+ oder の意味 +価値の鏡 これは商品体を価値物に<する>という契機がよわいのではないか。 +凝固体=リンネルの側の労働 これは価値鏡による回り道の論理(第2文)とつながらない。 +拡大された価値形態は、いかなる意味で簡単な価値形態より、価値表現として進んでいるのか。 +価値表現には表現する主体や、なぜ表現するのか、といった意図がないと、成立しないのか。 リカード学派のベイリーへの反撃 ベイリーは、穀物価値、コーヒー価値etc が存在する、といって、価値は相対比率である、主張。 この穀物価値は穀物価格ではないか。マルクスは、ベイリーの相対主義を批判しながら、同時にリカード学派のいたいところをついた、と一定程度評価。この評価は妥当か? 穀物<価値>は価値ではなく、穀物<価格>であろう。リカードは「自然価格と市場価格について」区別して論じている。 マルクスの価値形態論は、価値表現論であり、価値表現ははじめから、つまり簡単な価値形態から価格とするべきであった。 簡単な価値形態:リンネル価値の上衣価格 マルクスは「交換価値」が価値形態だというが、穀物価格にせよ、上衣価格にせよ、価値形態論は《価値》の《価格》による表現、というべきであった。 貨幣形態から価値尺度のところにいたって、《価格》=貨幣価格という意味に限定して、価格という概念をもちだすのは問題である。