「観念的」の二重性

貨幣に関する記述が、商品の神である、などの抽象的な規定を含む、ということと、価値尺度としての貨幣が「観念的」なものでもよい、ということとは、区別して考えるべき

労働価値説と金貨幣説

古典派は、労働価値説(商品間の交換比率の決定)W−W関係+貨幣数量説W-G
マルクスは、労働価値説をW-Gにも適用し、貨幣数量説を批判
労働価値説をとることと、金貨幣説をとることとは、必ずしも同じではない。

金貨幣説と反金貨幣説

通説では

金貨幣説反金貨幣説
観念的な金貨幣国家紙幣
金そのもの共同体的象徴

として考えらている。しかし、この二分法は表面的な区別である。金か紙か、という外見にとらわれている。

服部さんの考えは、むしろ、人と人との関係が信頼できるのか、という 観点のほうがより根源的な分岐の軸である、ということか。この観点を縦軸にして区別すると次のようになる。

共同性(信頼)主体不信
観念的な金貨幣金そのもの
共同体的象徴国家紙幣

貨幣の価値

流通するから価値をもつ、といわれることがあるが、いかほどの価値の大きさをもつのか、考える必要がある。いかほどの大きさの価値をもって授受されるのか、問わずに、流通するという事実だけで、価値がある、というと、あたかも、流通が価値を生みだしているように見えるが、これは論理的な誤りである。少なくとも、コストゼロの紙券を増刷しそれが授受される、と仮定しても、価値を増加したことにならない、可能性はある。つまり、増刷した分は価値を追加しないから、したがって、紙券は増刷分だけ減価して流通する、というように考えることもできる。


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Last-modified: 2021-02-20 (土) 17:32:13