さい部分」は”在る”か否か。”ごく小さい”という表現は、”無い”とも読める。然らば、スミスとマルクスの市場観に差はないことになってしまうのではないのか。
?商品生産と半(非)商品生産について
本論文では、明確に、非商品生産は独立生産者によって行われる、と考えられている。 然し、議論を整理すれば、
・(全面的)商品生産・・・単純商品
・・・資本家的商品
・ 非商品生産・・・半商品
という3つになる筈である。論文中においては、スミスが半商品生産をやっていると考えているのではないか。
?単純流通と単純商品生産が相即不離である、ということについて
本論文中では、上述の命題が主張されているが、此れは如何様にして主張可能なのか。単純商品生産なら単純流通であるということは言えるが、その逆が何故言えるのかが明確に説明されていない。 単純流通であるなら単純商品生産であるという命題の対偶:「単純商品生産でないのなら単純流通でない」 についての反例は容易に存在する。