貨幣に関する記述が、商品の神である、などの抽象的な規定を含む、ということと、価値尺度としての貨幣が「観念的」なものでもよい、ということとは、区別して考えるべき
古典派は、労働価値説(商品間の交換比率の決定)W−W関係+貨幣数量説W-G
マルクスは、労働価値説をW-Gにも適用し、貨幣数量説を批判
労働価値説をとることと、金貨幣説をとることとは、必ずしも同じではない。
金貨幣説 | 反金貨幣説 |
観念的な金貨幣 | 国家紙幣 |
金そのもの | 共同体的象徴 |
として考えらている。しかし、この二分法は表面的な区別である。金か紙か、という外見にとらわれている。
本質は、むしろ、人と人との関係が本源的に信頼できるのか、という 観点のほうがより根源的である。この観点から区別すると次のようになる。
共同性(信頼) | 主体不信 |
観念的な金貨幣 | 国家紙幣 |
共同体的象徴 | 金そのもの |
流通するから価値をもつ、といわれることがあるが、いかほどの価値の大きさをもつのか、考える必要がある。いかほどの大きさの価値をもって授受されるのか、問わずに、流通するという事実だけで、価値がある、というと、あたかも、流通が価値を生みだしているように見えるが、これは論理的な誤りである。少なくとも、コストゼロの紙券を増刷しそれが授受される、と仮定しても、価値を増加したことにならない、可能性はある。つまり、増刷した分は価値を追加しないから、したがって、紙券は増刷分だけ減価して流通する、というように考えることもできる。