マルクス主義フェミニズムの一元論と二元論の論争から得られるマルクス経済学の課題

市場は中立的か

obata (2005-05-07 21:38:49 (土))

ジェンダーフリーかどうか、はひとまずおくとして、市場がその外部の生産、消費に対して、中立的か、という問題は、原論として明確にしなくてはならない課題です。

一般には市場自体は中立的だ、というように考えて、商品、貨幣、資本を捉えてきたといっていいと思います。外面性説です。

しかし、市場そのものには分解作用もある、外部を変容させる力も具わっている、という考え方もあります。資本となると、この側面が避けて通れなくなるのですが、商品や、貨幣はどうか、ということになると、中立説的なひとも多いでしょう。

貨幣論だと流通手段を中心に理論構成する論者はどうしても中立的になる。外部に消費欲望が存在し、その充足のために交換がなされる、というように見るわけです。したがって、逆に考えると、この流通手段的な貨幣観を消極化して、蓄蔵貨幣的な貨幣観を強調すると、市場が外部に対して受動的な存在、媒介の場、というようには現れなくなる。貨幣の存在は、欲望を変質させ、絶えざる買い換え、更新をよびおこすような市場に固有な欲望を変成させる、というようにみえてくるわけです。欲望の外部性、といったのは山口系一氏でしたでしょうか。蓄蔵貨幣に伴うフェティシズムとか、そうした種類の欲望の変性論、憑依論は、市場が消費に対して強く変質を迫る面を実質的に論じてきたのではないか、と思うのです。

演習のとき、市場はジェンダーフリーか、とたずねたら、おおかたは、そうだ、という感じでしたが、私は少なくとも市場はそれほど中立的な機構、生産と流通の媒介の場、というようには考えていません。資本のもとで鮮明になる、分解作用は、すでに商品規定のところから潜在している、という立場です。

市場はジェンダーフリーか

obata (2005-05-07 07:06:59 (土))

昨日、演習の議論のうちでいちばんおもしろかったのはこの問題でした。

斉藤君が紹介していたゾンバルトの説とか、服部さんの紹介してくれた足立さんの蓄蔵貨幣の強調とか、いずれも市場がそもそもジェンダーフリーではない、といおうとしてしているようですが、一般には、市場そのもの(商品、貨幣まではともかく、そして流通形態としての資本を強調するならば資本も含めて)は、とくに男女の区別が影響を及ぼすことはない、というように考えられがちです。この市場そのものが生産と結びつく、歴史的社会としての資本主義になると、それがジェンダーフリーとはいえない、ということになる、というのが一般的に考えられる線でしょう。市場そのものが、そもそも、ジェンダーバイアスをもつというのは、かなり極左です。

ただ、こうした宇野派にとくに顕著な、もう少し広い意味で、市場が一般的に多少に対して<中立>だという認識、常識化されてしまった一種の宇野派のイデオロギーですが、この辺は反省してみる必要があります。市場は外面的だ、商品はなんにでも付着する形態だ、という捉え方は果たして妥当かどうか。

この問題は以前から、世界資本主義的な(といっても、私の個人的な世界資本主義で、ほとんどの世界資本主義論者は、極端な外面接、外来説、中立説です、世界=不純、という私の理解は異端ですが)批判、つまり市場自身に二重性、中心と周辺というのような差異を内包する面がある、とい立場が潜在的には存在してきました。市場自体にジェンダーの入り込む余地はない、という結論に到達する背景には、市場の外面性の強調が作用しているように思うのです。しかし、この市場像は抽象的なレベルでもう少し検討し直してみる必要があると感じた次第です。

寸評

obata (2005-05-06 12:30:22 (金))

「非資本主義的要素である『家父長制』」(7頁)というような場合は、<非市場的な要素>というようにいうべきところでしょう。「「純粋な資本主義」がいかに家父長制と接合して「現実の資本主義」を構成しているか」という場合も、「<市場>がいかにして<家父長制>と接合して<現実の資本主義>を構成しているか」というようになるのではないかと思います。

従来の宇野理論のなかでは、 市場と非市場という枠組みができていて、 この非市場のなかに、いろいろな要因をくくり込んできました。 このなかにone of them として、家父長制を位置づける、というのが一般でしょう。 しかし、これではまずいのでしょうね。なぜ、どこがまずいのか、説明してみてください。

本稿を読んでいて、<非市場>という概念はちょっとく注意したほうがいいのかもしれないと思いました。 ここには<原理>と<領域>とが重なっているように思えてきました。

交換(市場)生産組織国家家族...
競争
家父長制
共同
規制
博愛
...

ジェンダーが強く作用する領域、場とそうでない場というのがあるのではないか、と思うのです。たとえば、市場の売買でジェンダーが問題になるのかどうか。生産とか、生活の場では資本主義でもジェンダー問題が無視できないでしょう。このあたりの区別が一つ。もう一つは、家父長制の内容を分析し再構成することで、生産組織なり、労働力の維持機構なりのどのような要素として、いかなる側面に強く作用するのかを、分析してゆくことでしょう。

グローバリズムを考えるとき、いわゆる<競争国家>のような要因が不可欠なようにも思えるのです。形式的包摂ー実質的包摂論などは、逆に資本自身に純化の力を認める議論のようにも思えるのです。市場の分解作用をどう評価するのか、この問題です。

レジュメ

obata (2005-05-04 06:52:54 (水))

この報告のレジュメはメーリングリストで配布されてますが、念のため、ここからもダウンロードできるようにしておきます。
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